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鐙瀬公園と熔岩海岸  五島市上崎山町  

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鐙瀬公園と熔岩海岸  五島市上崎山町

福江港ターミナルから鬼岳麓の海岸沿い県道165号線により崎山・鐙瀬海岸の方へ向かう。約15分ほどで鬼岳登山口に着き、この下の方に鐙瀬公園と熔岩海岸がある。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。

鐙瀬公園

鬼岳火山から流出した溶岩が、青く澄み切った海に延々7Kにわたって流れ込み、変化に富んだ海岸線を形づくっている。温暖な無霜地地帯で、至る所に亜熱帯植物が繁茂し、情熱的な花木が咲き乱れ、美しい景観を呈している。
永正4年(1507)、第16代領主囲公が、妹婿の玉之浦納に攻められた際、馬でこの地まで逃げたが、鐙がきれ、小舟で沖にある黒島に落ちのびたが反逆党は黒島に迫り、公は自刃した。以来、鐙瀬と呼ばれるようになったという。
1969年、昭和天皇・皇后両陛下が御散策された。

八幡神社のクワズイモ自生地とシイ  五島市下大津町

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八幡神社のクワズイモ自生地とシイ  五島市下大津町

福江港ターミナルから鬼岳麓の海岸沿い県道165号線により崎山・鐙瀬海岸の方へ向かう。下大津町は五島市街のはずれで、八幡神社は県道沿い左に参道鳥居がある。
クワズイモはサトイモによく似ているが、芋ができず、有毒であるからであるという。自生地が神社裏手の海岸側にあり、市天然記念物に指定されている。

境内の社殿右側広場に、シイのかなりの大木を見た。社叢全体はよく見なかった。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」天然記念物・植物による説明は次のとおり。
クワズイモ

種別 市指定天然記念物 指定年月日 昭和43年4月1日 所在地 五島市下大津町630番地八幡神社境内 所有者 八幡神社
クワズイモは南方系のサトイモ科の植物で毒性があり、葉はサトイモの葉によく似る。
このクワズイモは、四国・九州の南部・琉球から亜熱帯・熱帯に分布し、湿った木陰に生える多年草である。
五島市には、指定地の八幡神社社叢以外にも、男女群島・黄島等に見られ、南方より根茎が潮流により運ばれたり、実が鳥類により運ばれたりして繁殖したものと考えられる。
夏季には仏炎包の黄白色の花をつける。北限植物であるため学術的に貴重なものである。

八幡神社社叢

種別 天然記念物 指定年月日 未指定 所在地 五島市下大津町630番地八幡神社境内
所有者 八幡神社
社叢の状態は密生ではないが、特殊な樹木と草本がある。シナエンジュは豆科植物で中国原産である。根周り3.7m、目通り周り1.5m、秋には肉質の連珠状の種子が垂れ下がる。ナギの大木は根周り2.7m、目通り周り1.6m程であり、これほどの巨樹になるのは珍しい。ヤブツバキ2本も目通り周り1.4mあって、保護の必要がある。
その他マキの大木やクスノキ、チシヤノキ、ハゼノキ、ヤブニッケイ、タブノキ、ユスノキ、シイノキ、センダン、モチノキ、クロガネモチ等がまばらに生えている。以前はイソヤマアオキが多く見られたが今は絶えている。
社叢中にあるクワズイモは、市指定の天然記念物となっている。

武家屋敷のナンヨウスギ  五島市武家屋敷2丁目

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武家屋敷のナンヨウスギ  五島市武家屋敷2丁目

武家屋敷2丁目の通りにある「武家屋敷通りふれあい館」は、市文化財に指定された武家屋敷の遺構を生かして建設された。入場は無料。休憩所としてくつろげるよう、茶を楽しめる和室、喫茶コーナーがあり、イベントホールの外、展示ホールには歴史写真を展示している。
ナンヨウスギの大木は庭の奥の方に立つ。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」天然記念物・植物による説明は次のとおり。
ナンヨウスギ

種別 天然記念物 指定年月日 未指定 所在地 五島市武家屋敷2丁目1番20号
所有者 五島市
市指定史跡「福江武家屋敷跡」は、現在「福江武家屋敷通りふるさと館」として、保存、公開されているが、その裏庭に日本では珍らしいナンヨウスギが、天高く異様な葉形と姿を見せている。
この樹は南方系のもので、以前の所有者であった播磨氏が南洋から鉢植えの盆栽として持ち込んだもので、貴重な樹木である。武家屋敷の保存とともに、この樹も樹齢極限まで保護したいものである。根周り2.1m、目通り周り1.9mで樹勢旺盛、枝葉も整っている。

