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下田のイチョウ  熊本市南区城南町隈庄

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下田のイチョウ  熊本市南区城南町隈庄

HP「人里の巨木たち 全国巨樹探訪記」による説明は、次のとおり。

名称 下田のイチョウ (しもだのいちょう)
名称の典拠 現地の案内板(注1)
樹種 イチョウ
樹高 21m(注2)
目通り幹囲 12.3m(注2) 実際はもっと細い
推定樹齢 650年(注3)
所在地の地名 熊本県熊本市南区城南町隈庄(注4)
国指定天然記念物(1937年12月21日指定)

注1)設置者名・設置年月とも不詳
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注3)上記案内板による
注4)2010年3月23日、熊本市に合併。旧行政区は下益城郡城南町。さらに2012年4月1日、政令指定都市への移行に伴い、住所表示が一部変更された

城南町の中心部、隈庄(くまのしょう)信号の近くに立っている。
地上1.5mほどで、2幹に分かれている。合体木ならどうということはないのだが、この樹姿が単幹のイチョウでは珍しいということなのだろうか。国が天然記念物に指定する際、「目通幹圍(囲)約九メートル二大枝ニ分ル公孫樹ノ巨樹トシテ有數(数)ノモノナリ」(括弧内は現代の用字)と解説している。
現地の案内板による目通りデータは、分かれた2幹をそれぞれ測っており、「南幹五・九メートル/北幹六・四メートル」。環境庁データは、測定要項に則ってそれらを合算したものだが、実際に受ける印象はもっとずっと細い。
イチョウが立つ場所は、この地方第一の旧家下田家の庭だったところ。もちろんイチョウの名に冠せられた「下田」は、下田家を指している。国の天然記念物名称に個人名が用いられているのも珍しい。(講談社「日本の天然記念物」より) ただし、その後、町が寄贈を受けたらしく、案内板には、所有者は城南町とあった。
イチョウは、天文年間(1532〜54)には既に存在していたことが「下田家旧記」に記されているという。今から450年以上も昔である。根元には、「世を重ね恵みに会いて栄えゆく銀杏の末は千枝八千枝(ちえやちえ)」の歌碑がある。下田理平氏の歌だそうである。当時のすばらしい樹勢に下田家の繁栄を重ね合わせ、イチョウを一種の守護神のように考えておられたのかも知れない。

熊本県HPk地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。

下田の大イチョウ(しもだのおおいちょう) 城南町

所在地 下益城郡城南町隈庄
解説  こんなところにイチョウの巨木が! 長年の風雪に耐え・・・

城南町隈庄地区
城南町中心部の隈庄地区にある旧下田家の庭にイチョウの巨木があります。ここは城南町を通る国道266号線から役場方面に入った旧道沿いで、商店や工場が建ち並んでいる道沿いの小さな庭園の中に、幹回り9m、高さ22m、樹齢約700年の巨木がたたずんでいます。
巨木というと、山間部や神社などを思い浮かべますが、旧家の庭に、県内でも有数で国の天然記念物にも指定されているイチョウの巨木があることに驚かされます。

2本の幹
この巨木は、根回りが約11mもあり、高さ1.5m付近から南北へ2本の幹が伸びています。分かれた幹周りも南幹5.9m、北幹6.4mあり、約15m四方に枝を張っているのです。2本に分かれた幹は特長的で、眺める方向によって様々な表情を見せてくれます。
新緑の時期には、あざやかな黄緑色の葉を勢いよく茂らせる巨木ですが、秋になると鮮やかに黄葉し、自ら敷き詰めた黄色い絨毯の上にたたずむ姿は、まさに町中の絶景といった趣です。

歴史や見所
現在は下田家から城南町に寄贈されています。「下田家旧記」には、天文年間(1532〜1554年)にこの木の存在が記されています。また、隈庄城に宿泊した豊臣秀吉も見物に訪れたともいわれています。
根元の石碑には、「世を重ね恵みに会いて栄えゆく銀杏の末は千枝八千枝」という下田理平さんの和歌が刻まれています。平成3年と平成11年の台風で被害を受けましたが、大きな幹は今でも健在です。一番の見応えは11月頃の黄葉の時期です。

