月別アーカイブ: 2015年11月

両 村 橋  豊後大野市犬飼町柴北 ( 大分県 )

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両 村 橋  豊後大野市犬飼町柴北

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。県道57号犬飼交差点をまっすぐ進み、下の原バス停先から右の県道632号に入る。中九州道下のトンネルを出て、神宿橋から約1km先の芝北川上流に架かる。

№781  両村(りょうそん)橋

犬飼町柴北
豊後大野市指定有形文化財
柴北川
橋長:28.6m  橋幅:3.9m  径間:21.1m  拱矢:7.0m
架設:1938(昭和14)年
樋の口橋より、県道632号線を600m東進、右手。
現・両村橋の下流に平行に架かっています。

高欄が樋の口橋と似ています。
歩道として利用されています。

神 宿 橋  豊後大野市犬飼町柴北 ( 大分県 )

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神 宿 橋  豊後大野市犬飼町柴北

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。県道57号犬飼交差点をまっすぐ進み、下の原バス停先から右の県道632号に入る。中九州道下のトンネルを出たところが芝北神宿で、新橋の神宿大橋下流にこの石橋が架かる。

№782  神宿橋

犬飼町柴北
柴北川
橋長:27.0m  橋幅:3.8m  径間:21.9m  拱矢:5.4m
架設:1921(大正10)年
石工:川野茂太郎
両村橋より県道632号線を1Km東進。
神宿橋バス停より右折、100m先に架かっています。

現役の橋です。拱矢比0.25の扁平な橋です

神宿(かんじゅく)橋
豊後大野市指定有形文化財
「長谷村ヲ縦貫スル道路ハ東大野村土師ヨリ犬飼町ニ通スル枢要路線ニシテ柴北川ニ架スル橋梁ハ其ノ最モ重キヲナス鎖鑰タリ従来粗本ノ木橋ヲ架シ夏季増水ノ際ハ破損又ハ流失シ不便言可ラサルモノアリ当時ノ郡會議員武藤亀人村長安藤房太郎及村會議員等深ノ之ヲ●シ永久不変ノ石橋架設ノ議ヲ決シタルモ工費多額ニ上リ容易ニ施工ノ機ヲ得ス大正九年度ニ至 現村長安部慶人前計画ヲ継承シ斡旋ノ結果村費ノ負担ニ加ワルニ郡費ノ補助ヲ以テシ更ニ一関係町村篤志者ノ寄附ヲ仰キ翌年三月●●ヲ告ケタルモノナリ今此碑ヲ立ツルニ当リ本橋竣功後満三年ヲ閲シテ毫モ変体異状ヲ見セサルハ村當局者熱心重督ノ述ヲ證スルモノニシテ全ク当初議決ノ精神ヲ貫徹セルモノト謂フヘシ今日人馬始めて水の阻害ヲ免レ路線ノ効用ヲ完ウス建碑ノ企従ニナランヤ乃チ其ノ●●ヲ●シ之ヲ碑面ニ書スト云
大正十三年六月
大野郡長正六位勲六等宇都宮喜六撰并書」
記念碑より

長峰の地蔵道標(下の原道標)  豊後大野市千歳町長峰 ( 大分県 )

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長峰の地蔵道標(下の原道標)  豊後大野市千歳町長峰

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道57号犬飼交差点を過ぎ、千歳町に入るとすぐ「下の原」バス停がある。この前の市道を山手へ上がり中九州道のガード下をくぐりまっすぐ進むと、中九州道上の高添第2跨道橋角のところに、この地蔵道標がある。

長峰の地蔵道標(下の原道標) ながみね
豊後大野市 <肥後往還> 石道標(丸彫) 高130㎝(うち、塔身60㎝) 18世紀中頃 市有形 市教委 移設/光背ほぼ欠損、顔が剥離 (右面)「ひご 二十八り」、(左面)「みえの市 三り」/「大乘妙典」と大きく陰刻された台石上に光背付き地蔵坐像の丸彫を載せる 3 C

福 門 橋  豊後大野市犬飼町下津尾 ( 大分県 )

