月別アーカイブ: 2014年10月

さつまいも・ザビエル上陸の地  指宿市山川町浦向

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さつまいも・ザビエル上陸の地  指宿市山川町浦向

HP「山川港まち歩きガイド」による説明は、次のとおり。後ろの写真は、JR指宿駅とふれあい足湯。

さつまいも・ザビエル上陸の地

現在漁船などが停泊する浦向港は、山川を代表する港のひとつでした。ここに宝永2(1705)年、豪商・河野家の船の水夫だった前田利右衛門は、琉球から甘藷の種芋を持ち帰ってきました。後に甘藷は全国へ広がって行くことになります。またキリスト教を布教するために、天文18(1549)年に、鹿児島を訪れたザビエルもまず山川のここに上陸したといわれています。

山川薬園跡及びリュウガン  指宿市山川町新生町

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山川薬園跡及びリュウガン  指宿市山川町新生町

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。山川薬園跡は、その後、明治34年から昭和44年まで、山川小学校校地となっており、碑がある。

山川薬園跡及びリュウガン
【所在地】指宿市山川町新生町 35
【種 別】県指定天然記念物・県指定史跡
【指定年月日】昭和 29 年3月 15 日

山川薬園跡は,万治2(1659)年,島津光久の時に設けられた薬園の跡で,当時島津氏は,佐多,山川,吉野の三カ所に薬園を設けて薬用植物の栽培に努めたが,このうち最も古いのがこの薬園である。当時は山川の島津薬園とよばれ,リュウガンのほかにレイシ,ハズ,キコク,カンラン等多くの植物が栽培されていたといわれる。
リュウガンは中国南部や台湾に自生するムクロジ科の樹木で,4〜5月頃に芳香のある白い花を咲かせ,7〜8月に直径1〜2 cm,褐色で球形の実をつける。果肉は汁が多くて甘く生食もするが,乾燥させて強壮薬として用いる。
この地のリュウガンは,高さ 10m,幹回り 3.5m,根回り6 m ほどで樹齢 300 年と推定される老木で,唯一薬園跡に残っているが,周辺には幼木も植えられ保護されている。

鹿児島県のソテツ自生地  指宿市山川町 竹山

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鹿児島県のソテツ自生地  指宿市山川町 竹山

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。写真は、指宿市山川町の竹山で撮影したソテツ自生地。

鹿児島県のソテツ自生地
【所在地】指宿市山川町,南さつま市坊津町,肝属郡南大隅町・肝付町
【種 別】国指定特別天然記念物
【指定年月日】昭和 27 年3月 29 日(国指定天然記念物 大正 12 年3月7日)

ソテツ科は世界に9属約 100 種類あり,そのほとんどが熱帯や亜熱帯地域に自生する植物である。そのうちのソテツ1種類だけが日本の南端にまで分布しており,八重山諸島,沖縄諸島,奄美群島から九州の南端までの地域に限られる。
県本土では,鹿児島湾入口の両側にあたる薩摩半島側の山川,坊津,大隅半島側の佐多,内之浦の4町に自生が認められ,自生の北限地として天然記念物に指定されている。いずれもやや乾いた原野の岩石の間に生え,特に山川町の竹山や佐多岬などでは,海岸近くの絶壁に生育している。
ソテツはイチョウとともに裸子植物(マツやスギの仲間)に属するが,雌株と雄株があり,花は単性花で花被をもたない。さらにこの両種の雄性配偶子は,被子植物や他の裸子植物と異なり精子をつくるのが特徴である。ソテツの精子は,鹿児島県立博物館に現存する株を材料にして,池野成一郎によって発見された。
本県の奄美地方では,昔からソテツの実や幹のでんぷんを採取して,あく抜きをした後,ソテツ味噌を造ったりして食用に利用してきた。

竹 山  指宿市山川伏目

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竹 山  指宿市山川伏目

HP「九州絶景選」鹿児島絶景100選による説明は、次のとおり。

野武士の山(竹山)−山川町−

国道226号線に沿って指宿から山川町へ向かう峠のトンネルを抜けると、右手に開聞岳、左手に竹山が対峙し、両者の間に見事な田園が広がる。竹山はコニーデ式の標高約200メートルの山。
竹山は高さにおいて開聞岳とはまったく比べものにならないが、牙をむき天を突くその異様さが広く単純な風景に緊張感を与えている。絶景である。山周りにソテツが自生する。山の背後は海面に落ちる断崖。近くに地熱発電所や山川天然砂蒸保養所などがある。