参考文献
城南町役場企画開発課編『平成12年度城南町勢要覧』 城南町

熊本県のアーチ式石橋  明神社眼鏡橋  氷川町東段

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熊本県のアーチ式石橋  明神社眼鏡橋  氷川町東段

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№71  明神社(みょうじんじゃ)眼鏡橋

氷川町(旧宮原町)東段
一の井手
橋長:7.5m  橋幅:2.5m  径間:6.0m  拱矢:2.4m  環厚:40cm

郡代御詰所眼鏡橋のすぐ先、神社前に架かってます。

熊本県のアーチ式石橋  郡代御詰所眼鏡橋  氷川町東段

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熊本県のアーチ式石橋  郡代御詰所眼鏡橋  氷川町東段

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№70  郡代御詰所眼鏡橋

八代郡氷川町(旧宮原町)東段
一の井手
橋長:12.5m  橋幅:2.67m  径間:6.5m  拱矢:2.8m  環厚:40cm  輪石:35列
架設:天保年間

国道3号線旧宮原町から旧役場前を通過して、国道443号線を東進。少し進むと右側に公園があり、そこに架かっています。

郡代御詰所眼鏡橋
「当地点より約200m下流にこの石橋があった。八代郡代(幕府直轄の警察・租税・民生をとりあつかう役人)の詰所(役人が勤めている所)のたもとに石橋があったので「八代郡代の御詰所のめがね橋」言われてきた。宮原町の昔は八代郡の行政的中心地であり、参勤交代の通路になっていて河原町(竜北町)とともに在町を形づくっていた。
天保12年(1842)ごろ、八代郡代の愛敬某という人が、井出明神から上流に向かって道路を開発したため、宮原町は発達した。この石橋は種山から歩いてきて上宮(かみみや)に渡る大切な橋であった。
昭和54年4月、一の井出用水路改修のため当地点に移転復元された。」  町教育委員会

熊本県のアーチ式石橋  重見橋  八代市東陽町北

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熊本県のアーチ式石橋  重見橋  八代市東陽町北

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。
東陽町の中心部、種山交差点角の「石橋公園」内に移築されている。5枚目以降は前夜の写真。

№30  重見橋

東陽町北
橋長:9m  橋幅:3.2m  径間:6.5m  拱矢:3m  環厚:40cm

国道443号線を宮原町から東陽町に入り、約1Km左手、国道沿い

重見橋
「石工の里「東陽村」のシンボルゾーンである『石橋公園』に移築されています。明治10年(1877)、重見部落の入り口に架けられ、平成元年、この公園に移築され、石工の里のシンボルとなっています」

熊本県のアーチ式石橋  大久保自然石橋  八代市東陽町北

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熊本県のアーチ式石橋  大久保自然石橋  八代市東陽町北

石工の里歴史資料館「石匠館」周辺の石橋散策コースを歩いて写した。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№35  大久保自然石橋

東陽町北
橋長:1.7m  橋幅:0.7m  径間:0.8m

石匠館より北側県道155号線沿いにあります。

熊本県のアーチ式石橋  鍛冶屋上橋  八代市東陽町北

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熊本県のアーチ式石橋  鍛冶屋上橋  八代市東陽町北

石工の里歴史資料館「石匠館」周辺の石橋散策コースを歩いて写した。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№33  鍛冶屋上橋

東陽町北
橋長:4.1m  橋幅:2.64m  径間:2.74m  拱矢:1.27m

石匠館より北側県道155号線沿いにあります。

熊本県のアーチ式石橋  鍛冶屋中橋  八代市東陽町北

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熊本県のアーチ式石橋  鍛冶屋中橋  八代市東陽町北

石工の里歴史資料館「石匠館」周辺の石橋散策コースを歩いて写した。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№32  鍛冶屋中橋

東陽町北
橋長:4.36m  橋幅:2.67m  径間:2.74m  拱矢:1.42m  環厚:31cm

石匠館より北側県道155号線沿いにあります。(以下、石匠館の上流側)

熊本県のアーチ式石橋  鍛冶屋下橋  八代市東陽町北

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熊本県のアーチ式石橋  鍛冶屋下橋  八代市東陽町北

石工の里歴史資料館「石匠館」周辺の石橋散策コースを歩いて写した。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№31  鍛冶屋下橋

東陽町北
橋長:7.03m  橋幅:2.46m  径間:3.92m  拱矢:0.72m  環厚:57cm

石匠館より北側県道155号線沿いにあります。(石匠館の下流側)

石 匠 館  八代市東陽町北

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石 匠 館  八代市東陽町北

八代市HPの 観光情報 > 石匠館 による説明は、次のとおり。

石 匠 館

東陽地区には、一世紀以上の風雪に耐え、今も残る22の石橋があります。当時の石工たちの驚くべき知恵と技が息づく石橋文化を、一度訪ねてみませんか。
石の文化を蘇らせ、新しい地域文化を創造しようと生まれたのが「石匠館」です。地元で採れる凝灰岩の壁面と丸屋根。世界的建築家木島安史氏の設計です。館内では「種山石工」の歴史や、全国の石橋の資料が多数展示され、また当時の石工たちの石材運搬の工夫を体験できるコーナーもあります。