常灯鼻  五島市福江町

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常灯鼻  五島市福江町

五島市指定史跡「常灯鼻」は、福江港ターミナル近くから北西方の漁協などがある岸壁を見るとすぐわかる。福江川河口の海岸通りを行き、港大橋を渡ってこの突堤へ着く。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。

福江港の常灯鼻  ◎福江港内

第30代五島盛成が福江城(石田城)を築く際、北東から吹き寄せる巨浪を防ぎ,築城工事を容易にするため,城代家老松尾頼母を総監督とし,蔵奉行小田幸右衛門を現場責任者として築かせた。
弘化3年(1846)5月に完成し,さらに丸木よりの導水堤(防波堤)ができあがったのは嘉永元年(1848)。築城術の発達した江戸時代末期の造りだけあって、造築以来百余年,激浪に耐え,出入の船舶を守り、秀麗な姿を水面に映し、城下町ムードを盛り上げている。

明人堂  五島市福江町

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明人堂  五島市福江町

福江港ターミナルから福江商店街へ入る。奥浦方面への県道162号線により唐人橋へ向かうと、橋の少し手前左方に五島市指定史跡「明人堂」がある。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。

倭寇の守り神・明人堂  ◎福江港から歩いて10分

天文9年(1540)、当時東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の王直は、通商を求め福江に来航した。財政的に苦しんでいた領主宇久盛定公は喜んで通商を許し、城下(江川城)の高台に居住地を与えた。これが現在の唐人町である。
その一画に王直ら中国人が、航海の安全を祈るために廟堂を建立し、その跡が現在の明人堂であると云われている。王直はその後、平戸に居を構え、倭寇の大頭目に転じていくことになる。以前は明人堂のそばに、交易の時に使用したと思われる荷揚げ場が残されており、付近一帯が交易の場として栄えていたと思われる。
現在の新しい明人堂は、官民一体となった建設資金の募金活動により、島内外の浄財を集め建設されたものであり、建設にあたっては石材等は中国から取り寄せ、中国風の瓦葺きや壁画は中国の工人の手によりなされたものである。

六角井(ろっかくいど)  五島市江川町

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六角井(ろっかくいど)  五島市江川町

福江港ターミナルから福江商店街へ入る。奥浦方面への県道162号線により唐人橋へ向かうと、橋の少し手前に案内標識があり、県道から右方路地へ入るとすぐ県指定史跡「六角井」がある。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。

倭寇の遺跡・六角井戸  ◎明人堂のすぐそば

倭寇の頭目・王直が、当時深江と呼ばれていた福江に来航し、藩主に通商を求めたのは天文9年(1540)である。江川城主第17代宇久盛定は、海外貿易の必要を認め、財政再建のため通商上の黙約を結んだ。そして彼らに居住地(現在の唐人町)を与え、更に飲料、船舶用水として江川城本丸下に井戸を掘らせた。これが六角井戸である。
平戸市にある六角井より早く造られたこの井戸は、井戸枠(広いところで125センチ)を六角形に板石で囲み、井戸の中も水面下まで六角形の井壁が板石で造られているので、ちょうど六角柱を地中に立てたような形になっている。
五島における倭寇時代の貴重な遺跡の一つである。

六角井近くのナタオレノキ  五島市福江町

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六角井近くのナタオレノキ  五島市福江町

福江港ターミナルから福江商店街へ入る。奥浦方面への県道162号線により唐人橋へ向かうと、橋の少し手前の左手の一角に、大きなナタオレノキの木があり、説明板が付いていた。県道向い側には県指定史跡「六角井」があるところである。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」天然記念物・植物による説明は次のとおり。
ナタオレノキ