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福 門 橋  豊後大野市犬飼町下津尾

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。県道57号犬飼交差点で県道326号へ分岐。すぐ、現橋の下流に架かっている。

№785  福門(ふくもん)橋

犬飼町下津尾
茜川
橋長:43.6m  橋幅:5.0m  径間:26.9m  拱矢:9.5m
架設:大正5年
県道57号線、犬飼町で県道326号へ分岐すぐ、現橋の下流に架かっています。国道分岐地点から一旦80m北上し、右折。国道57号線をくぐってすぐのところに架かっています

拱矢比0.35と、扁平な橋です。
右岸下流側から降りることができました。

光吉の領境石  大分市光吉 ( 大分県 )

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光吉の領境石  大分市光吉

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道210号光吉公民館入口次の七瀬川畔三叉路交差点脇にこの領境石は移設されてある。

光吉の領境石 みつよし
大分市 国道210号沿い 境界石 高130㎝,幅22.5㎝,厚21㎝ 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 移設 (正面)「従此川中西 臼杵領」/臼杵領〜公領 2 C

柞原八幡宮の裏参道石畳  大分市上白木 ( 大分県 )

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柞原八幡宮の裏参道石畳  大分市上白木

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR西大分駅近く国道10号かんたん橋交差点から左折、県道696号に入る。一の坂バス停先から右の柞原八幡宮の裏参道に入り登る。次の鳥居先で二手に分岐するが、右側まっすぐな団地内を通る「車両の通りぬけできません」との交通標識がある坂が、神社への正しい裏参道で、石畳の坂となっている。石畳は幅1.5m、長さ200mほど。
かんたん橋脇には、柞原八幡宮の下宮があり、本宮は県道696号を約3km進む。
柞原八幡宮の本宮は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/4900

柞原八幡宮の裏参道石畳 ゆすはら
大分市 柞原八幡宮・裏参道 石畳道 長約200m 江戸期 市教委/WEB 保存状態良好/石畳の両側の土道は舗装 柞原八幡宮の境内参道ではない(遥か手前) 1 B

杵築の馬つなぎ石  杵築市猪尾三川 橋詰公園 ( 大分県 )

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杵築の馬つなぎ石  杵築市猪尾三川 橋詰公園

杵築城が見える杵築大橋のたもとに橋詰公園があり、入口の敷石に「馬つなぎ石」が展示されていた。現地説明板は、次のとおり。飴屋の坂上のは訪ねていない。

馬つなぎの石

馬をつなぎとめておく石で、杵築の城下町でなければ見られない。今では、飴屋の坂を上がって、右に折れた所にある屋敷(旧藩医 飯塚玄庵邸)の入口に残るのみであるが、昔はいたる所にあったと思われ、城下町の町並みをしのばせている。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータに、次のとおり登載された。

杵築の馬つなぎ石2 きつき
杵築市 橋詰公園 馬繋石 江戸期? WEB(みさき道人) 移設 2 C

亀ノ甲池・菅ノ池  国東市国見町上岐部 ( 大分県 )

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亀ノ甲池・菅ノ池  国東市国見町上岐部

国東市国見町の新涯隧道からオレンジロードにより東南へ向かう。山神宮がある橋脇から岐部川上流へ市道を進むと、下段に亀ノ甲池、上段に菅ノ池があった。
亀ノ甲池の方は、改修記念碑によると「沿革 幕府直轄地日田代官所代官塩屋代四郎氏助言監督のもと 天保六年乙未三月新築堤完成 明治九年下流の現位置に拡張工事着工 仝十二年工事完工…」とあった以外、詳しくは不明。

薦神社(こもじんじゃ)  中津市大字大貞 ( 大分県 )

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薦神社(こもじんじゃ)  中津市大字大貞

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。中津市街の国道212号万田交差点から県道663号に入り大貞交差点先まで行くと、薦神社がある。

薦神社

薦神社(こもじんじゃ)は、大分県中津市に所在する八幡宮で、別名大貞八幡宮(おおさだはちまんぐう)とも称される。境内の三角池(みすみいけ:古くは「御澄池」と記すこともある)を内宮、神殿を外宮とする。全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれ、承和年間(834-848年)の創建と伝える古社である。

