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上南の道標  あさぎり町上南字麓 ( 熊本県 )

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上南の道標  あさぎり町上南字麓

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストデータにある麓地区麓馬場通り角の、四角柱の上に笠と宝珠を載せる珍しい形態の「麓地区の道標塔」など2本は、前の記事とした。
麓地区には、あと1本「宝暦道標」があると、大門前の案内図(ズーム拡大)に示されていたので訪ねた。

県道43号を人吉側へNTT西日本上村交換所角まで少し戻る。ここの小橋脇に、道標はたしかにあった。カーブミラー下のペンペン草を払うとグラグラしていたが、「宝暦十一?年」など読み取れる。他の刻面は、写真のとおり。寸法は、20cm角、高さ70cm。
この小川が麓地区町割り境の堀となっており、案内図には「ホリクダ」と表示されている。堀の小川を伝って曲がると鉄砲小路へ通じていた。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストのデータに、次のとおり登載された。

上南の道標 うえみなみ
(球磨)あさぎり町 (麓地区) 石道標(尖頭角柱) 高70㎝,幅19㎝,厚18㎝ 宝暦14(1764) WEB(みさき道人) 原位置? (左面)「従是、西 人吉/東 湯前、道」 1 –

上南の題目塔道標  あさぎり町上南字麓 ( 熊本県 )

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上南の題目塔道標  あさぎり町上南字麓

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道33号あさぎり町深田小学校前から南東に、県道48号と県道260号により免田を通り上村小学校角まで行く。左折して県道43号を進むと、白髪神社前の麓バス停に着く。この山手一帯が麓地区である。

大門をくぐり、麓馬場通りをしばらく進むと、左手へ谷水薬師へ向かう道がある。この角に道標が2本ある。四角柱の上に笠と宝珠を載せる珍しい形態とは、これだろう。正面に「安永三年 奉寄進」右面に「従是 三番 谷水薬師」とか小さく刻む。塔身部分は、幅20×横22×高さ70cm。
あと1本は、四角柱でやや新しい。正面「左 薬師道」右面「是 南上村」とか大きく刻む。

上南の題目塔道標 うえみなみ
(球磨)あさぎり町 (麓地区) 石道標(笠付き) 高70㎝(塔身のみ),幅20㎝,厚22㎝ 安永3(1774) WEB(みさき道人) 原位置? (右面下部右)「従是 三番/谷水薬師」/正面に「奉寄進」と陰刻/笠だけでなく宝珠も載せている 1 C  

麓地区の町割り遺構  あさぎり町上南字麓 ( 熊本県 )

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麓地区の町割り遺構  あさぎり町上南字麓

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道33号あさぎり町深田小学校前から南東に、県道48号と県道260号により免田を通り上村小学校角まで行く。左折して県道43号を進むと、白髪神社前の麓バス停に着く。この山手一帯が麓地区である。

麓地区の町割り遺構 ふもと
(球磨)あさぎり町 麓城城下 石垣のある街路 15世紀中〜16世紀中? 町教委 小規模な修復 麓馬場、天神馬場(馬場は街路のこと)、鉄砲小路などに石垣が残る/道の両側の石垣上から通過する敵を攻撃するため 2 B

上村城址にある現地説明板は、次のとおり。

上村城址 あさぎり町史跡

南北朝時代(1332〜1392)の球磨郡は、上相良家(多良木)と下相良家(人吉)が南朝側と北朝側に分かれ、周りの豪族を引き入れて互いに争った時代でもありました。当時の上村は、三池兵庫助妻女の支配地でしたが、正平年中(1346〜1369)には、上村三十五町・八十石が人吉の相良定頼の領分となったことを『大日本古文書』に記録されています。
上村城は、麓城、亀城とも呼ばれる中世の山城で、麓集落の東南部に位置しています。いつ頃の築城かはわかりませんが、南北朝時代に相良氏の領地となったことで、その頃から人吉城の支城として使われていたものでしょう。城主には相良一族を配したと思われます。高城・中城・下城の三つの廓(平場)に分れていて、大手に通じる麓馬場と天神口馬場があり、大手の西手から堀切が東西に掘られ、さらに折れて南北に走っています。この堀を外堀として二つの馬場を包み込み、東の谷水川をはさんで壮大な山城を形成していました。このことから麓地区全体が城内であったようです。
室町時代、上村家第11代三河守直頼が城主となり、12代頼廉、13代頼興と続きました。
その頼興の嫡男で藤五郎頼重(のちの相良晴広)が相良宗家を継ぐことになり、14代左衛門大夫頼孝は、宗家の相良義陽(晴広の嫡男)に対して反乱を企てたことで上村家は没落、その後、上村城は、犬童美作頼安入道休矣(相良清兵衛の父)の居城となりました。
永禄9年(1566)には、相良清兵衛頼兄が誕生していますが、一説ではこの上村城で誕生したのではないかと考えられています。上村氏は、相良長頼の四男で四郎頼村を初代とし、12代頼廉(相良家第13代長毎の弟)を相良氏から迎えたことでさらに血縁が濃くなり、やがては、相良氏を上村晴広(相良氏第17代晴広)が養子に迎えられて相良宗家を継ぐことになりました。

