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大分川の水刎?  大分市下郡 ( 大分県 )

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大分川の水刎?  大分市下郡

ブログ「ぐんさん 物見遊山記:豊後街道を歩く 乙津〜八幡田」間に表れる掲載写真の2枚目。大分川の水勢をやわらげる水刎か?。どんなものかと河口近くに場所確認に行った。
http://blog.livedoor.jp/gunchan1972/archives/51728762.html
豊後街道は、大分市「牧から下郡方面へ進み北下郡ガード西交差点を通過、滝尾橋へ。ここでJR日豊線をくぐり大分川沿いに南へと進路をとる。大分川の土手を歩く。豊後街道は大分川沿いを通っていたそうで、地元では「ひごどん道」と呼ばれていたとか。川岸になにやら石積みがいくつもあるがなんだろう。川漁師の船着場? 護岸のためのもの?」とある。

国道10号府内大橋を過ぎて宮崎交差点から大分川に沿う市道を北へ、下郡北のJR日豊本線ガード下まで行き、左方に大分川へ出た。川岸道路を上流側へ向かうと、車ランド展示場近くの川岸に、川に突き出たこの10基ほどの石積みがあった。下流側に日豊本線の大分川鉄橋が見える。
石積みのある川岸の中間くらいに、ちょうど架橋建設中の橋脚が完成している。石積みは新しく感じられ、年代物ではなく架橋護岸工事のための最近の工作物と思われる。遺産サイトもその見解だった。
河川工事事務所に確認する必要があるが、念のため記録しておく。

桜ケ瀬井路  津久見市新町 ( 大分県 )

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桜ケ瀬井路  津久見市新町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。津久見市街から国道217号か、県道35号により南西に向かうと、新町に桜ヶ瀬バス停がある。青江川畔に出ると、昭和26年建立だが水神があった。所在図参照。
資料は、津久見市史から。「この井路は、「津久見桜ヶ瀬より松崎・警固屋へ懸り候井手」であった。この井路は青江川に堰を設けて取水する方法を採ったものである」とあり、取水堰はこのあたりのことではないだろうか。町中の井路がどう流れているのかは、現在ではわからない。

桜ケ瀬井路 さくらがせ
津久見市 青江川 用水 弘化3(1846)以前 市教委(津久見市史p215) 開削の経緯は不明だが、弘化3に取水堰が石造化されるまで粗朶を用いていた

志手村用水  津久見市地蔵町 ( 大分県 )

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志手村用水  津久見市地蔵町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道217号臼津隧道を抜けて津久見市街地へ入る。青江橋先からJR日豊本線の踏切を渡り、右折。すぐの松崎交差点からまっすぐな市道を西へ進み、最奥の角を曲がると、青江川畔に志手村用水「墾田碑」がある。所在図参照。
資料は、津久見市史から。「井路は水源から青江川に延び、現石灰石輸送パイプの直下を岡町広場へと左岸に渡河したが、このため河底に送水管が敷設された」とは、この地点であろう。
付近の航空古写真は、津久見市提供。撮影年代は不詳。

志手村用水 して
津久見市 胡麻柄山山麓の湧水→志手村 用水 寛文年間(1661-72) 市教委(津久見市史p214) 志手村の石井正円が開削(詳細不明)/青江川とは底樋で交差(直径30㎝ほどの輪竹を桶状に編んだものを2本並べ周囲を三和土で固めた構造)

下り松台場・跡  臼杵市板知屋 ( 大分県 )

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下り松台場・跡  臼杵市板知屋

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。県道207号により臼杵造船所東端からJR日豊本線の踏切を渡り、下り松地区公民館まで行く。私が参考資料としたのは、佐伯史談会研修旅行の際の掲載写真で、「下り松の台場跡のある丘陵地」。
地元で聞き込みをするが、この写真はどこで撮影されたか、台場自体もどこにあったかも、はっきりしたことが聞けず、写真と合う光景はこのあたりでは見つけきれなかった(写真2〜4)。

