四郎ケ島台場跡

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四郎ケ島台場跡

長崎港の入口、長崎市神の島町の先端の島にある。平成19年4月28日に実施した長崎学さるく「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」配布資料による説明は次のとおり。
なお、文化庁平成14年度「近代遺跡(戦跡)の所在調査一覧」「近代遺跡の調査等に関する検討会」544件→50件に、長崎県では、「四郎ケ島砲台」「旧佐世保鎮守府防衛砲台群」「対馬の砲台群」が3箇所が選定されている。

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文化5年(1808)のフェートン号事件で大失態を演じた佐賀藩では、寛永6年(1853)に藩の総力を挙げて佐賀藩独力で四郎ケ島に最新鋭の台場を完成させた。
工事は神ノ島と四郎ケ島とを繋ぐ約150間(約270m)の堤防造りから始まった。
非常な難工事の末、寛永4年7月に二つの島を繋げると、今度は四郎ケ島を石垣で囲み砲台場を築いた。大砲は佐賀で鋳造し、四郎ケ島に150ポンド砲2門、80ポンド砲8門、36ポンドと12ボンド砲を各2門の計14門を備えた。さらに、佐賀藩では神ノ島と伊王島にも台場を築き、合計54門の大砲で長崎港口を押さえたのである。
ちなみに、国指定の史跡で、当時最も装備が整っていた魚見岳の3つの台場には1貫5百目砲2門、1貫目砲5門、8百目砲3門、7百目砲2門、6百目砲1門、5百目砲5門、3百目砲4門の計22門が備えられていた。12ポンド砲が2貫5百目砲とほぼ同じであったから、魚見岳台場が四郎ケ島と比べるといかに玩具のようなちゃちなもので、四郎ケ島台場の大砲が最新式で飛び抜けた威力をもっていたかがよく分る。