月別アーカイブ: 2015年2月

中原水道  みやき町蓑原 ( 佐賀県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

中原水道  みやき町蓑原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号東中原交差点から南へ入る。次の通りが旧長崎街道で左へ進むと中原宿東に「祇園社」がある。神社手前西脇を道路は挟んで流れる用水路が「中原水道」である。東寒水にも「祇園神社」があるが、ここは場所が違う。

中原水道 なかばる
(三養基)みやき町 寒水川 上水路 寛永11(1634)以前 町教委 堰の付近は当時の石組が残る/大部分がC改修 一の瀬井堰から取水し、宿場の飲用と灌漑用に用いた/成富兵庫茂安 2 C

お茶屋の堤と象の鼻  みやき町白壁 ( 佐賀県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

お茶屋の堤と象の鼻  みやき町白壁

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号白石東交差点から南の茂安通りに入る。白石神社分岐は上がらずそのまま市道を進むと、すぐ右手上に「お茶屋の堤」の堰堤がある。ここの左は白石神社参道口鳥居があるところである。

お茶屋の堤の「象の鼻」は、2枚目写真の堤対岸に見える石垣部分。接近できる林間の道がある。象の鼻は、写真6枚目以降。

お茶屋の堤 おちゃや
(三養基)みやき町 <通瀬川> 溜池 堤長約150m 寛永11(1634)前後 町教委 保存状態良好/締切堤中央にあった石樋管は残存していない 白石鍋島藩の成立(1633)後に茶屋が造られたため、成富兵庫茂安(1634没)の関与の可能性は不明 1 C

お茶屋の堤の「象の鼻」 おちゃや
(三養基)みやき町 <通瀬川> 水制(取水用) 長約50m 寛永11(1634)前後 町教委 先端部を除き用水はC化 用水の取水部は溜池東部にあり、嘉瀬川の石井樋にある「象の鼻」と同じ構造をしている→こちらの方が時代が後のため、何らかの理由で真似たとされている 2 B

白石神社と宝物展示館  みやき町白壁 ( 佐賀県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

白石神社と宝物展示館  みやき町白壁

国道34号白石東交差点から南の茂安通り市道を山手へ上がって行くと、白石神社がある。みやき町観光情報サイト「みやき」による説明は、次のとおり。

白石神社

佐賀藩の歴史を彩る、白石鍋島家ゆかりの神社
白石神社は北茂安校区・白石地区にある歴史ある神社です。文政6年(1823年)白石鍋島家第6代鍋島直章公により創建され、祭神は白石初代邑主鍋島直弘公、白石焼の先覚者である鍋島直暠公、土木治水の神・成富兵庫茂安公の御三体が合祀されています。
神社の境内へ続く参道の石段は、広い横幅に比べ、一段の高さは15cm程度で、警護の侍が馬に乗ったままで参拝できるよう、馬の脚に合わせて造られています。

由来
佐賀藩は肥前国の佐嘉・神埼・小城・杵島・藤津・三根全域と養父・松浦、高来、彼杵の一部を合わせ持った
(35万7千石を領有していた)外様大藩でした。
この領地を3支藩(蓮池、小城、鹿島)と鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)、龍造寺4家で守っていました。

この白石神社に祀られている鍋島直弘公は、初代佐賀藩主・鍋島勝茂の四男で、初代白石邑主(ゆうしゅ)です。父、勝茂の信頼厚かった家臣の成富兵庫茂安は、直弘の教育係として見込まれ、直弘は幼少の頃に養子として成富家で育てられました。
寛永11年(1634)茂安が75歳で没すると翌年白石邑(現在の北茂安校区・白石地区)に居をかまえ、のちに鍋島姓に戻った直弘はこれよりのちを白石鍋島家と称しました。(ちなみに「白石」という地名は成富兵庫茂安がかつて杵島郡白石(現在の杵島郡白石町)に知行地をもっていた事に由来するそうです。)
文政6(1823)白石鍋島家6代目邑主、直章公はこの地に邑祖直弘公を祭神とした社殿を建立し、その後、筑後川の治水土木事業に功績を残した成富兵庫茂安公を合祀しました。

