月別アーカイブ: 2012年10月

土佐神社  高知県高知市一宮しなね2丁目

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土佐神社  高知県高知市一宮しなね2丁目

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

土佐神社
所在地 高知県高知市一宮しなね2丁目16-1

土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市にある神社。式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
明治以前の旧称は土佐高賀茂大社・高賀茂明神。現在は別称として「しなねさま(志奈禰様)」とも呼ばれる。

祭神
現在の祭神は以下の2柱。古くは単に「土佐大神」と称していた。
・味鋤高彦根神
・一言主神
祭神は両神とも古来より賀茂氏により祀られていた神であり、賀茂氏の同族が土佐国造に任ぜられたことから当地で祀られることになったものとみられている。

文化財
重要文化財(国指定)
・本殿
・幣殿及び拝殿(合わせて1棟)
本殿、幣殿、拝殿は元亀2年(1570年)の長宗我部元親による再建。幣殿と拝殿を合して十字型に造る「入蜻蛉」と称される独特の様式である。
・鼓楼 – 慶安2年(1649年)建立、山内忠義の寄進
・楼門(神光門)- 寛永8年(1631年)建立、山内忠義の寄進
高知市指定有形文化財
・土佐神社の鰐口
・土佐神社の能面
・土佐神社の銅鏡

土佐国分寺  高知県南国市国分

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土佐国分寺  高知県南国市国分

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

土佐国分寺
所在地 高知県南国市国分546

土佐国分寺(とさ こくぶんじ)は高知県南国市にある真言宗智山派の寺院。摩尼山(まにざん)、宝蔵院(ほうぞういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場二十九番札所。札所寺院としては単に国分寺と称するのが通例である。
本尊真言:おん ばさら たらま きりく
ご詠歌:国を分け 宝を積みて 建つ寺の 末の世までの 利益のこせり

歴 史
聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により全国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。当寺は寺伝によれば天平13年(741年)に行基が千手観世音菩薩を刻み本尊として安置し開創したとされる。その後弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が毘沙門天を刻んで奥の院に安置、その頃真言宗の寺院となったという。史実としては、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、土佐を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したことがみえるため、この年以前には創建されていたとみられる。

国分寺周辺は古代から中世まで土佐国の国府の所在地であり、「土佐日記」の作者紀貫之も国司として4年間当地に滞在した。国府の中心である国庁は国分寺から徒歩15分の位置にあり、かつてその近くにあった土佐国総社は現在当寺境内に移されている。

寺はたびたび兵火に遭ったが、永禄元年(1558年)には長宗我部国親、元親によって金堂が再建。明暦元年(1655年)に土佐藩2代藩主山内忠義が山門を寄進した。大正11年(1922年)に境内全域が国の史跡に指定されている。

文化財
重要文化財(国指定)
・金堂(本堂) – 1904年(明治37年)指定、杮茸、寄棟造。永禄元年(1558年)建立
・木造薬師如来立像 – 1913年(大正2年)指定、平安時代中期作、像高99.5cm、檜材一木彫
・木造薬師如来立像 – 1911年(明治44年)指定、鎌倉時代作、像高35.5cm、寄木造、応永13年(1406年)修理銘入
・梵鐘 – 1956年(昭和31年)指定、平安時代前期の作、口径47cm、高さ63.8cm、重量225kg
史跡(国指定)
・境内 – 1922年(大正11年)指定
高知県指定保護有形文化財
・本堂の厨子・須弥壇 – 1997年(平成9年)指定
・絹本著色両界曼陀羅 – 1997年(平成9年)指定、室町時代作
弥生時代の住居跡