臼杵市資料に「琵琶ヶ鼻の砲台跡 所在 臼杵市下り松」として、台場の場所は「琵琶ヶ鼻の砲台跡は、下り松の一番臼杵湾に向かって突き出した丘陵の先端、標高約三十メートルのところに位置しています」とはっきり記していた。
JR日豊本線トンネルがある山地の海岸先端へ県道をさらに進む。次に水ヶ浦バス停があり、この手前に(有)伊東自動車があった。佐伯史談会の写真は、バス停付近からこの整備工場の建物を写しているようだ。
工場主に聞くと、工場右横から奥にあと1軒民家があり、この家上の高台となる丘陵地が「下り松台場・跡」とのこと(写真5〜8)。台場・跡はヤブとなって、行き道や現地遺構はもうわからないだろうと聞いて、これ以上の調査はあきらめた。

下り松台場・跡 さがりまつ
臼杵市 台場 60m×30m程度 文久3(1863) WEB 丘陵地で植生が密生 臼杵藩台場 4 C

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

琵琶ヶ鼻の砲台跡(びわがはなのほうだいあと)  所在 臼杵市下り松

市内には、「臼杵の歴史」を語る際に欠くことのできない遺跡や遺物が数多く残されています。時代時代における世の中の動きに応じて作られ、或いは利用されてきたものが、時の移り変わりとともに、人の記憶の中から次第に忘れ去られてしまい、長い年月、人の手も加わらず、雑草に覆われていたり、倉の隅に追いやられていたりといったことがしばしば見られます。
琵琶ヶ鼻の砲台跡もそうしたものの一つです。現在は、深く雑草が生い茂り、訪れる人もほとんどなく、この遺跡が、歴史(時代)の要請を受けて生まれたものであることを知る人は少なくなっています。この砲台跡は、江戸時代の終わりごろ(十九世紀中頃)臼杵藩領の海岸線防備のために設けられて砲台跡の一つです。この当時、藩領の海岸線に五つの砲台が作られました。楠屋鼻(泊ヶ内と津久見市の境)、竹ヶ鼻(板知屋区の現天神ヶ鼻)、琵琶ヶ鼻、殿ヶ礁(以前の下ノ江少年自然の家の下)、的場山(津留地区)、将棊頭(東中グラウンドの北側)の五ヶ所です。今、砲台跡として残っているのは琵琶ヶ鼻と将棊頭の二箇所です。琵琶ヶ鼻の砲台跡は、下り松の一番臼杵湾に向かって突き出した丘陵の先端、標高約三十メートルのところに位置しています。砲台跡は、丘陵の北斜面を削りだし、コの字型をした高い土塁のような形に作られています。東西の長さおよそ十二メートル、南北の長さ八メートル、幅約三メートル、高さ二.五メートルをはかる非常に大きな施設となっています。
この時代、日本は鎖国政策をとっていたため、外国と接することはなく、唯一、例外的にオランダ国とだけは長崎の出島を通じて関係を維持していました。しかし、十八世紀後期になると、日本の近海に出没する外国船の数は益々増え、中でも北太平洋に移動する鯨の群れを追って来たアメリカやイギリスの捕鯨船が、淡水や食料を求めて我が国の海岸に接近することが多くなりました。沿海の諸藩は、補給のため海岸に接近した外国船に対し必要品を供給し、更に国法を説明して再び来ることの内容言い含めましたが、ほとんど効果はありませんでした。国法によって、渡来した外国船は穏便に帰帆させるよう指示されている反面、警備を特に厳重にするよう定められているので、海を持つ諸藩は、警備をおろそかにすることはできず、財政難に苦しんでいた当時の諸藩にとって大きな負担となっていました。臼杵藩の場合は、安政二年(一八五五)、藩士川崎重房の海防論をとり入れ、自領の海岸線防備のために、先に述べたような砲台を設置しました。

