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野母崎の散策 (4) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

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野母崎の散策 (4) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(4)は、高浜の風景・史跡。高浜の続き。

県営高浜ダム、三浦能仲を祀る三浦神社、浄水場の水神と道の地蔵、大野の大石と祠、大石の川上流の滝、長崎市立高浜小学校、弁天山の農道途中から高浜海水浴場を望む、弁天山(祗園山)の厳島神社と展望

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真  9〜     三浦神社
髙浜の開祖、三浦能仲を祀った神社です。髙浜を開いた人は二つの説が有ります。
一つは、平家が滅びた頃一人の武将(三浦能仲)が家来と家族を連れ殿隠れ山に隠れて、しばらして麓に降り城山に仮の城を建て住んでいたそうです。そのうち人々が集まりそこに髙浜村が出来たという言い伝えが有ります。
別の説では、戸八浦(長崎半島付近)の地頭をしていた深堀能仲と同一人物だとの話もあります。詳しい資料がないので詳細が分からないそうです。
天明元(1781)石碑建立、大正7(1918)拝殿新設、昭和56(19811)拝殿再建。

写真 12〜     大野の大石
大野の字名石鍋の近くに大きな岩が有ります。字名からして石鍋を作っていたと思われますが、その形跡が有りません。近くの人からは石垣の材料にしていたと聞きました。

写真 19〜     弁天山の厳島神社
髙浜小学校の下を通り海岸にでると登り口が有ります。畑を直に登ると早いんですが、農道があります。携帯電話のアンテナの横から林の中に入っていきます。途中の道では海水浴場や殿隠山、遠見山がよく見えます。
頂上には弁財天と厳島神社が祀っています。展望台もありそこから北を見ると以下宿から野々串の景色が美しいです。浜添公民館の弁財天は、山の上まで参りに行くのは大変なので仮の参拝所として設置しているそうです。

野母崎の散策 (3) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

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野母崎の散策 (3) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(3)は、高浜の風景・史跡。野々串は前項。高浜は続く。

野中の延命水と碑、高浜の字名由来考掲載の碑文、長崎県立野母崎高等学校、長崎市高浜地区公民館・高浜連絡員事務所、長野観音堂(長野公民館に建て替え)、高浜村役場跡と門柱、高浜農林公園、高浜保育園、正瑞寺(放光山・浄土宗鎮西派)、正瑞寺の地蔵銅像(長崎市指定有形文化財)、正瑞寺墓地の宝篋印塔(ほうきょういんとう)等、正瑞寺墓地から望む町並み、金徳寺(光福山・浄土真宗大谷派)

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。正瑞寺の地蔵銅像写真も同HPから。

写真  1〜     野中の延命水
むかし、大きな松が有ったそうです。松の根元には大きな穴が空いており人一人がたてるぐらいの大きな穴だったそうです。松の近くに湧き水があり、岬の観音様に巡礼に来る人たちの休憩所だったり、戦地に行く兵隊さんをここで送ったりしたそうです。
松の穴は雨露をしのぐ為にも使ったようで、大正3年(1914)巡礼さんの火の不始末で松が燃えてしまい、今ではその形跡も分かりません。

写真  6〜     長野観音堂(観音菩薩、念仏塔)
現在、長野公民館に建てかえられています。以前は髙浜本村に多くの信者がいたそうですが、戦後少なくなったそうです。観音堂には二本のえの木が有りました。一本は観音堂の右後ろ(今は無い)、もう一本は階段付近。子どもたちがよく登って遊んでいたそうで、木から落ちた子どもも数人いましたが、一人も怪我をしなかったそうです。
木製の古い観音像が有ったそうですが、立て替えの時処分されてしまった。建てかえの時、手洗い石とお地蔵様はえの木のそばに移動。

