月別アーカイブ: 2015年9月

左近の石  人吉市 人吉城跡内 ( 熊本県 )

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左近の石  人吉市 人吉城跡内

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉城跡の北東、水の手門上の広場に、球磨川の川中から移された「左近の石」があるので、堀合門の対面からこの広場に上がる。

左近の石 さこん
人吉市 人吉城<球磨川> 自然石(安山岩)(治水用) 高2.2m,周囲10.8m,重31t 慶長12(1607) 現地解説版 昭和43、人吉城内に移設 家老・村上左近の進言/中河原の先端に巨大な石を置き、洪水に備えたり流路調節に使われた 3 B

現地説明板は、次のとおり。

左近の石
重さ31㌧、周り10.83㍍、高さ2.19㍍、安山岩のこの巨大な岩は、本来は水の手橋中央部付近の球磨川の中に置かれていた岩の一つであり、昭和43年の球磨川の河川改修工事の際に城内に移されたものである。
慶長12年(1607)に中州の中川原(大岩瀬)を挟んで球磨川唯一の橋である大俣橋・小俣橋が架けられた。しかし、中洲を橋台としていたため増水で橋が壊れることが多く、人吉藩家老の村上左近の進言によって中州の上流部の先端に大岩を多数沈めて中州が流失しないようにしたという。
平成9年3月  人吉市都市計画課

谷口渡場・跡  人吉市 人吉城跡内 ( 熊本県 )

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谷口渡場・跡  人吉市 人吉城跡内

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉城跡の北東側、球磨川筋に谷口渡場・跡はある。

谷口渡場・跡 たにぐち
人吉市 人吉城<球磨川> 渡し場 安永9(1780) 歴史の道・球磨川水運p.57/WEB(みさき道人) 川に面した人吉城の石垣脇に石垣・石階段・石畳が一連で残る/川岸には巨石の敷石も残る 谷口舟渡は、主に城内と対岸の商人町・侍町との交通に利用されたもの/藩は宝暦6(1756)に谷口より上流に他領の舟が上るのを禁止しており往来監視のため舟番所も置かれた/渡し場の跡が残る稀少な事例 1 A

現地説明板は、次のとおり。

谷口舟渡跡
江戸時代、球磨川に架けられた常設の橋は、城下の中川原にあった大俣橋・小俣橋の1ヶ所であった。そのため対岸と往来するには川舟を利用しており、球磨川筋には多くの舟渡場があった。
谷口舟渡は、主に城内と対岸の商人町・侍町との交通に利用されたものである。藩は宝暦6年(1756)には谷口から上流に他領の舟が上るのを禁止しており、往来監視のため舟番所も置かれていた。
なお、梅花の渡は、対岸五日町裏の渡し場のことである。
平成5年3月 人吉市教育委員会

瀬戸石ダム放流中  球磨村神瀬 ( 熊本県 )

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瀬戸石ダム放流中  球磨村神瀬

HP「熊本県のダム」によるデータは、次のとおり。八代市から人吉方面へ球磨川沿いの国道219号により行く。撤去工事中の荒瀬ダムの上流側にあるのが、球磨村の瀬戸石ダム。
9月4日16時28分頃通りかかったが、また前線が近づきつつあり放流中だった。

瀬戸石ダム(せといしだむ)

形式 重力式コンクリートダム
用途 発電
所在地名 熊本県球磨郡球磨村神瀬
位置 北緯32度21分31秒 東経130度38分26秒
河川名 球磨川水系球磨川
ダム湖名
着手/竣工 1956/1958
管理 電源開発(株)

堤高 堤頂長 堤頂幅 堤体積 堤頂標高
26.5m 139.4m m 25,000m3 m
流域面積 湛水面積 総貯水容量 有効貯水容量
1,629.3K㎡ 124ha 9,930,000m3 2,230,000m3

瀬戸石発電所
最大出力 使用水量 落差 形式
20,000kw 134m3/s 17.2m ダム式

瀬戸石ダムは、電源開発(株)が所有する発電専用の重力式コンクリートダムです。
ダム直下の瀬戸石発電所では最大出力20,000kwの発電を行っています。
またこのダムには魚道があり、「アイスハーバー型」を採用しています。その全長は約430mで、その3/4に当たる約300mはトンネルや暗渠となっています。