武家屋敷の地割
上村城跡北西側の麓地区が城下にあたります。そこには中世の侍屋敷があったところで、敷地の地割や石垣・老木・水路など今でも残っていて歴史的に大変珍しい集落です。
上村城跡登城口から白髪神社へ向かうまっすぐな道の通りを『麓馬場通り』といい約350mあります。また、登城口から西へ向かう通りを『天神口馬場通り』といい約250mあります。通りの左右には、中世(南北朝〜桃山時代)、上村氏の重臣たちの屋敷が続き武家屋敷を構成していました。『馬場』とは、馬がまっすぐに走れる通りで、乗馬や馬術の訓練を行ったところの呼称といいます。
あさぎり町教育委員会    平成22年3月吉日建立

深田小防空壕跡  あさぎり町深田東 ( 熊本県 )

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深田小防空壕跡  あさぎり町深田東

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋の途中で見たものによるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町へ向かう。あさぎり町深田の中心部、県道48号が分岐する角に深田小学校がある。校庭西側のアーチ2基は、防空壕跡だった。

深田小防空壕跡

球磨郡あさぎり町深田東
径間:1.2m  拱矢:0.4m  環厚:30cm

深田小学校の西側にアーチが2基あります。
もう一つのアーチは内部が少し見えます。
近所の方にお伺いしました。
戦時中の防空壕跡で、校庭の下に掘られているそうです。

立 岩 橋   あさぎり町深田西 ( 熊本県 )

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立 岩 橋   あさぎり町深田西

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町へ向かう。錦町境からあさぎり町深田西に入り、古町バス停を過ぎた球磨川沿いに特異な形の立岩がある。この立岩先の県道下に架かる。

№4,222 立岩橋 (架設当初名:新城橋)

球磨郡あさぎり町深田西
木上用水路
橋幅:5.2m  径間:3.64m  拱矢:1.85m  環厚:39cm(要石49cm)  輪石:17列   基礎H:1.75m
架設:大正11(1922)年
左が立岩の史跡
立岩の少し東側を水路が横切っています。上流から。奥にかすかにアーチが見えています。

立岩の舟留め遺構  あさぎり町深田西 ( 熊本県 )

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立岩の舟留め遺構  あさぎり町深田西

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町へ向かう。錦町との境からあさぎり町深田西に入って、古町バス停を過ぎた先の球磨川沿いに特異な形の立岩がある。
立岩の下に岩場が突き出て、船場だったようだが、草が茂ってどうしょうもない。説明標柱には「立岩の裏面には舟綱をつなぐ人工穴と「舟場」と刻まれた文字が残っている」とあるが、立岩の崖面ではどれかはっきりしなかった。

立岩の舟留め遺構 たていわ
(球磨)あさぎり町 球磨川 舟繋石 高・幅とも約10mの巨岩 江戸期 町史跡 町教委/WEB 保存状態良好 舟溜のくり抜き穴と、崖面に「舟場」の文字を刻む遺構/明治40の句「大根舟 続く炭舟 下り舟」(井上微笑)の碑も嵌め込んである 1 B

木上溝第一・第二・第三隧道  あさぎり町深田ほか ( 熊本県 )

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木上溝第一・第二・第三隧道  あさぎり町深田ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町へ向かう。
私は下流錦町木上側から調査して行ったが、下記「木上村史」の記述に合わせ、取入口の石坂堰からの写真に並べ変え報告する。

木上溝第一隧道 このえ
(球磨)あさぎり町 球磨川→木上溝 素掘トンネル(水路) 長233.9m, 坑口 (高1.3m,幅1.5m) 内部(高3.5m) 宝暦9(1759) 町教委/歴史の道・球磨川水運p.36 保存状態良好 3つの隧道の総延長は789.5mに達する/溶結凝灰岩台地をくり抜いた隧道/放物線形状の入口/内部:曲折が多い 1 B

木上溝第二隧道 このえ
(球磨)あさぎり町 球磨川→木上溝 素掘トンネル(水路) 長78.2m, 坑口 (高1.3m,幅1.4m) 宝暦9(1759) 町教委/歴史の道・球磨川水運p.36 保存状態良好 3つの隧道の総延長は789.5mに達する/溶結凝灰岩台地の崖下に放物線形状の入口を持つ/内部:数mおきに灯火を置いたと思われる直径20㎝ほどの半球形の掘込みがある 1 C

木上溝第三隧道 このえ
(球磨)あさぎり町・錦町 球磨川→木上溝 素掘トンネル(水路) 長477.4m, 坑口 (高約1.5m,幅1.6m),内部(最大高2.5m,幅2m) 宝暦9(1759) 町教委/歴史の道・球磨川水運p.36 保存状態良好 3つの隧道の総延長は789.5mに達する/内部:①入口から50mと182mの左側に高さ1.7m、幅1mの「明り窓」、②203地点に、延長26.7mの開渠部 1 B