写真 13〜     正瑞寺(放光山・浄土宗鎮西派)
寺伝によると1207年、三浦(深堀)能仲の創設で、中国の唐から来た禅宗の玉谿公大禅師(ぎょくけいしゅうこうだいぜんじ)を開山上人(かいさんしょうにん)とし建てたといわれています。しかし、能仲が地頭となったのは1255年のためその年代が不明である。
深堀文書では正平1年(1346)高浜時綱が正綱に高浜を相続させる時、弥陀安を僧として寺を建てたと記されている。最初は、現在の寺の上(寺屋敷の地名がある)の地に建てられたが、深堀族の殿様が現在の深堀に居城を移したため、荒れ寺になってしまう。
慶長19年(1614)長崎の大音寺を開いた法連社伝誉徹大和尚(ほうれんじゃでんかんてつ)が、当時、野母、蔵徳寺に行き、叔父僧・定誉孝春(じょうよこうしゅん)を尋ね帰る船の上、不思議な夢をみた。
それは荒れた寺の中から光がさし、仏様が現れ、「この寺を復興せよ」との有り難い夢をみ上陸して不思議な夢で見た地形と寺を探して、正瑞寺にたどりつき本尊を拝み、お姿の尊さに感じ、この寺を復興して、浄土宗と改宗して念仏の教えを広めることにした。
浄土宗に改宗し、高浜の人は皆、檀家となっていたが、4代直蓮社廓念和尚(じきれんしゃかくねん)のとき、庄屋との間に争いがおこり檀家を変える騒ぎがあり、信者が少なくなり寺は衰え住職はいなくなった。
慶長19年(1689)三浦八兵衛がこれを憂いて、田地、山林を寄贈して、我が子を大音寺に出家させて僧となし、後に6代 證巖良(しょうがんりょう)和尚となりその後、寺が盛んになった。

写真 15〜     正瑞寺地蔵銅像(市指定有形文化財)
銅造りの地蔵菩薩の像は、中国明末の様式を伝えており崇福寺の像と同じ流れの一つであろう。掌い宝珠を乗せ顔の表情も写実的であり、後頭部や胸部の状態が肉感的小指のつめ等細部にわたり、写実風の特異な表情を持った像である。
江戸時代初期(1674)の鋳銅像で、高さが86.7cmもあり、このような大きなものは近世仏像の中では貴重な作例といわれる。

写真 17      正瑞寺墓地の宝篋印塔(ほうきょういんとう)等
正瑞寺の小高い丘の上には深堀家に関係すると思われる十数基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が有る。高浜小学校を拡張したとき弁天山の麓にあった物を掘り出し移動した。

写真 20〜     金徳寺(光福山・浄土真宗大谷派)
1588年深堀家惣領家18代純賢は、大村藩の領土長崎へ出入りする商船を差し止めた事が海賊行為とみなされ、秀吉の怒りをかい、深堀の領土を没収された。そのころ肥後善行寺の僧が高浜に移り住み念仏をの教えを説き回り、村民は一同こぞってその教えに帰す。
特に当時高浜村2代目庄屋熊甚右衛門は誰よりも信仰が厚く、元和2年(1616)甚右衛門は出家名を祐正と改め一宇を建立し善行寺と号す。その後、長男祐閑を2代目住職にし、次子祐意を引き連れ築町に同じく善行寺を開創した。
しかし、使用人が国禁を犯し善行寺の寺号は取り上げられ廃寺となった。その影響が、本家である高浜にも及び、同じように寺号を取り上げられた。 2代目祐閑は寺号なきを嘆き、新たに寺号を受けることを発願し、広く門徒に助成を求めました。
その当時、新しく寺号を得るには、膨大な資金がかかり住職と門徒の苦労は大変なものであった。その後15年を経て、万治1年(1658)再興が許可され金徳寺に寺号変え今に至っている。交通の便がまだ悪かった時代には黒浜と以下宿に金徳寺の分寺が建てられた。

野母崎の散策 (2) 以下宿と野々串の風景・史跡  長崎市以下宿町・高浜町

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野母崎の散策 (2) 以下宿と野々串の風景・史跡  長崎市以下宿町・高浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(2)は、以下宿と高浜の野々串の風景・史跡。

黒浜トンネル出口と網掛岩、トンネルを出た海岸国道、以下宿バス停にある野母崎観光マップ、野母崎の変はんれい岩露出地(長崎県指定天然記念物)説明板、夫婦岩から軍艦島を望む、特別養護老人ホーム永寿園、岳路みさき道の尻食い坂(しっくいざか)以下宿出口、同近くの川端の地蔵、金徳寺(高浜)の以下宿の分寺(以下宿公民館)、以下宿南谷の砂防ダム、同手前の岳路みさき道の延命水への登り口、みさき道本道の以下宿三叉路にある道塚⑦「御崎ヨリ二里 長崎ヨリ五里 文政七年申十一月(1824) 今魚町」
野々串漁港北側から、高浜漁業組合記念碑、野々串漁港南側から、南側防波堤から先の海岸に行った野々串の立岩、立岩先のインゲリ鼻方面海岸

