月別アーカイブ: 2015年8月

甲佐町やな場  甲佐町豊内 ( 熊本県 )

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甲佐町やな場  甲佐町豊内

熊本県観光サイト「なごみ紀行 くまもと」による説明は、次のとおり。甲佐小学校角となる下豊内交差点から県道220号に入ると、「甲佐町やな場」を通る。
樋門から大量の水をやな場に流し込んでいるアーチ式石橋「簗元橋」(架設当初名:簗場口目鑑橋)を見たかったが、近寄れない。

甲佐町やな場
所在地 上益城郡甲佐町豊内19−1
施設説明
鮎漁の解禁にあわせて営業開始。甲佐町を流れる緑川は鮎のメッカとして知られ、毎年6月1日の解禁以降、
10月末まで多くの釣り人で賑わいます。その鮎を味わいながら、川辺の清涼感を満喫できるのが「やな場」です。

県内はもとより、全国から多くの観光客が訪れるやな場は、今から約400年前の加藤清正の時代に造られた水田用水のための堰(せき)に由来します。その後、寛永10年(1633年)に当時の肥後藩主・細川忠利公が、堰近くの砂だまりを泳ぐ魚を見て、獲る方法はないかと尋ねたことがきっかけで、落ちてきた鮎を獲る「簗(やな)」が設置されました。

現在のようなやな場が作られたのは戦後で、水上に建つ茅葺き屋根の風情あふれるあずま屋で、別名“香魚”とも呼ばれる香り高い鮎を、刺し身・塩焼き・田楽などさまざまな調理法でいただくことができます。…

小鹿の堤の余水吐  甲佐町小鹿 ( 熊本県 )

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小鹿の堤の余水吐  甲佐町小鹿

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道220号宮内小学校の背後にあり、井戸江峡の大吊り橋近くから小鹿の分岐道へ入る。やや広い谷間の田の小川に出て、この川沿いの荒れた車道を、まっすぐに登って行くと、小鹿の堤に着く。
余水吐は左奥にあり、岩盤を掘った一部石積みの底面と、その下は滝のように岩盤の中を落下していた。堤からかなり下部の橋のところに、水路取入口があった。

小鹿の堤の余水吐 おが
(上益城)甲佐町 渓流 余水吐 幅10m以下,長20m 寛永2(1625) 町教委 保存状態良好 岩盤を加工して造られている(部分的に石積を使用) C

トロッコ林道の鉄橋  甲佐町坂谷 ( 熊本県 )

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トロッコ林道の鉄橋  甲佐町坂谷

矢部から甲佐に出るため国道218号金木交差点から県道220号を通った。甲佐町大字坂谷 広瀬で見た緑川に架かるトロッコ林道の鉄橋跡。

トロッコ林道の鉄橋
伊佐営林署から内大臣の角上げまで大正三年から昭和二年にかけて作られた。この鉄橋を木材を満載したトロッコが何度も往復した。
しかし、トラックの発達と内大臣橋の架橋によりトロッコは昭和三十九年廃止。

広瀬目鑑橋  甲佐町坂谷 ( 熊本県 )

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広瀬目鑑橋  甲佐町坂谷

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。矢部から甲佐に出るため国道218号金木交差点から県道220号を通った。甲佐町大字坂谷 広瀬で見た旧道の石橋。県道220号に案内標識あり、すぐ上に見える。

№197  広瀬目鑑橋(架設当初名:野中谷懸目鑑橋)

上益城郡甲佐町大字坂谷 広瀬
野中谷
橋幅:3.72m  径間:1.7m  拱矢:1.05m  環厚:38cm
県道220号線を砥用町・甲佐町境を過ぎ西へ進み、広瀬地区右手に倒れかかった標柱あり、注意しないと見落とすかもしれません。

肥後変成帯(ミグマタイト)  甲佐町西原 ( 熊本県 )

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肥後変成帯(ミグマタイト)  甲佐町西原

現地説明板は、次のとおり。矢部から甲佐に出るため国道218号金木交差点から県道220号を通った。甲佐町西原の緑川対岸にあった肥後変成帯(ミグマタイト)の説明標柱。

肥後変成帯(ミグマタイト)
この辺り一帯にみられるスジが入った岩石は、ミグマタイト 肥後変成帯と呼ばれる。圧力や温度の作用で縞模様に出来たもので、岩石の形成温を確認できる貴重な資料。日本の地質百選の一つ。

西ノ鶴橋  美里町甲佐平 ( 熊本県 )