種 別 天然記念物  指定年月日 未指定  所在地 五島市末広町
ナタオレノキは、別名サツマモクセイといわれているとおり、モクセイ科の植物で、10月中旬ごろ香り高い純白の花をつけ、街行く人の心をやわらげている。以前は、河川改修前の福江川がナタオレノキのたもとを流れており、川のせせらぎとともに、風情が漂っていた。
この木は雌雄異株の植物で、雌樹は少ないといわれているが、このナタオレノキは雌樹であり、老木ながら生気は盛んで、根回り10m、樹高8mの大木となっている。ナタでも折れる堅さから、この名が付いたと思われる。長崎県では、男女群島、奈留島船廻神社の社叢、平戸南部、中通島北部、対馬南部の神崎半島などに見られる貴重な植物である。

五島市の桁石橋  石田城蹴出門の石橋・岩川の石橋  

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五島市の桁石橋  石田城蹴出門の石橋・岩川の石橋

五島市に残る桁石橋の2橋。アーチ石橋の「石田城本丸眼鏡橋」は別項を参照。
「石田城(福江城)蹴出門の石橋」は、福江港ターミナルから「五島観光歴史資料館」の通りへ出て、外堀公園の通りを右回りして行くとある。左回りのときは、本丸眼鏡橋から心字池前を通り城外へ出る門が蹴出門である。

「岩川の石橋」は、福江小学校側から武家屋敷通りを抜け、城山町バス停から路地へ入る。または最教寺前の市道を通って行く。
HP「長崎県石橋を訪ねて 長崎の石の桁橋等」による説明は次のとおり。

写真   1   第K−050番  石田城蹴出門の石橋    五島市池田町
嘉永6(1857)年  長さ  m  幅員  m  スパン  m
五島市の石田城の石橋と言えば、この橋が上げられる。本丸眼鏡橋と言っても五島市民でさえ知らない人が多い。かつての石田城の通用門に当たる蹴出門は、幾度かの改修は加えられたものの、江戸時代最後の城としての風格が有る。

慶長19(1614)年、江川城(現在の五島第一ホテル周辺)を焼失したため、寛永14(1637)年に石田陣屋を藩庁にした。盛成は海辺への築城に際し福江川河口に、今日でいう灯台にあたる常夜灯「常灯鼻」を弘化3(1846)年に建設した。幕末の嘉永2(1849)年、五島盛成の代に築城が認められ、最後の藩主である盛徳の代になった文久3(1863)年、ようやく念願であった居城を完成させた。
同時期に着手した松前城が僅か5年で完成したのに比べ、竣工までに14年の歳月を要したのは海城の特殊性もあったろうが、松前城はいわば国家事業として築城されたのに対し、一小藩の事業であったという財政上の理由が大きかったと思える。

写真   2   第K−048番  岩川(ゆわがわ)の石橋   五島市上大津町(城山・山崎)
岩川の湧水水場の石橋
年代は不詳では有るが、同形式の水場(かもん川)が永正4年(1507)に造られている。
長さ m  幅員 m  スパン m
武家屋敷通りから脇道に入り善教寺の前にでる。そのまま市道を進むと左手下に水場が見える。今歩いている道の下から湧いている。その水は清浄で今でも飲めるという。岩川の水場だ。
島原の湧水の水場でも同じだが、飲用や炊事に使う水は上流側。橋の下流の水場は洗濯や雑用水に使われている。川底にも石張りが施され、橋もカッチリと組まれている。

20年ほど前に書かれた案内看板は判読しがたいが、藩政時代には入り江が、この近くまで迫り貿易船の用水としても使われたという。郡家真一氏が、昭和49年に発行した「五島物語」に寄れば、鎖国後も中国・朝鮮との密貿易が行われていた五島藩の歴史の一端が思い出される。

五島市に残るアーチ石橋

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五島市に残るアーチ石橋

五島市に残るアーチ石橋は、1橋である。五島市池田町の「石田城(福江城)本丸眼鏡橋」。
福江港ターミナルの通りからすぐ見える建物は「五島観光歴史資料館」。 石田城本丸眼鏡橋は、この裏手となる長崎県立五島高校の正門入口にあるので、外堀公園の通りを回って行く。
同城の「蹴出門の石橋」と市街「岩川の石橋」は桁石橋であるので、別項を参照。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真      第 103 番   石田城本丸眼鏡橋    福江市池田町
嘉永6(1857)年  長さ 8.6m  幅員 約4.7m
石田城祉は県立五島高校になっている。
日本で最後に出来た城、石田城の石橋と言うと外堀に架かる桁橋ばかりが紹介されるが、城内に入っていくと立派な石造アーチ橋に出会える。