山川砂むし温泉  指宿市山川福元

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山川砂むし温泉  指宿市山川福元

指宿市観光協会「いぶすきネット」による説明は、次のとおり。

山川砂むし温泉 砂湯里

傑出したロケーションを誇る山川砂むし温泉、この海岸は古くから天然の砂むし場として町民に親しまれてきた場所で、10〜15分の砂浴で指圧効果が働き血行がとても良くなり、いわば天然のサウナと言ってよいでしょう。砂から上がりサッと体を洗い流した後の爽快感は格別です。まさに心身ともにリフレッシュできるヘルシーな温泉が山川砂むし温泉であり、また海岸で自然の恵みを一人占めできるのも醍醐味です。
※当温泉施設は、2013年4月1日より営業運営及び管理を株式会社セイカスポーツセンターが指定管理者として行っています。

【交通アクセス】 JR山川駅より車で10分。九州自動車道「鹿児島IC」より国道226号を南下、指宿市街地経由で約70分
【温泉詳細】 泉質・・・ナトリウム-塩化物泉。効能・・・神経痛、リウマチ、腰痛、冷え性など
泉温・・・102度。飲用・・・不可。風呂・・・内風呂(男女別)。
施設・・・ロビー、脱衣所、休憩所(無料)
石鹸・シャンプーの使用は出来ません。

長崎鼻  指宿市山川岡児ヶ水長崎

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長崎鼻  指宿市山川岡児ヶ水長崎

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

長崎鼻

長崎鼻(ながさきばな)は、鹿児島県南部、薩摩半島の最南端にある岬である。鹿児島県指宿市(旧山川町)に位置する。指宿カルデラの外輪山の一角を成しており、一帯は火山岩にて形成されている。

概要
「鼻」と付く地名は名の如く、岬の基部が末広がりになる三角形状の地形であることが多い。鼻と名の付く岬は全国の至る地方で見られるが(特に九州で多い)、その中で最も有名な岬である。
長崎鼻からすぐ西方には、海越しに端整な山容で知られる開聞岳がそびえ、妨げる障害物は何もないため、岬から眺める山容は非常に美しい。また、晴天時だと岬の展望台から遠く屋久島の宮之浦岳や硫黄島を遠望する。このように非常に風光明媚な土地であることから古くから観光開発されており、岬の展望台から1〜2kmの沿線に土産物屋や飲食店がびっしりと建ち並び、長崎鼻パーキングガーデンという観光施設が設けられている。
また、この長崎鼻一帯にも浦島太郎伝説が伝わっており、竜宮神社が鎮座する。
岬及び周辺の海岸線一帯が霧島錦江湾国立公園の一角を成している。また、近辺に国の特別天然記念物であるソテツ自生地がある。

枚聞神社のクスノキ  指宿市開聞十町

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枚聞神社のクスノキ  指宿市開聞十町

HP「人里の巨木たち 全国巨樹探訪記」鹿児島県による説明は、次のとおり。

名称 枚聞神社のクスノキ(ひらききじんじゃのくすのき)
名称の典拠 なし
樹種 クスノキ
樹高 23m(注1)
目通り幹囲 10.6m(注1)
推定樹齢 300年以上(注1)
所在地の地名 鹿児島県指宿市開聞十町(注2)
天然記念物指定 なし
注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注2)2006年1月1日、指宿市に合併。旧行政区は揖宿郡開聞町(かいもんちょう)

枕崎から頴娃町に向かう国道226号を走るとき、海原を越えて開聞岳(かいもんだけ。924m)の秀麗な山容が目に入る。思わず声をあげたくなるくらい、美しい姿だ。
枚聞(ひらきき)神社は、その開聞岳の北に位置する。かつては本殿屋根の上に開聞岳が大きく見えたという。今日では、下図のように樹木が勢いよく茂り、背後の風景を隠してしまった。
社伝では、和銅元年(708)の創建という。真偽を確かめる資料がないので、正確にこの年なのかどうかは知らないが、古くよりあった神社であることは確かなようだ。
境内をぐるっと巡ってみた。
薩摩国一宮だけあって、境内はよく整えられている。現在の社殿は慶長15年(1611)、藩主島津義弘公が寄進したもの(のち、天明7年(1787)に修築)。県指定有形文化財。
境内林の主役はクスノキ。なかでは正面入口に立つクスノキが最も太い。
弱ってきたためか、大枝はみな途中で切断されている。樹冠がすっかり小さくなってしまった。
この他にも、数本のクスノキ巨樹が見られる。特に本殿後方の個体などは、なかなか立派だ。現時点ではまだ気の早い話だが、これらが、次代を担うクスノキと言ってよさそうだ。