二王座の切通し・山下水・御口屋の井戸  臼杵市二王座ほか ( 大分県 )

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二王座の切通し・山下水・御口屋の井戸  臼杵市二王座ほか

臼杵市観光パンフレットから私が見た二王座の切通しと、南海添の山下水・御口屋の井戸。サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。

二王座の切通し におうざ
臼杵市 (臼杵) 切通し 数ヶ所 戦国〜江戸期 市教委 臼杵を代表する景観として観光地化 二王座(凝灰岩の台地)に登る坂道/家並の中心の切通しは石垣に、少し外れると岩肌が見え(写真の場所)、その外側は岩肌がむき出しになっている 2 B

海添の御口屋井戸 かいぞえ、おぐちや
臼杵市 (海添)<津久見街道> 石井戸 102㎝×102㎝,高60㎝,径70㎝の穴 延宝5(1677)以降 WEB/市教委 名水として知られる/米穀店の敷地内 津久見街道の城下入口に設けられた御口屋(番所)の井戸/厚さ30㎝の凝灰岩の中央を丸くくり抜き、2段重ねて井戸枠とした 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見よる説明は、次のとおり。

海添御口屋跡と井戸(かいぞえおぐちやあとといど)  所在 臼杵市大字海添

御口屋と言っても、聞きなれない言葉だけにちょっと戸惑うかもしれません。簡単に言えば、臼杵藩時代の番所のことです。この御口屋は、城下へ通じる主要な往来道(街道)の城下入り口の位置に設けられていました。ここは、城下へ出入りする人々の中に不審な者がいるかどうか監視をする役割を持ったところです。
海添の御口屋は、津久見街道口に設けられたものです。臼杵藩時代の記録「温故年表録」によると、「延宝五年丁巳 三月二十一日 海添口屋番所立」とあり、一六七七年に口屋番所が建てられたことがわかります。この口屋番所の建設によって、主に外からの侵入に対して無防備ともいえた津久見街道の海添口を固めると言う意味も含まれていたと思われます。
この口屋番所は、宝蓮寺の斜向いにあります斉藤米穀店の付近に位置していました。またこの店の敷地内には御口屋の井戸が残っています。
この井戸水は、今日名水の一つとして広く市民に知られています。井戸は立派なもので、井戸枠は、一辺
102cm、厚さ30cmの凝灰岩の中央部分に直径約70cmの穴を穿ったものを二つ重ねて作られています。井戸の内部は、珪岩などの自然石を積み上げて円筒状につくりあげています。深さは、井戸枠上面から水面まで245cmほどあります。
海添の御口屋が設けられた時期は、第五代鹿景通が臼杵藩主として藩政の改革や定められた数々の法規を確固たるものとし、積極的に城下の整備に努めた時代で、内政に力を注げるようになったということは、この頃に世情もようやく落ち着きを取り戻し、平穏な時代に入ったことを表しているのではないでしょうか。

落合の石畳  臼杵市久木小野〜落合 ( 大分県 )

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落合の石畳  臼杵市久木小野〜落合

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道502号障子岩交差点から県道25号に入り、途中から吉小野を通る近道により県道206号に出たところが久木小野の県道交差点である。
臼杵市資料によると、「殿様道は久木小野の県道交差点(現在)あたりからその北側にある標高115mほどの通称「茶屋峠」を越え、落合地区の南側へと出る延長約1kmの道です」とある。地形図の関係部分を参照。

さて、この殿様道の石畳は「落合地区への入口部分と、そこから約300mほど上った所の二ヶ所には延長20〜
30mにわたって凝灰岩の石畳が敷かれています」とあり、久木小野側に一部が残っているらしいが、久木小野交差点近くで地元聞き込みをしても判然としない。
高速道高架下をくぐると立派な神社があり、その先に茶屋峠へ登る山道があったが、今は藪道となって入口さえわからないだろうという話だった。