遥拝頭首工  八代市豊原上町 ( 熊本県 )

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遥拝頭首工  八代市豊原上町

八代平野土地改良区連合(遥拝頭首工)HPによる説明は、次のとおり。JR八代駅前先から新萩原橋を渡って、人吉方面へ国道219号に入る。南九州自動車道の高架下をくぐると、球磨川にこの堰がある。

遥拝頭首工の歴史と役割

遥拝頭首工は、八代平野の農業用水・工業用水の取り入れ口として造られた堰です。歴史は古く、中世名和時代には「杭瀬」と呼ばれ、近世加藤時代のころから「遥拝堰」と呼ばれるようになったようです。杭瀬というのは、杭を川の中に立て並べてしがらみにしたもので、そこから水を引くために掘られた井手が、宮地側の 「太田井手」、高田側の「奈良木井手」、「遥拝井手」などです。この 「杭瀬」を加藤清正が大型の割石や自然石を用いて大石堰に改築したと伝えられています。

名和時代には、堰と用水井手の鎮守として高田側の山麓に宮がまつられ、これがのちの遥拝神社(豊葦原神社)といわれています。また、今でもこの堰を「遥拝堰」または「遥拝の瀬」と呼ぶのは、このほとりに 懐良親王が高田御所に在居の折、吉野の皇居を遥拝した宮が鎮座することに由来しているという説があります。

遥拝堰は、加藤家、細川家、松井家、そして地域住民の努力によって、明治・大正・昭和の時代へと 引き継がれ、昭和23年に農林省管轄の国有財産になりました。

現在の遥拝頭首工は、昭和40年11月に着工され、昭和44年3月に竣工した施設ですが、農業用水を 取水するための「国営八代平野農業水利事業」と工業用水を取水するための「熊本県工業用水道事業」の共同によって施工されました。

計画最大取水量は、農業用水が毎秒19.583立方メートル(6,777ha)、工業用水が毎秒5.555立方メートルですが、現在では、農業用水に毎秒最大16.589立方メートル(5,556ha)、工業用水に毎秒2. 758立方メートルが利用されています。

平成15年からは、上天草・宇城地域の水道水としても毎秒0.282立方メートル(計画給水人口107, 222人)が利用されています。

湾 洞  八代市 球磨川 ( 熊本県 )

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湾 洞  八代市 球磨川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR八代駅前から国道3号を東へ進む。すぐの萩原町交差点から国道219号に入った新萩原橋手前から球磨川の堤防道路に出る。萩原堤を通り上流へ進むと、肥薩おれんじ鉄道の鉄橋近くにJR線のガード下車道があり、これに曲がって下ると湾洞の沈砂池に着く。

湾 洞 わんどう
八代市 球磨川→用水 沈砂池 30m×40mほどの池 文政4(1821)以前 歴史の道・球磨川水運p.119 加藤清正?/球磨川の遙拝堰から引いた水の流速を落とし、砂を用水に流下させないように工夫したもの 3 C

萩原堤のハネ  八代市 球磨川 ( 熊本県 )

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萩原堤のハネ  八代市 球磨川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR八代駅前から国道3号を東へ進む。すぐの萩原町交差点から国道219号に入った新萩原橋の上下流に萩原堤のハネ群が見える。写真は下流側からそれらしきもの。
7枚目写真の左側白い標柱が、「名勝 萩原堤」の説明標柱。

萩原堤のハネ はぎわら
八代市 球磨川 石水制(三角) (3ヶ所) 慶安2(1649)以前 歴史の道・球磨川水運p.121 球磨川の大屈曲部に、堤防を補強するため造られたもの C

球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石 八代市 球磨川 ( 熊本県 )

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球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石 八代市 球磨川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR八代駅前から国道3号を東へ進む。すぐの萩原町交差点から国道219号に入った新萩原橋の下流に球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石が見える。

球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石 くま、まえ
八代市 球磨川 越流堤 寛永11(1634) 歴史の道・球磨川水運p.124 セメントで補強されているが、江戸時代の面影が残る 新川運河を閉鎖するために設けられた石積堤 3 B