枚聞神社本殿は、県指定有形文化財。鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。最後の写真は、枚聞神社からまっすぐ行った開聞山麓ふれあい公園上の開聞岳登山口(2合目 開聞岳は標高924m)。

枚聞神社本殿
【所 在 地】指宿市開聞町十町 1366
【種 別】県指定有形文化財(建造物)
【指定年月日】平成2年3月 23 日

本殿,幣拝殿,勅使殿が各独立して一直線に並び,樹木に囲まれ,見事な景観となっている。勅使殿の両脇に長い東長庁,西長庁が独立して並んでいる。
建築様式は,県内神社の最も典型的なもので,本殿は天明6(1786)年に再建された。
本殿には,「奉再興嶋津兵庫入道慶長十五庚戌年九月九日」の銘が入った擬宝珠が使用され,龍柱には,島津重豪 42 歳の厄払いのため,天明6年 11 月から天明7年正月にかけて取り付けた銘が修理の際に発見された。
また,建立,修理等の棟札も現存している。延喜式に頴娃郡1座小枚聞神社とある。
昭和 62(1987)年,本殿,幣拝殿,勅使殿の屋根を銅板に葺替え,又本殿は漆により,幣拝殿,勅使殿は光明丹で塗りかえられ,背後に開聞岳を控え,一段と壮厳さを見せている。

縄状玄武岩  指宿市開聞町脇浦花瀬崎

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縄状玄武岩  指宿市開聞町脇浦花瀬崎

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

縄状玄武岩
【所在地】指宿市開聞町脇浦花瀬崎
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】昭和 29 年5月 24 日

花瀬から田崎にかけて分布する溶岩は,開聞岳火山活動の中期に噴出したもので,干潮時には幅広い波食台となり,これを地元では花瀬と呼んでいる。付近一帯は東シナ海や南薩台地を望む景勝の地となっている。
溶岩内部は緻密で固いが,表面は火山ガスの抜け出た孔が多く,多孔質である。
花瀬の溶岩は,比較的高温で噴出した流動性に富む玄武岩質安山岩で,カンラン石(オリビン)を含み,縄状構造が顕著である。開聞岳頂上付近からみると,溶岩が北西方向に流れた跡がよく分かる。典型的な縄状構造を示す玄武岩質溶岩流として,本県で唯一のものである。
〈参考〉
開聞岳 海抜 924m の円錐形の美しい火山で,薩摩富士と称されている。下部は成層火山,上部は溶岩円 頂 丘 をつくり,典型的な二重式火山である。約 4,000 年前に活動を開始し,約 1,100 年前の平安時代の貞観・仁和年間に活動が終了した。平安時代の噴火では大量の火山噴出物が放出され,周辺の村々は埋め尽くされるなどの大被害が出た。
開聞岳から噴出した火山灰や火山礫は硬く固結し,特有の黒色火山灰土壌を形成しており,「コラ」と呼ばれている。

花瀬望比公園  指宿市開聞十町花瀬

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花瀬望比公園  指宿市開聞十町花瀬

指宿市観光協会「いぶすきネット」による説明は、次のとおり。

花瀬望比公園

この海岸は、イソギンチャクが殻の中から5色の花を咲かせている群落があったことから花瀬の名称が生まれたといわれています。 また 、開聞岳初期噴火のときに流れ出た玄武岩質の溶岩流によってできた縄状玄武岩でおおわれています。 花瀬望比公園は、開聞岳の西側の花瀬海岸に比島戦没者慰霊碑が建設され、死生の扉、想比之碑、安らぎの鐘、大鐘楼等が整備されたのを契機に、花瀬公園を花瀬望比公園と改称し、過ぐる第二次世界大戦の戦没者の霊の鎮まる霊地として末永く英霊の安穏と21世紀に向けて世界各国の平和の基地として発展することを祈念し、命名したものです。

「戦没将兵47万6千余柱」という厳粛な数字は、今も私たちの心に重く、胸を詰まらせます。比島作戦に果てた同胞の形骸はかの地に朽ちても、すべての精霊が永遠に比島にとどまっているとは思いたくありません。異域の密林や南冥の底から、同じく祖国防衛に殉じた戦友に抱き起こされ押し上げられて、不死鳥のように蘇り1900キロの天空を駆け、戦場に夢見つづけた祖国に声亡き凱旋の姿を願うのは遺族だけではありません。 そのような祈りを込めて造形されたのが「死生の扉」です。