そのため、今度は反対の落合集落側へ行ってみた(写真5枚目以降)。集会所横にコンクリート舗装された急坂の狭い車道があり、これが殿様道だったようで、戦後も久木小野小学校への通学路として利用されていた。
この道は、現在の九六位ゴルフガーデン上部を通り、いったん舗装道路に出て横切り、久木小野の神社近くに出ていたということだったから、双方地元民の話は合う。
藪道をかき分けてまで、これ以上、石畳を調査する時間はなく、日没となったので調査を打ち切った。

落合の石畳 おちあい
臼杵市 <通称・殿様道> 石畳道(2ヶ所) 長20-30m 江戸期 WEB 久木小野から落合へ抜ける通称・茶屋峠越えの間道 –

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

殿様道と茶屋峠(とのさまみちとちゃとうげ) 所在

臼杵はかつて“東九州の浪華”と呼ばれるほど栄えた町として広く知られていました。鉄道がまだ発達しておらず、海上交通が物資流通の主役だった時代に、湾の奥にある良港をもっていたことがその背景にあるのです。そして港とその奥にある穀倉地帯や主要都市とを結ぶ陸上交通路がめぐらされていたことも見落とせません。
江戸時代に臼杵には、末広方面から大分に抜ける府内城路、武山方面から三重、竹田へと向かう岡城路、海添から津久見、佐伯へとゆく佐伯城路という三本の幹線道路がありました。これらが交通の要路となっていたのですが、さらにこの三本の要路をつなぐ間道が網の目のように設けられていたのです。
これらの道は廃道になっていたり、近・現代の道路改修によって現在ではほとんど当時の様子を残していませんが、今なおその面影を伝えている道もあります。久木小野から落合へと抜ける通称「殿様道」もその一つです。
この道は岡城路と府内城路を障子岩〜田尻でつなぐ間道の一部で、正式な名称は不明ですが、久木小野〜落合に限って地元の人が殿様道と呼んでいます。その由来はかつて岡(竹田)藩の中川候が参勤交代の折に通ったという落合地区の伝承によるものです。
殿様道は久木小野の県道交差点(現在)あたりからその北側にある標高115mほどの通称「茶屋峠」を越え、落合地区の南側へと出る延長約1kmの道です。
この道も他の旧道と同じように等高線や谷を上手に利用しながら、急な上り下りが少ないように造られているようです。道幅は1.5mから5,7mとわりと広めです。また、落合地区への入口部分と、そこから約300mほど上った所の二ヶ所には延長20〜30mにわたって凝灰岩の石畳が敷かれています。臼杵市内では府内城路、岡城路、佐伯城路にそれぞれ石畳道の一部が残っていますが、間道に石畳が敷かれている例は珍しく、この殿様道が当時の間道としてはよく整備された道であったことがわかります。
この道がいつ開かれたかは不明なのですが、天保二年(1831)に作られた「臼杵領内絵図」には記載されていることなどから江戸末期には既にあったようです。そして今年の二月に、その当時の様子を物語る遺構が発掘されました。それが茶屋峠の茶屋跡なのです。

温井の石風呂(塩石の石風呂)  臼杵市福良 ( 大分県 )

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温井の石風呂(塩石の石風呂)  臼杵市福良

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市街の土屋交差点から国道502号に入る。次の温井交差点から南に左折。送電鉄塔後ろ側にコンクリート擁壁の大きな岩が見える。
場所がわかりにくいが、小橋の先から右側の里道へ回り込みこの岩下の安東宅前まで行くと、温井の石風呂がある。

温井の石風呂(塩石の石風呂) ぬるい
臼杵市 石風呂 (横穴1ヶ所) 入口:高2m,幅2.2m 明和9(1772)以前 県有形民俗 WEB 保存状態良好 臼杵式の石風呂(他に、豊後大野市の「中ノ原の石風呂」参照)/豊後大野市の緒方に集中する火室を有するタイプとは発想が全く異なる→石を焼き、その上でセキショウなどの薬草を蒸して、近くにある海水をかけて蒸気を発生させ蒸し風呂としたもの/石風呂の前右上方の岩壁に、月桂寺第十世独園禅師の詩が陰刻:「地仙結宇倚岩陰/石室烟蒸薬気深/春夜眠醒纔出浴/何来風雨灑花林/春夜宿無一亭/明和壬辰釈処」→年代の根拠 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