甘夏みかん原木  芦北町田浦町 ( 熊本県 )

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甘夏みかん原木  芦北町田浦町  

現地説明板は、次のとおり。芦北町田浦基幹支所玄関脇にある。

甘夏みかん原木
この樹は、昭和26年3月、鶴田源志氏他3名の農家が大分県津久見市から、カラスのつつく甘い夏みかんの穂木を貰って持ち帰り苗木に育て、日本で始めて田浦町に植付けられた「甘夏みかん」原木のうちの1本である。
これらの樹から採穂され、育てられた子孫の苗木は、熊本県内から九州全域に広まり、更に、本州、四国へと渡って植付けられ、町内だけでも約500ヘクタールの果樹園に推計40万本が植栽され、「日本一の甘夏みかん産地」として名声を博するまでに成長している。
甘夏みかんが導入されて以来35年間、町の発展に貢献した功績を讃え、町のシンボル樹として、鶴田庶氏の好意により最初の植栽地から此処に移植したものである。
昭和61年6月   田浦町長 市川 信明

滝ノ上の石畳(佐敷太郎の石畳)  芦北町海浦 ( 熊本県 )

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滝ノ上の石畳(佐敷太郎の石畳)  芦北町海浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道3号旧道の佐敷隧道へ戻り、隧道を抜けて芦北町小田浦へ下る。山腹を回り込んだ途中の滝の上橋から芦北広域農道の下をくぐり、「滝ノ上地区ふれあいセンター」まで行く。
この前に「薩摩往還石畳」の説明板がある。「滝ノ上の石畳」はすぐ近くかと思ったが、遠かった。薩摩街道の小沢沿い急坂を30分は登る。史跡説明板があったのは、佐敷峠から下り道を確認した農道の、もうすぐ下の植林地内だったのでガックリきた。

滝ノ上の石畳(佐敷太郎の石畳) たきのうえ
(葦北)芦北町 <薩摩街道> 石畳道 長約20m,幅1.8m 江戸期 町史跡 WEB 放置保存(再発見) 薩摩街道の難所の一つ 2 –

佐敷太郎峠の切通し  芦北町白岩 ( 熊本県 )

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佐敷太郎峠の切通し  芦北町白岩

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道27号の肥薩おれんじ鉄道佐敷高架橋を下ったすぐ先から船津橋へ左折。橋を渡ると三叉路となっており、右が薩摩街道で、奥へ進むと前田に佐敷峠へ登る街道の入口案内板がある。中央が国道3号旧道で佐敷隧道へ続く。

佐敷太郎峠の切通し さしきたろう
(葦北)芦北町 <薩摩街道> 切通し 長10数m(2ヶ所) 江戸期 町教委 放置保存 薩摩街道の難所の一つ 2 C

佐敷峠へ登る街道の山道は、途中、採石現場となり鉄柵があって、ウォークイベント以外、普段は通行できないから、国道3号旧道を利用し佐敷隧道まで行く。隧道入口右側の車道をなお進むと、広いミカン畑となり、手前に薩摩街道ウォークコースの標識があった。
ミカン畑の端を登りつめると、この高所が薩摩街道佐敷峠と言われるところであろう。農道が反対側から上がり、抉られた農道のカーブ地点となっている。遺産サイトの切通しがどこなのかわからないが、ほかに切通し状のところは見当たらず、ここが当時の佐敷太郎峠の切通しだろうと判断した。間違いがあれば、後から修正したい。
農道をまっすぐ進むと、やがて農道の分岐点に御駕据所跡の標識があり、江戸への道は、滝の上の谷間へ下っていた。

(2015年9月10日 追 記)
芦北町教育委員会の生涯学習課文化振興係回答によると、佐敷太郎峠の切通しは、尾根筋に登り上がる際に頂上部の岩盤の一部を削って通路を削り出した簡易なものである。場所は標識とカーブミラーのあるところの背後の尾根をもう少し登る。これが薩摩街道佐敷峠の正しい道である。
撮影写真の提供を受けたので、最後に2枚を追加する。