(錦町で)木上溝第三隧道 このえ (球磨)錦町・あさぎり町 球磨川→木上溝 素掘トンネル(水路) 長477.4m,坑口: 高約1.5m,幅1.6m,内部:最大高2.5m,幅2m 宝暦9(1759) あさぎり町教育委員会/歴史の道・球磨川水運p.36 保存状態良好 3つの隧道の総延長は789.5mに達する/内部:①入口から50mと182mの左側に高さ1.7m、幅1mの「明り窓」、②203地点に、延長26.7mの開渠部 1 B

木上溝の概要と歴史は、「木上村史」から次のような引用がある(歴史遺産を守るHP)。

木上溝は須恵村と深田村との境にある石坂堰から水を引き、県道の南側、庄屋を通り下里に来て、ここで第一の貫(ぬき)に入り、善正寺や深田小学校の丁度下をくぐり、銅山川の下を抜けてここから県道の北側を城村に至り、ここで再び第二の貫を通り、古町に出て、更に木上との村境近くで第三の貫に入り、平川に抜け、ここで県道の南側に移り、岩城まで流れ、再び県道の北側に移り、更に南側に移って十日市まで流れ球磨川に注いでいます。

天子の水公園  あさぎり町深田西草津山 ( 熊本県 )

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天子の水公園  あさぎり町深田西草津山

熊本県観光サイト「なごみ紀行 くまもと」による説明は、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町深田へ向かう。深田西に入った蟹ケ迫入口バス停近くに「天子の水公園」案内板があり、左折して標識により、谷間の公園へ進む。

天子の水公園
所在地 球磨郡あさぎり町深田西草津山
駐車場 小型30台
施設説明
平成11年度に完成した公園。敷地面積は5230㎡。5月中旬頃からホタルが乱舞し、5月後半から6月中旬まで約3万株の花菖蒲に花を咲かせ6月第1日曜日には花菖蒲祭りが開催され多くの来客者で賑わいます。他にも、アジサイなど四季折々の花々が植栽されています。公園内にある湧水「天子の水」は、景行天皇が飲んだという故事にちなんで名付けられたもので、年間を通じ清らかな水が涌きます。

大井戸遺構2  人吉市 人吉城跡内 ( 熊本県 )

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大井戸遺構2  人吉市 人吉城跡内

現地説明板は、次のとおり。人吉城跡の北側、後口馬場通り右手広場奥に「人吉城歴史館」があり、同館内に相良清兵衛屋敷の地下室大井戸遺構がある。
後ろの写真は、同館を含む西外曲輪で見た後口馬場の井戸跡、下台所跡・犬童市衛門屋敷跡の井戸跡。

相良清兵衛屋敷の地下室
6m四方の大きさで、深さは3m、出入り用の階段が二ヵ所にあって、床の一角には途中まで石段がついた水深2.3mの方形の大型井戸がある。床面北側の小石敷の下にはスギ板を敷き、井戸底からは刀が出土している。
「お下の乱絵図」によれば、地下室跡は、二階建ての持仏堂の位置に相当するとみられる。寛永17年(1640)のお下の乱の時、この持仏堂は犬童半兵衛一派の隠れ場所となり焼失している。内蔵助屋敷の「蔵」跡に推定される大井戸遺構と、構造や特徴、築造年代がよく類似している。全国的には類例のない謎の多い遺構である。

大井戸遺構1  人吉市 人吉城跡内 ( 熊本県 )

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大井戸遺構1  人吉市 人吉城跡内

現地説明板は、次のとおり。人吉城跡の北側、後口馬場通り右手広場の休憩施設建物内に展示。ガラス越しや網目越しにしか撮影できなかったから、写りが悪い。
最後の「大井戸遺構の底に敷かれていたスギ板の様子」写真は、同説明板から。

大井戸遺構 (相良内蔵助屋敷の地下室)

1 発掘調査年度 平成13年度
2 調査主体者  人吉市教育委員会
3 遺構の名称  「大井戸遺構」(相良内蔵助屋敷の地下室)
4 構築の年代  江戸時代初期(慶長年間〜寛永年間)
5 大 き さ   東西5.4m、南北2.7m、深さ4mの石組。 井戸の水深 約1.2m。
6 遺構の特長
人吉城跡では、井戸のある地下室が二つ発見されています。一つは「人吉城歴史館」の中庭にある大井戸遺構で、二つ目はこの大井戸遺構です。地下室遺構は、寛永17年の「お下(しも)の乱」を描いた人吉城絵図によれば、家老を務めた相良清兵衛の屋敷内にあった二階建ての「持仏堂」に、大井戸遺構は、その息子の内蔵助の屋敷内にある「蔵」と描かれた建物の位置に相当するようです。
二つの地下室は、石段の降り口、踊り場、方形の大型の井戸、黒色の小石敷き、その下はスギ板敷きなど、構造が良く似ています。江戸時代の初期に建造され、寛永17年(1640年)7月の「お下(しも)の乱」の直後に破壊されて埋められていました。特殊な目的のために造られた井戸と推定されますが、全国では同様な遺構の発見例がなく、謎の多い遺構です。
今回、実物展示のため石積みの復元修理を行い、上部に推定される建物と同じ規模(6m×7m)の覆屋を建設し、休憩施設としました。(平成17年度国・県補助金事業)