月別アーカイブ: 2015年2月

下宮永玉垂宮の弐之橋  柳川市下宮永町 ( 福岡県 )

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下宮永玉垂宮の弐之橋  柳川市下宮永町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市の南部。県道766号長田病院手前下宮永交差点から東宮永小学校の方へ入る。

下宮永玉垂宮の弐之橋 しもみやながたまたれ
柳川市 下宮永玉垂宮 石桁橋 長2.1m(G),幅2.6m 天保2(1831) WEB 橋面舗装され、石橋のイメージなし 小規模な石桁橋 3 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,835 下宮永玉垂宮弐之橋

柳川市下宮永町
橋長:2.1m  橋幅:2.6m  桁8列
単径間桁橋

壱之橋は、残念ながらRC製でした。
参道を進み、神門の前に弐之橋。

三橋町久末の里塚石(一里)  柳川市三橋町下久末 ( 福岡県 )

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三橋町久末の里塚石(一里)  柳川市三橋町下久末

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市街国道208号下百町交差点から瀬高・南関への県道443号に入る。2kmほど進んだ三橋町下久末の「一里石」バス停のところに、説明板と建つ。

久末の里塚石(一里) ひさすえ
柳川市 <瀬高街道> 一里石 高約1m 1630年代以降 市教委/現地解説板 /WEB(みさき道人) 整備、ほぼ原位置 (正面)「□□□り 一里」/柳河藩が田中家(60-20)から立花家に替わり、石高が32.5万石から10.9万石に分割縮小された後の地域に一里石があるため、俗に「田中吉政が、柳川城の辻の門を起点として矢部村まで一里ごとに立てさせた」というのは間違い 2 C

今古賀の常夜灯の道標  柳川市三橋町今古賀 ( 福岡県 )

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今古賀の常夜灯の道標  柳川市三橋町今古賀

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市三橋町の国道208号今古賀バス停先。ジョイフル柳川店の南側の細い道を70mほどまっすぐ進む。内村宅の正門左奥にこの常夜灯が見える。下部は埋設しているが、地名を刻む。

今古賀の常夜灯の道標 いまこが
柳川市 <三池街道> 石道標(常夜灯) 嘉永3(1850) 市教委/WEB 移設(個人宅) 灯籠型の常夜灯/「左瀬高通り、右三池通り」 3 C

平浄庵と板碑  柳川市三橋町今古賀 ( 福岡県 )

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平浄庵と板碑  柳川市三橋町今古賀

現地説明板は、次のとおり。柳川市三橋町の国道208号今古賀バス停先。ジョイフル柳川店の南側の細い道を50mほどまっすぐ進み、左手に入ると今古賀コミュニティセンターがある。この前に板碑が残る。

平浄庵と板碑
平浄庵は、柳川城主蒲池鑑盛入道が高畑に居た時に創立されました。鑑盛は天正六年(1578)に日向(宮崎県)耳川の合戦で戦死した後、当庵に葬られました。その後、僧紅誉によって中興され、瑞松庵の末庵となりました。釈迦堂は蒲池因幡守鑑憲の廟所でした。
ここ平浄庵の境内には、2つの板碑があります。高さ70cmの法華経千部の板碑には、「時永正十五年(1518) 大乗妙典一千部(梵字キリーク)三月吉日」と銘文が刻まれています。一方、高さ150cmの乙鶴姫(鑑憲の妻)の板碑には、「天文八年(1539)己亥十一月廿四日誌施」と銘文が刻まれています。
平成13年3月  三橋町教育委員会

豊原の里塚石(一里)  柳川市大和町豊原 ( 福岡県 )

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豊原の里塚石(一里)  柳川市大和町豊原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市大和町の国道208号沿い。柳川市立豊原小学校の正門横に建つ。

豊原の里塚石(一里) とよはら

柳川市 (豊原小学校正門前)<三池街道> 一里石 高90㎝ 1630年代以降 市史跡 市教委/WEB 移設 「柳河より 一里」 2 C

東山橋  大牟田市大字今山 ( 福岡県 )

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東山橋  大牟田市大字今山

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。大牟田市の東部。県道93号大牟田高田線田町交差点からマミーズ後ろ側の市道へ入ると、すぐ堂面川に架かる。

東山橋  ひがしやま
大牟田市 一般道/堂面川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長6.5m,S4.5m(A),幅2.2m 幕末? 市教委 両側にコンクリート・アーチ/下から覗くと石アーチと分かる 4 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,331  東山橋

大牟田市大字今山
堂面川
橋長:6.5m  橋幅:2.2m  径間:4.5m  拱矢:2.7m
陣屋眼鏡橋の約300m上流

上流側 一見RC橋です。
右岸側 中央部分は石橋です。

岩本橋  荒尾市上井手字岩本 ( 熊本県 )

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岩本橋  荒尾市上井手字岩本

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,434 岩本橋(架設当初名:上井手目鑑橋)