野母崎町史年表によると「明治16年(1883)三山汽船(本社時津港)長崎〜野母航路を運航開始する」とある。昔から渡海船はあり、野々串にも寄港していた。
野母ー脇岬間にバス運行は昭和10年(長肥自動車)、同15年長崎自動車が長肥を合併。戦時中は運休されていた。
船便は同年表では「昭和38年(1963)8月7日野母商船 長崎〜野母航路を廃止」とある。

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真  9〜     以下宿の金徳寺の分寺
黒浜や以下宿には昔からお寺がなく、金徳寺の分寺を住民が資金を出し合い建てたそうです。現在でも法事など有ると金徳寺から住職が来るとのこと。このお寺も金徳寺の分寺です。現在、以下宿公民館となっています。

野母崎の散策 (1) 黒浜の風景・史跡  長崎市黒浜町

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野母崎の散策 (1) 黒浜の風景・史跡  長崎市黒浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(1)は、まず長崎市街寄りから黒浜の風景・史跡。
黒浜の弁慶の投石、黒浜ダム、黒浜の八幡神社と大イチョウ、黒浜海岸、黒浜海岸の変はんれい岩(長崎県指定天然記念物 説明板は以下宿の項で)、高浜小学校黒浜分校跡、岳路みさき道の尻食い坂(しっくいざか)黒浜側登り口、黒浜海岸を高台から、黒浜トンネル入口

黒浜の弁慶の投石は、安永2年(1773)当時の長崎代官「高木作右衛門支配所絵図」に、佐賀領蚊焼村と公領高浜村の境界地点「投上ヶ石」として表われている(写真1 長崎歴史文化博物館所蔵)。夕日を頂にローソク岩の景色も写せた。
八幡神社は、国道沿い黒浜トンネル手前にある。大イチョウは胸高樹囲4m位。鳥居脇の燈籠には文久二年(1862)の銘あり。この頃のものかと考えられる。
巨木の項は、https://misakimichi.com/archives/196

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真  2〜     黒浜の弁慶の投石
黒浜の字名「投上(なげあげ)」というところにあります。地元の方も数人しか知りませんでした。岩の高さは10mぐらいあるでしょうか。「髙浜の字名由来考」には次の様に記されています。
投上は髙浜と蚊焼との境界地点で知られた場所である。俗称を「弁慶の投石」といった。海面に立つ巨石の頂上に人工的に乗せられたような自然の情景。先人達の伝説には、弁慶が投げた石が重なり乗ったものだとの昔し話が残されており、その地を字名「投上(なげあげ)」と呼んでいる。
黒浜の「ようこそ野母崎へ」の看板横の道を登り海岸に下りると正面に見えてきます。

写真  8〜     八幡神社
黒浜の国道沿いにあるのが八幡神社です。鳥居の近くに土俵があり、祭りの時は奉納相撲をやるとのこと。本殿は、拝殿の右側の道を少しあがった所に有ります。
祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

長崎の西の空の夕日  09− 8

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長崎の西の空の夕日  09− 8

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下、続く。
変わった景色とし、電線をなくすため、自宅近くにも出かけ写す。

写真 1〜 6  平成21年 4月23日の18時47分頃
写真 7〜 8  平成21年 4月25日の 8時07分頃 朝の雲、晴の前兆
写真 9〜12  平成21年 4月28日の18時51分頃
写真13〜16  平成21年 4月30日の18時46分頃 岳路南から

碑のある三角点・・・熊 ノ 岳 (標高288.37m)  長崎市宮崎町

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碑のある三角点・・・熊 ノ 岳 (標高288.37m)  長崎市宮崎町 

碑のある三角点は、先に稲佐山を紹介している。長崎市宮崎町の熊ノ岳にもあった。宮崎ダムの南西にNTTアンテナが見える山で、「熊の岳いこいの里」として整備されている。
川原大池から登山道路が上がり、駐車場から遊歩道を約10分歩くと山頂へ着く。天草や雲仙を望み、景観の良い山である。碑文は次のとおり。