由緒
養老3年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱(大隅国府襲撃)で大伴旅人が率いる大和朝廷軍および宇佐神宮の辛島波豆米(からしまのはづめ)率いる宇佐「神軍」が、薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、薦枕(こもまくら)を神体に、神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと言われる。この薦刈神事は現在6年ごとに行われる宇佐神宮行幸会の中で辛嶋一族が当時より行い伝えている[要出典]。
大貞の「貞」の字には占いの意味があると言われ、道教との関連性も指摘されている。
薦神社と三角池は、「三角池と薦神社」として昭和51年(1976年)3月30日に大分県指定史跡、「三角池の水生・湿地植物群落」が大分県指定天然記念物に指定されており、神門は国の重要文化財に指定されている。

参考文献
・『写真集 薦神社 神門編』、薦文化研究所、平成11年
・谷川健一編『日本の神々 – 神社と聖地』第1巻九州、白水社、1984ISBN 4-560-02211-9
・『大分県の文化財』、大分県教育委員会、平成3年

川平間歩  中津市本耶馬渓町 ( 大分県 )

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川平間歩  中津市本耶馬渓町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、水土里ネット荒瀬井堰から。中津市街から国道212号により本耶馬渓町へ向かう。三光土田は、青の洞門のだいぶんまだ手前である。荒瀬井堰の「川平間歩の跡」は、国道に案内板がなく場所がわかりにくいから、所在地図を参照。

国道が県道672号と交差する三光土田の樋田交差点近くから、サイクリング道路へ入る。この道路は、中津市の中津駅から下毛郡山国町(現中津市)の守実温泉駅間に、大分交通が運営していた鉄道路線「耶馬渓線」跡である。1975年に全線が廃止された
2つの鉄道跡トンネル先のサイクリング道路左脇に「川平間歩の跡」史跡説明板があったが、場所的には、国道先の鮎帰りバス停からサイクリング道路(「日田街道中津往還」の道でもある)に入り戻った方が、近くてわかりやすい。

川平間歩 こうべら
中津市 山国川→荒瀬井路 素掘トンネル(水路) 長1.2㎞ (トンネル9ヶ所を含む切通し部計) 元禄2(1689) 県史跡 市教委/WEB 昭和56非現役/昔のままのノミの跡が残る 施主: 中津藩主・小笠原長胤/上記の「荒瀬井路」のための隧道/「堀り屑一升、銭一升」といわれた難工事→奉行・片桐九大夫に命じて草本金山を閉鎖し採鉱夫150人を総動員した 1 B

現地説明板は、次のとおり。「川平間歩」は現在は使われていない。昭和56年、川下側に新トンネルの水路が完成しているが、その様子は後ろの写真のとおり。

県史跡指定  水の洞門・川平間歩(かわべらまふ)

荒瀬井堰は、下毛原台地真坂、山口、鶴居、大幡、三保、如水、和田、今津、旧八ヶ村百余町歩(後千町)の水田潅漑の悲願達成のため、旧中津藩主小笠原長胤が貞享3年(1686年)10月着工、藩の運命を堵けた大工事であった。中でも山国川沿いの岩山をうがった仏坂川平間歩(トンネル)は「堀り屑一升、銭一升」といわれた難工事で奉行片桐九大夫に命じて草本金山(現山国町)を閉鎖して採鉱夫150人を総動員して3年後の元禄2年(1689年)3月通水に成功した。ところが、川平間歩(千メートル)は岩質がもろく、永年の風化と近年の交通量増大振動による落石落盤ががひどく昭和56年竣工の総工費3億4千万円の付け替え新トンネルに「水の洞門」の役目をゆずり、292年間の通水を止め廃坑となりました。手堀りの当時のままの内部断面は幅・高さ平均2mの箱形で、一番間歩から九番間歩までサイクリング道(旧耶馬溪線跡)に沿って続いて土出口や手堀りののみの跡に300年前の難工事の跡が偲ばれる。青の洞門を30年かけて堀抜いた禅海はこの「水の洞門・川平間歩」の岩盤と堀方を手本にして46年後の享保20年(1735年)着工を決意したといわれている。
昭和59年3月  中津市教育委員会