死生の扉  碑文
遥か 南海の比島戦線に散りし四十七万六千余名の英霊
時空を超えて故国のこの地に鎮魂す 心底に万感を憶え痛惜の念を石碑に刻む
自らを捨て祖国の盾となりしその死は 決して徒ではなかった尊い犠牲
限りない加護がありて今日の平和 いやさかの繁栄が有る
私たちは それに応えているや 二度とこんなことを起こしてはならない
親から子へ 孫に 無惨 痛哭の太平洋戦争を 
そして壮絶 艱難辛苦の戦後もまた 語り継いでいかねばならない

比島戦没者慰霊碑  碑文
許されるものらば 還らざる旧軍四十七万六千余柱の 精霊なおもとどまる 雲咽万里比島の地に
痛恨の碑を建て その前に伏し 心からなる祈念を捧げたいものを
やむなく 日本列島最南端のここに碑を置き 想いを馳せてみたま鎮まれとひとしく願う

瀬平自然公園  南九州市頴娃町郡

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瀬平自然公園  南九州市頴娃町郡

南九州市HPの観光情報による説明は、次のとおり。

瀬平自然公園

国道226号線沿いの海岸線を主体とした公園です。奇岩,老松の葉かげに開聞岳(薩摩富士)を初めて眺めると,その姿はまた格別です。
洋々と広がる水平線には硫黄島・竹島・黒島,また遠く屋久島が浮かび,夜は,沖合の漁火が明滅して趣があります。佐多岬も遠くかすみ,白砂青松の頴娃の海岸は絵によし,詩によしでしょう。

キス釣りのシーズンには家族連れの憩いに,ドライバーには一服の場所として最適です。瀬平海岸は岩礁が発達し,昔は瀬平の瀬渡りといって,人々に恐れられた難所でした。道路の東側の海蝕洞には,瀬道開発の記念と,安全を祈願したと思われる観音像が安置されています。

◆瀬平の由緒
山川から頴娃麓に通ずる道には,開聞の苙口(おろんくち)から町頭に出る荷辛路(にからじ)峠越えと,この瀬平渡りの2つの道筋がありました。瀬平渡りは,海に突き出た岩と岩の間隙を波しぶきを浴びながら跳んで渡るので,老人や女子,子供は一人では通れない難所でした。この難所に瀬道ができたのは元文3年(1738年)頃のことです。

◆歌碑(与謝野鉄幹・晶子夫妻)について
建立年月日:昭和62年7月3日
設 立 者:頴娃町観光協会・頴娃町
揮   毫:馬場啓彰(元県立頴娃高等学校教諭)

正面
迫平(せびら)まで 我れを追い来りて 松かげに 瓜を裂くなり 頴娃の村をさ  与謝野鉄幹
片はしを 迫平に置きて 大海の 開聞が岳 立てるなりけり   与謝野晶子

裏面
与謝野鉄幹・晶子
歌人与謝野鉄幹(寛)晶子夫妻は,昭和4年7月から8月にかけて山本実彦氏(当時改造社長)の案内で47年ぶりに来鹿,県下各地を歴訪しましたが,8月1日,この瀬平海岸で休息し,当時の樋渡盛広村長の歓待を受けました。
この二首は,洋上に屹立する開聞岳の雄姿,樋渡村長の厚遇にこたえて詠んだもので,そのときの歌集「霧島の歌」の中に収録されているものの1つです。
その歌集の全書には「自動車を南薩に駆る。・・・・・池田湖に到り,次いで頴娃村に出て,迫平(瀬平)の海岸に小憩して近く開聞獄を仰ぎ,また南海を展望す。竹島,硫黄島,屋久島等,遠く水煙模糊の間に在り。頴娃の村長樋渡盛広氏追ひて到り,西瓜その他を饗せらる。雲ありて,しばしば開聞獄を遮る。」とあり,この地からの眺望のすばらしさを述べています。
またこの瀬平海岸は,昔は「瀬平渡り」といって,海岸に突き出た岩と岩との間を波しぶきを浴びながら跳んで渡るという難所で,ここから約50m西方国道沿いの崖の洞穴には,元禄4年(1691年)にこの難所の交通安全を祈って作られた瀬平観音像も安置されています。
観光協会は,この由緒ある景勝の地を永く後世に伝えるため,与謝野夫妻の歌碑を建立したのです。