成富兵庫茂安公とは…
白石神社は、治水事業に多大な功績を残した成富兵庫茂安公を合祀しています。茂安公は龍造寺家家臣、成富信種の次男として現在の佐賀市鍋島町増田で生まれました。
若い頃は勇猛果敢な肥前武者として広く名が知られており、豊臣秀吉、福島正則、浅野長政、藤堂高虎、黒田如水らそうそうたる戦国武将が文献の中で茂安公を褒め称えています。

白石神社宝物館
白石神社宝物館にある、走破焼の流れを汲んだ一対の三月堂形の磁製灯ろうは、高さ225cm、幅60cmの巨大なものです。明治18年(1885年)、「五十崎芳太郎作」と銘記されていて、宝珠、宝珠台、笠、火袋中台、台座、基礎台からなり、生きているように灯篭にまつわりつく龍の象がんなど、美術的に焼成された逸品で、町の重要文化財に指定されています。

江口地先の荒籠1〜5  みやき町江口 ( 佐賀県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

江口地先の荒籠1〜5  みやき町江口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道264号沿い筑後大堰の下流側がみやき町江口となるが、荒籠らしいのは詳しく調査しなく不明だった。付近の状況写真のみ載せる。筑後川河川事務所の文献・写真で位置確認が必要だろう。

江口地先の荒籠1 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約35m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠2 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約19m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠3 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約25m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠4 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約19m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠5 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約90m(うち、70mが堤防上) 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(中型) 2 C

なお、HP「筑後川 治水事業の歴史1(明治維新前)」には、次の説明がある。
http://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/kizon/chikugo/histry1.html

江戸時代においても筑後川の舟運は盛んであり、干満を利用してかなりの舟が江口(現北茂安町、河口より20km)まで遡航し貿易を行なっていた。そこで、舟運の水深を維持するために、慶長年間、徳川幕府の中期(1700年)頃、両岸から河心におよぶ荒籠(長大なT型の透過水制)が随所につくられ、その一部は今なお当時の姿を残している。

当時の築堤概要について「石原家記」に「大川筋御領分村々で、荒籠23ヶ所、水刎3ヶ所ご座候」と、久留米領の荒籠の数が記され、享保元年(1716年)6月、小森野荒籠竣功の記事がある。また、久留米から河口に至る「肥前の荒籠数は15ヶ所」であったこともあわせて明記されている。

諸富日吉神社の参道橋  大川市諸富 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

諸富日吉神社の参道橋  大川市諸富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。大川市の北部。県道710号本木室交差点などから行く。

諸富日吉神社の参道橋 もろどみ、ひよし
大川市 諸富日吉神社 石桁橋(花崗岩) 長2.3m(G),幅1.9m 文久2(1862) WEB 装飾高欄以外は、小規模 1 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№3,456 諸富日吉神社参道橋

大川市大字諸富(もろどみ)
橋長:2.3m  橋幅:1.9m  単径間桁橋
架設:文久2年(1862)

幡保の里塚石(礎石)  大川市幡保 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

幡保の里塚石(礎石)  大川市幡保

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道208号兼木町交差点から北へ県道765号へ入る。田口小学校の隣りに大川市田口コミュニティセンターがあり、「幡保の里塚石(礎石)」は、折れた上部のみ玄関横に移設し展示されていた。
大川市教育委員会「おおかわの歴史」平成23年発行94頁にこの現在の写真があり、「柳川城辻門から一里を示します。もとは国道208号沿い幡保の江頭エーザイ前に設置されていました。」と説明している。

幡保の里塚石 はたほ
大川市 田口コミュニティセンター 一里石(尖頭角柱) 江戸期 市教委/WEB(みさき道人) 再移設/下半分折損→紛失 (正面)「柳河…」/柳河藩では一里塚の代わりに一里石を置いた(柳川市に残る一里石とは書体が異なる→全国でも一里石を用いたのは、松山藩と柳川藩くらいしか見当たらないが、この点が、同一の揮毫を用いた松山藩と大きく異なる) 4 –

北古賀天満神社のクスノキとクロマツ  大川市北古賀 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

北古賀天満神社のクスノキとクロマツ  大川市北古賀

国道208号兼木町交差点から北へ県道765号へ入る。田口小学校を過ぎ北古賀交差点先の左側に北古賀天満神社がある。
境内のクスノキとクロマツは、かなり大きい。大川市名木・古木百選に選ばれている。樹齢などは記録忘れた。