温井の石風呂(ぬるいのいしぶろ)  所在 臼杵市温井

温井の塩石にある石風呂は、凝灰岩に掘られた横穴形式のもので入り口の高さ約2m、幅2.2mのものです。
内部の床面の左側に深さ20cmばかりの溝が掘られていますが、これが前壁の一部を破って外に通じています。用法についての言い伝えはありませんが、石を焼き、そのうえでセキショウなどの薬草をむして、近くまできていた海水を汲んではかけ、蒸気を出して浴していたものかと思われます。地形から海草が薬草として使われたとも思われます。
この石風呂の前右上方の岩壁には、月桂寺第十世独園禅師の詩が陰刻されています。
地仙結宇倚岩陰 石室烟蒸薬気深 春夜眠醒纔出浴 何来風雨灑花林 春夜宿無一亭   明和壬辰釈処
地仙いえを結んで岩陰による 石室えんじょう薬気深し 春夜眠りさめわずかに浴を出ず 何ぞ来る風雨花林
にそそぐ 春夜無一亭に宿す 
明和壬辰とあるので、明和九年(1772)にはこの石風呂は完成していたと推定されます。
昭和四十二年三月県の有形民俗文化財に指定されています。

不 欠 塚(ふかんづか)  臼杵市望月 ( 大分県 )

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不 欠 塚(ふかんづか)  臼杵市望月

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号により臼杵石仏入口方面へ向かう。東九州自動車道の高架下をくぐったすぐ先が望月で、国道左側に不欠塚の大きな石碑が見える。

不欠塚 ふかん
臼杵市 (望月) 石碑 高約190㎝ 天保9(1838) WEB/市教委 原位置 (正面)「不欠塚」/堤防の決壊を何とか喰い止めようとして「水の流れに従って水勢を和らげる」ような堤防を築いた疋田不欠の業績を称えて上望月村の村民が建立 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

不欠塚(ふかんづか)  所在 臼杵市大字望月

望月のバス停前から台地に連なる坂道のちょうど中ほど、望月の天満社の下にあたるところに、高さ約1.9mの石碑が一基建てられています。碑は、凝灰岩を角柱状に仕上げたもので、正面にあたる西側には「不欠塚」という文字が深彫りされています。それはまるで眼下に広がる田んぼとその中を東へ向かってゆるやかに流れる臼杵川を眺めているかのようです。
このあたりの田は、現在でこそ春には麦を、秋には稲を収穫する二毛作のできる、市内でも有数の実り多い肥沃な土地として知られていますが、江戸時代の中頃(十八世紀の初頭)までは、大雨が降るたびに洪水によって田が流され、何度も堤防を築いても、大雨のつど、堤が流れに直撃されて決壊し、田は土砂に埋まるという無残な姿をさらしていたそうです。この悲しい様子をいつも天満社の下で眺め、水が引くと田におりていろいろと観察をして、堤の崩壊の原因やその対策について考えていた人物がいました。その人の名は疋田不欠。ある時、不欠の家に泊った旅の僧と話すうちに、洪水に話が及び、不欠が「どう工夫しても堤が崩れる」と言うと、僧は「水は生き物、水に逆らってはどんな堤も破られます」と言い、翌日二人は荒らされた田を見て回りました。堤の切れ口と川の流れとの関係を話し合っている時、「水の流れに従って水勢をやわらげる」ことに気づいた不欠は早速、工夫して洪水にも崩れない堤防づくりを行ったということです。
彼は享保十四年(一七二九)に亡くなりましたが、その後天保九年(一八三八)に彼の業績をたたえ、上望月村の人たちがこの碑を建てました。