荒尾市上井手字岩本
熊本県指定重要文化財
関川
橋長:32.7m  橋幅:3.4m  径間:12.6m  拱矢:5.9m
国道208号線、荒尾市役所前から県道314号線へ。5.4Km先県道29号線へ左折、1.2Km先左手関川に架かっています

岩本橋
「岩本橋は関川に架けられた石造のアーチ橋である。川幅が広く岸も低いので一つのアーチにすれば橋の高さが異常に高くなるところより、二つのアーチの設計を石工たちは考えたのであろうが、そうすると川の中央に基礎がくるので川の流れを阻むし、橋の根元が洗われて危険であった。そこで、石工たちは橋脚に水の抵抗に強い小岱石を運び、壁石を壊さないように「水切り」を上流と下流に設け水流をスムーズに両側に分けるように工夫した。アーチは厚さ60cm余りの43個の輪石で組み、その上には整然と切石を積みあげ水平床にし、人や車の往来を便利にするように造り、床の左右に高欄を設ける。高欄は地床に沿って地覆を捉え束石をたて笠木を載せた素朴なものであろうが、それらの数か所に浮彫装飾が施されている。その中には八弁及び十六弁の菊花がみられる。
この工事の石工や竣工年月日は瞭らかではないが、熊本県八代郡東陽村種山の石工橋本勘五郎が明治4年頃工事責任者となって架橋したのであろうと古者はいっている。勘五郎は明治6年3月上京し内務省土木寮に勤務し宮城二重橋等を架設し、肥後名工の名声をたかめた。勘五郎が矢部の通潤橋架設の際用いた橋枠の模型をみると厚さニ寸、幅八寸の板で橋の形の枠組みを大工が作り、この枠の中に輪石を積みこみ最後の要石をはめこんで枠を外すと奇妙な音をたてて橋がしまる。もし橋が壊れる場合工事責任者は切腹するのが橋かけの不文律であった。岩本橋をみるとき当時の命がけの仕事振りが窺われる。
昭和37年7月4日397mmの集中豪雨が橋を襲い橋の一部が破損したので道路改修の一環として新岩本橋を新設するとともに、分水路を開鑿し橋を災害より守り、昭和60年より三カ年計画で関川環境整備事業がなされ観光資源としての価値も高めた。」
上井手上子供会  荒尾市教育委員会

三和公民館中庭の明治32年建「脇岬村路」標石その後 ( 長崎県 )

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三和公民館中庭の明治32年建「脇岬村路」標石その後

この標石については、本ブログ次を参照。概要は次のとおり。
明治32年建「脇岬村路」の標石と半島東回りルート推定図
https://misakimichi.com/archives/23
無残! 明治32年建「脇岬村路」の標石
https://misakimichi.com/archives/4054

三和公民館ホールの中庭に展示されている「明治三十二年十一月建」「東 脇岬」「西 髙濱」などと刻みのある標石の、もともと建っていたところは、埋め立て前の川原小池の上手である。
明治18年「西彼杵郡村誌」の記録によると、川原村に記す「脇岬村路」の起点となり、「髙濱村路」と分岐する。標石がここに戦後まで建っていたことは、証言を得て地点を確認している。

「みさき道」本道の今魚町系でない、明治の標石となるが、長崎半島を川原から脇岬へ至る東回りの「みさき道」コースも、江戸期からあったと推測させる貴重な標石である。
安永2年(1773)、当時の長崎代官「高木作右衛門支配所絵図」に、この道と思われる道が描かれている。また、川原小池の脇を上っていることは、長崎名勝図絵「河原池」に描かれている。

2014年8月、三和公民館図書室へ行った。ここの中庭は、浦川建設によって「三和公民館耐震補強工事」が行われていた。中庭を全部壊し、鉄骨が組まれるという。あろうことか私が見たときは、この貴重な標石がブルドーザーのすぐ脇に横倒しされていた。
ガラス越しに見ると、何か工事の傷がすでに見える。あまりの工事の無神経さに、三和行政センター所長へ苦情を言った。大切に扱うよう注意すると、すぐに別の場所へ移すと返答した。
長崎市文化財課にも、早急に対応を検討するよう電話した。標石の文化財的価値をもっと認識してほしい。

以上がこれまでの経過である。2015年1月末で「三和公民館耐震補強工事」が完了したと連絡を受け、標石のその後を確認に行った。ホール中庭への再建立状況は、写真のとおり。ガラス越しの手前に寄せ、ブルドーザーの傷跡はヤスリをかけて補修している。屋内展示はしてもらえなかった。
「往時の道路交通の様子を物語る大切な歴史資料」として標石の価値を認識し、市文化財課がプラスチックの説明板を設置したのは良いが、長崎半島を川原から脇岬へ至る東回りの「みさき道」コースも、安永2年(1773)当時の江戸期からあったと推測させる貴重な標石である検証が足りないだろう。
「東 脇岬、「西 高濱」と刻字されています。は、脇岬の後ろに”」”抜けの説明板である。同じ予算を使うなら長崎市は、市民にもう少しわかりやすい説明板と、見識のある仕事ぶりをお願いしたい。