大詫間地先の荒籠1・2・3  佐賀市川副町大詫間 ( 佐賀県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

大詫間地先の荒籠1・2・3  佐賀市川副町大詫間

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。県道18号新田大橋手前から筑後川河口の三角州に入る。南半分が佐賀市川副町大詫間である。大詫間も江戸時代から350年間・50回もの干拓によって作られた。なお、三角州の北半分は福岡県大川市大野島地区。
大詫間の筑後川側には、地元民の話によると5つの荒籠がある。上流から順に河口まで1〜5と言うらしい。私の写真は、上流からそれらしきものを写してきた。リストデータがどれを指すのか、わからないので、筑後川河川事務所の文献・写真と照合をお願いしたい。

大詫間地先の荒籠1 おおだくま
佐賀市 筑後川・最下流(右岸) 石水制 長約100m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(中型) 2 B

大詫間地先の荒籠2 おおだくま
佐賀市 筑後川・最下流(右岸) 石水制 長約110m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(中型) 2 B

大詫間地先の荒籠3 おおだくま
佐賀市 筑後川・最下流(右岸) 石水制 長約160m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(大型)/最下流に位置 2 B

7〜15枚目は、2015年3月25日に大詫間を再訪した荒籠の写真。上記に対応する3つの大型荒籠があるので、これだろう。所在図参照。

六十丁堤防  柳川市大浜町 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

六十丁堤防  柳川市大浜町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道766号によりむつごろうランドの方へ向かう。途中の中ノ切交差点先、大浜町「橋本橋」左右に六十丁堤防跡を確認できる。柳川地方干拓の歴史などは、むつごろうランドの展示資料。

六十丁堤防 ろくじゅっちょう
柳川市 干拓堤防 (土堤防→石堤防) 天明年間(1781〜88)→明治7に石造化 市教委 明治7年の台風で決壊→柳川城の石垣石を用いて修復 旧堤防の名残りを一番よく留めている(近代まで引き続き使用されたため) 3 C

六騎・矢留大神宮の参道橋  柳川市矢留本町 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

六騎・矢留大神宮の参道橋  柳川市矢留本町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市街地。県道714号上宮永交差点から矢留小学校へ向かう。学校裏と白秋詩苑地との間に六騎・矢留大神宮の参道橋はある。最後の写真は、近くの矢留小前橋(仮称)。

六騎・矢留大神宮の参道橋  ろっきゅ、やどみ
柳川市 六騎・矢留大神宮 石桁橋 長2.6m(G),幅1.85m 文政3(1820) WEB 保存状態良好 高欄用石梁+6枚の石梁 1 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,335 大神宮参道橋

柳川市矢留本町
橋長:2.6m  橋幅:1.85m  桁6列  単径間桁橋
架設:文政3(1820)年

六騎・矢留(やどみ)大神宮
「1185年壇ノ浦で敗れた平家の落人は、肥後路へ逃避しました。しかし、源氏の追求は厳しく、落武者6名−難波善長、加藤藤内、浦川天ヶ左衛門、鳴神藤助、是永多七、若宮兵七−は、柳川沖端へ移り住み、漁業をはじめたといわれています。当時の人々は、平家の身分の高い人達として、6名の騎馬武者の意味で“六騎”と称していました。
こうして“六騎”が、沖端漁業の基礎を築いたので、漁業者のことを“六騎”と呼ぶようになりました。
また、産土神(氏神)をまつることに気づいた“六騎”の1人は伊勢に参り、半鏡を授かった。するとまもなく、この矢留の地から半鏡が発見されたので、伊勢大神宮から授かった半鏡とつなぎ合わせてみると、不思議なことに一致し、これは大神宮様のお授けになったものであるとして、天照大神を奉祀したのが、矢留大神宮です。時は1395年11月15日でした。毎年11月15日、矢留大神宮、六騎神社の大祭がおこなわれます。」

右手は矢留小。
親柱 文政3年。

№2,338 矢留小前橋(仮称)

柳川市矢留本町
橋長:6.3m  橋幅:2.3m  桁厚:22cm   3径間桁橋
矢留小前に架かっています。
向こうは白秋公園。