岩 崎 渠(いわさききょ)  臼杵市家野 ( 大分県 )

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岩 崎 渠(いわさききょ)  臼杵市家野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号により臼杵石仏入口先の臼杵市立南中学校前まで向かう。臼杵川の橋を渡って中学校下流側の山際まで行くと、難所の岩盤を切り開いた水路が残る。
後ろの写真は、まだ下流側、家野橋を渡った先で見た水路の状況。岩崎氏の功績碑は訪ねていない。

岩崎渠 いわさき
臼杵市 用水 文政7(1824) WEB/市教委 岩崎陣房・正房親子によって開削された灌漑用水路/岩崎陣房は過労のため工事途中で死去/延べ21000人が工事に携わった

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

岩崎渠(いわさききょ)  所在 臼杵市家野

家野地区の田には、昔から利用されている「岩崎渠」あるいは「岩崎井路」と呼ばれている水路があります。この水路は、文政二年(一八一九)から文政七年までの足かけ六年かかって完成したものです。今でこそ家野地区の田んぼは肥沃で、市内でも有数の穀倉地帯となっていますが、この水路ができる以前は、水不足になかされ日照りが少しでも続くと作物に大きな影響が出ていました。周りの村々が豊作に喜び賑わっているころ、家野村だけ不作に苦しんでいたということもたびたびでした。この様な村のたび重なる窮状を見かねて、臼杵川の上流から水路を掘削し、水を引こうと考えたのが村に住んでいた岩崎陣房という人物でした。彼は、村人たちに水路工事の必要を説いてまわり、協力を得るとともに自分の全財産をつぎ込んだと言われています。文政二年、工事に着手しましたが、早々、現在の南中学校の下手の固い岩盤の難所に突き当たり、石工達はあまりの硬さに逃げ出してしまい、工事は遅々としてはかどらず、陣房は過労のため倒れてしまいました。この様子を見て、義心が強く、名石工の誉れが高い大野村在住の織平が手助けに訪れ、その力によって難所を切り開くことができました。この開削成功の報を聞き陣房は喜びましたが、過労がたたってか、工事半ばにしてなくなってしまいました。陣房亡き後、息子の正房が工事を受け継ぎ、文政七年村人達が夢にまで見た水路がようやく完成しました。水路工事に参加した人々は、二万一千余人にものぼり、いかに大規模な土木工事であったかがうかがわれます。
弘化三年(一八四六)村人達は石碑を建て、岩崎氏の功績をたたえました。現在この碑は南中学校の南西約
300mの山際に建っています。

小切畑のシシ垣  臼杵市小切畑 ( 大分県 )

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小切畑のシシ垣  臼杵市小切畑

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折する。すぐ左に小切畑入口の標識があり、この道を上がって行くと、高台の小切畑集落に着く。
シシ垣の場所は、地元小中氏に教えてもらった。集落から望める所在図の青囲線あたりである。すぐ近くまで狭い農道(軽トラは通行可)が入る。終点から平坦な山道を200mほど歩いた右下方谷間斜面を囲む土塁がそうであるらしい。

最初、私ひとりではわからなかった。そうすると小中氏がわざわざ鎌を持って現地案内してくれた。山林境界「二九一」の標柱が目印となる。同氏も若い頃の記憶である。現地は今、植林地となってシダなど下草が高く生い茂り、どうしても土塁は探しきれなかった。
市から調査に来ているので、シシ垣の正しい場所はここかも知れないが、農道終点からこの山林標柱の間、山道の右脇に高さ1.5mほどの長い土塁を見る。土塁内には移転した集落の墓地跡があった。そうするとこの間の土塁も、私には延長したシシ垣のようにも考えられるため、この現況写真(写真6〜8)を参考のため掲げる。

小切畑のシシ垣 こぎりはた
臼杵市 猪垣(土塁) 江戸期? 市教委 放置保存 2