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西ノ鶴橋  美里町甲佐平

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。矢部から甲佐に出るため国道218号金木交差点から県道220号を通った。美里町(旧砥用町)甲佐平で見た小さな石橋。

№195  西ノ鶴橋

美里町(旧砥用町)甲佐平
橋長:2m  橋幅:1.85m  径間:2.0m  拱矢:1.22m
県道220号線を、甲佐平郵便局から西へさらに進むと右手に案内板あり。

達磨大師・仁王像・ヤマと森の女王  山都町・八朔祭の大造りもの ( 熊本県 )

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達磨大師・仁王像・ヤマと森の女王  山都町・八朔祭の大造りもの

矢部の町中などで見た達磨大師・仁王像・ヤマと森の女王など。竹や杉、シュロの皮など自然のものを使って造られている。
八朔祭は、旧矢部町に秋の訪れを告げる大祭。江戸時代中期から始まったとされる。巨大にして精巧な造り物が、町を引き廻される。これらはその造り物で、これまでの八朔祭の作品だろう。

相藤寺の石畳  山都町白藤 ( 熊本県 )

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相藤寺の石畳  山都町白藤

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道180号により猿ケ城キャンプ場方面へ向かう。途中、山都町白藤の相藤寺(現在の地名は「相藤寺」が正か)バス停先に、「愛藤寺城跡」案内標識があり、右側の高台へ登って行くと城跡へ着く。城跡南の町道側に城石垣の一部が残るが、崩落のためかブルーシートで覆われていた。
「相藤寺の石畳」は、場所がわかりにくいが、この町道をそのまま津留の田の原と送電鉄塔が見えるあたりまで下って行くと、左側に登る坂道に説明標柱がある。町道はこの先、水道施設のところまでなので引き返す。

相藤寺の石畳 あいとうじ
(上益城)山都町 石畳道 長42m,幅1.5m 弘化3(1846)頃 町史跡 矢部町史 保存状態良好 施主:惣庄屋・布田保之助 2 C

山都町指定文化財一覧による説明は、次のとおり。

33 記(史) 相藤寺の石畳 〃 白藤・相籐寺 ・相藤寺にある石畳道で、幅1.5m、長さ42m。現在のところ、(通称)布田保之助事業帳(「布田家文書」)に記載されている、弘化4年(1847)奥相藤寺に建設された新道と考えられる。 〃

愛藤寺城跡(矢部城)  山都町白藤 ( 熊本県 )

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愛藤寺城跡(矢部城)  山都町白藤

県道180号により猿ケ城キャンプ場方面へ向かう。途中、山都町白藤の相藤寺(現在の地名は「相藤寺」が正か)バス停先に、「愛藤寺城跡」案内標識があり、右側の高台へ登って行くと城跡へ着く。城跡南の町道側に城石垣の一部が残るが、崩落のためかブルーシートで覆われていた。
山都町指定文化財一覧による説明は、次のとおり。

30 記(史) 愛藤寺城跡(矢部城) 〃 白藤 ・建設時期は判然としない(阿蘇大宮司の持城として築かれたとされている)が、小西、加藤期にはそれぞれの城代が置かれ、支城として利用された。その後、慶長17年(1612)幕命により破却された。 〃

津留ヶ渕道  山都町白藤ほか ( 熊本県 )

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津留ヶ渕道  山都町白藤ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道180号により山都町白藤バス停まで行き、左折して白石集落に入る。天満宮の少し手前から津留ヶ渕道を下った。植林伐採のため途中まで小ブルドーザーが道をならしていた。
その先は旧道の趣きが残り、谷間を渡る石垣道や縁石を並べたところがあった。猿ケ岳岩峰の鞍部から猿ケ岳キャンプ場の上部あたりに旧道は降りるらしいが、先までは下らなかった。縁石がある核心部から、田の農道にすぐ登られ、白石集落に戻った。
津留ヶ渕(鶴ガ淵?)の様子は、長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 72,73P 肥後矢部の製材所を参照。  https://misakimichi.com/archives/3980

津留ヶ渕道 つるがふち
(上益城)山都町 石畳道、他 幅3.6-4.5m,懸越1基を含む 元治元(1864) 重要文化的景観・重要な構成要素 文化的景観保存計画の概要(1) 保存状態良好(一部崩落) 施主:惣庄屋・布田市右衛門/緑川の津留ヶ渕と白石地区(現大字白藤)を結ぶ道筋 3 B