<問合せ>八代市東陽石匠館 ℡(0965)65-2700
<所在地>八代市東陽町北98-2
<アクセス>車 九州自動車道八代ICから約20分 松橋ICから約30分
JR鹿児島本線有佐駅からバス約15分 タクシー約10分   

◆開館時間 午前9時〜午後4時30分(入館は午後4時まで)
◆料 金  大人300円 高・大学生200円 小・中学生100円  ※団体20名以上割引あり
◆休館日  月曜日(祝日の場合は翌日) 12月29日〜1月3日

白髪岳天然石橋  八代市東陽町五反田

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白髪岳天然石橋  八代市東陽町五反田

石工の里歴史資料館「石匠館」の東、五反田地区公民館の背後に見える。草刈りをしているときは、周囲を一周できる。危険なため、橋は絶対に渡らない。
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋による説明は、次のとおり。

白髪岳天然石橋

八代市東陽町北
白髪岳天然石橋(八代市指定天然記念物)
「この天然橋は凝灰岩によって出来ている。土地の者は石橋と言って、ここに遊び場を求めたものです。
言い伝えによると、白髪岳には白髪天神という神様が居られ、山から出られる際、「堤防のような岩が横たわり、出られない」とお悩みになった末、蹴りほがしてお通りになり、対岸の畑中の地にお座りになったと言うことです。 種山石工の里に天然の石橋があることに因縁を感じるものです。」 八代市教育委員会

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。

白髪岳天然石橋(しらがだけてんねんいしばし) 八代市

所在地 八代市東陽町五反田
利用案内 駐車場・トイレ なし
解 説 石匠の里で自然にできた不思議な石橋

東陽の天然記念物
東陽町の五反田という地区を訪ねると、公民館の裏手に不思議なアーチ型の造形を見つけることができます。茂みに覆われていますが、わずかにのぞく岩肌からそれが天然にできた(人が造ったものではない)石橋であることがわかります。大きさは、長さ27m、高さ9m、アーチ部分の径間は18mもあります。橋の上をわたる人は滅多にいないようですが、橋を覆う茂みを刈るために、橋のたもとの民家の方が上に上がられることもあるということから、人がわたるのに耐える強度は十分あるといえます。

天然石橋の成り立ち
白髪岳天然石橋は、「阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)」でできています。溶結凝灰岩というのは、火山から吹き出した高温の火山灰など(火砕流)が堆積するとき、火砕流自体の熱と圧力で押し固められたものです。世界一のカルデラを持つ阿蘇山は、約30万から9万年前までのあいだに、大規模な火砕流を4回起こしたことがわかっています。このうち、約9万年前に起こった阿蘇−4火砕流の堆積物が溶結した溶結凝灰岩が、阿蘇からかなり離れた東陽村にまで分布しているのです。この溶結凝灰岩は適度に固く加工がしやすいことから、通潤橋をはじめとした石橋の材料に広く利用されています。しかし、この天然石橋が、いつ、どのような経緯で下の部分が抜けて、現在の形になったかは残念ながら不明です。

神様が造った?
この石橋に関して、次のような言い伝えが残されています。
その昔、白髪岳におられた「白髪天神」という神様が山から下りられようとしたとき、堤防のような石に妨げられて下りられなかった。悩まれた神様は、結局その大きな石の下を蹴破って山から出られ、畑の中にお座りになった。・・・ この神様がお座りになったという場所には現在は社が建てられており、裏の田の中には神様が蹴破られたときの石のかけらといわれる丸い岩がそのまま残っています。もちろんこの岩も溶結凝灰岩です。

種山石橋文化との関係は?
東陽村(種山)は、石橋づくりの名工を数多く輩出し、「石匠の里」といわれています。県内外に多くの石橋をかけた宇助・宇市・丈八(橋本勘五郎)の3兄弟が生まれ育った生家から、白髪岳天然石橋までは300m足らずの距離しかありません。今も、「いしばし」といって地元の人たちに親しまれているこの天然石橋を3人の兄弟はどのように眺めていたのでしょう。

通潤橋を造った橋本勘五郎は、晩年、加工していない自然の石を使った石橋を2つつくりました。美しく整った石橋とは対照的に自然そのままの素朴さを見せる2つの石橋を手がけた勘五郎の脳裏には、小さい頃から慣れ親しんだ天然の石橋が焼き付いていたのかも知れません。

参考文献 『東陽村史』 八代郡東陽村編集・発行 1992
周辺情報 近くに、石工の里歴史資料館「石匠館」があります。