四等三角点  熊ノ岳

ここに設置されている標石は、三角点と言い地球上の位置(緯度、経度、高さ)が高い精度で決められています。
三角点は、私たちの暮しにも密接なかかわりがあり、地震予知、地図作りを始めいろいろな活動の基準となる特別なものです。
北緯:32度36分51秒267  東経:129度49分03秒382  高さ:288.37m
設置年月日 昭和48年8月2日   建設省国土地理院  三和町

なお、静岡県の方が全国の「三角点探訪ネットワーク」が作成されており、本ブログも「長崎の三角点」としてリンクされた。光栄なことである。必要なときは、次を参照。
http://www.geocities.jp/superteizan/chizu.html

三和の散策 (14) 岳路海水浴場と同海岸  長崎市蚊焼町

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三和の散策 (14) 岳路海水浴場と同海岸  長崎市蚊焼町

長崎市の三和地区は、市街から南西に突き出した長崎半島の中央部に位置する。三和の散策(14)は、野母半島県立公園の岳路海水浴場と同海岸。
昭和30年2月、蚊焼・為石・川原三村合併で「三和町」が誕生。平成17年1月4日、長崎市に編入された。

三和の散策 (13) 岳路の風景・史跡  長崎市蚊焼町

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三和の散策 (13) 岳路の風景・史跡  長崎市蚊焼町

長崎市の三和地区は、市街から南西に突き出した長崎半島の中央部に位置する。三和の散策(13)は、岳路の風景・史跡。岳路海水浴場と同海岸は別項。
くじら浜の海岸、海水浴場北浜の海岸洞穴、「みさき道」永一尾の尾根、ホテルPARCO、同横から野島を望む、岳路海水浴場前バス停下の「みさき道」道塚⑥、下の岳路集落、岳路の浜の三浪神社、岳路バス停付近から遠望、山側の岳路神社、石祠のマリア観音?、同神社のアコウの大木、黒浜近く国道から岳路海岸の遠望
昭和30年2月、蚊焼・為石・川原三村合併で「三和町」が誕生。平成17年1月4日、長崎市に編入された。

三和の散策 (12) 蚊焼の風景・史跡  長崎市蚊焼町

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三和の散策 (12) 蚊焼の風景・史跡  長崎市蚊焼町

長崎市の三和地区は、市街から南西に突き出した長崎半島の中央部に位置する。三和の散策(12)は、蚊焼の風景・史跡。
長崎市立蚊焼小学校、長崎市蚊焼地区公民館、長崎市立蚊焼保育所、高比良園芸店、桜御前祠、擁壁の地蔵、相撲取墓(二子嶋)、曲江舎雅翁の碑、蚊焼山地蔵寺(曹洞宗)、蚊焼浄水場、岳路みさき道(松永建設奥)、ボラ炊きの釜跡 
昭和30年2月、蚊焼・為石・川原三村合併で「三和町」が誕生。平成17年1月4日、長崎市に編入された。

曲江舎雅翁の碑は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/125

三和の散策 (11) 晴海台と蚊焼の風景・史跡  長崎市晴海台町・蚊焼町

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三和の散策 (11) 晴海台と蚊焼の風景・史跡  長崎市晴海台町・蚊焼町

長崎市の三和地区は、市街から南西に突き出した長崎半島の中央部に位置する。三和の散策(11)は、晴海台と蚊焼の風景・史跡。
晴海台地区公民館、晴海台団地の通りと全景、長崎市立晴海台小学校、「みさき道」の蚊焼西大道にある道塚④、草積御前の祠、蚊焼茶屋跡の推測地点、蚊焼峠の入口、三和史談会の看板がある「みさき道」入口、蚊焼包丁山口鍛冶工場、蚊焼包丁・南蛮ぼーどの展示品(さんとぴあ21)、蚊焼の全景、蚊焼海岸通りエノキの大木、集落に残る旧家、岩穴の地蔵、大法山真乗院(日蓮宗)、宮ノ脇にある庚申塚、字名の女男岩とされる岩
昭和30年2月、蚊焼・為石・川原三村合併で「三和町」が誕生。平成17年1月4日、長崎市に編入された。