比江廃寺塔跡  高知県南国市比江

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比江廃寺塔跡  高知県南国市比江

高知県HP「高知の文化財」による解説は、次のとおり。国府史跡の一部。

比江廃寺塔跡

名称ふりがな  ひえはいじとうあと
指定等  国指定 記念物 (史跡) 指定年月日 : 昭和 9年 1月22日
所在地・所有者  高知県南国市比江・南国市
解 説
比江廃寺は、出土の古瓦から白鳳時代後期の古代寺院跡である。
最近の発掘によって、金堂跡はすでになくなっていることが判明した。
古くから遺構として、塔跡の心礎(しんそ)のみが残っている。 江戸時代には、心礎の周辺や金堂の礎石も残っていたが、国分川の改修に使用され心礎を残すのみとなった。
心礎は縦3.24m、横2.21mの砂岩に、径81cm、深さ9cmの柱孔(ちゅうこう)と、その柱孔の下に径15cm、深さ12cmの舎利孔(しゃりこう)がある。
柱孔には、塔の心柱(しんちゅう)の根本をはめ込み、その下の舎利孔に小さな容器に入れた仏舎利(ぶっしゃり)(仏様の御骨)を納めた。
柱孔の径に40倍すると、当時の塔の高さが出てくる。 それは 32.4mで、現法隆寺の五重塔の高さとほとんど変わらない。

平石の乳イチョウ  高知県土佐郡土佐町

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平石の乳イチョウ  高知県土佐郡土佐町

国指定文化財等データベースは、現在メンテナンス中で利用できないため、高知県HP「高知の文化財」による解説を載せる。現地石碑の碑文は下のとおり(一部判読不明)。

平石の乳イチョウ
名称ふりがな ひらいしのちちいちょう
指定等 国指定記念物 (天然記念物) 指定年月日:昭和3年1月18日
所在地・所有者等 高知県土佐郡土佐町・土佐町
解 説         
イチョウは、中国原産、雌雄異株の落葉高木で、日本では古くから神社や寺院の境内に植えられ、近年は街路樹としても利用されている。
樹幹や枝から時々大きな気根が垂れることがあり、これを乳と呼んでいる。
平石の「乳イチョウ」は、樹高約30m、根元周りが約11nの巨樹で、地上約5mのところで数本に分かれ、大小50余りの気根(乳柱)が垂れ下がり、典型的な「チチイチョウ」の形状を示している。
かつては、周囲約1m、長さ約3.5mに達する気根があったといわれているが、台風などの影響で気根の一部が損傷したり、根元近くの樹幹に腐朽が生じたりしている。しかし、樹勢はなお旺盛のようである。

国定保護文化財天然記念物
平石の乳公孫樹
一、指定年月日 昭和三年一月十八日 内務省保護天然記念物
一、所在地 高知県上土佐郡土佐町地蔵寺字日浦三〇七八番地
一、特徴 樹高四十三メートル、根廻八メートル、推定樹齢八百年、乳根無数、最大圣五十センチメートル、最長十一メートル、開花しないので実なし
一、伝承のあらまし
○源平の戦に破れた平家の一族の落人が北山越しにこの地に移り住んで一寺を建て 平石寺と称し守護寺とした 寺は慶長年間 地蔵寺本村寺屋敷に檀家一門と移住しあとに毘沙門堂一 をのこした
○宝暦八年村人が寺跡の大銀杏のかたわらに不動堂を建立し 婦人みな母乳の多きを祈願したと言う
○気根が多いので 乳銀杏の名が遠く吉野川沿線阿波に至るまで 婦人 妊娠婦が安産 補乳の祈願をし請願成就の のぼり 櫛 こうがい 毛髪 手鏡など枝や幹の気根に結びつけられてあった
○戦後台風により枝や梢が折れたので 地元民が部落共同防風林を設け近くの山の傾斜面にある民有林地でも皆伐しないようにして 暴風雨の防災に心がけ今日に至っている
昭和五十年二月一日  土佐町教育長 山下 弘志 書

早明浦ダム  高知県長岡郡本山町・土佐郡土佐町

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早明浦ダム  高知県長岡郡本山町・土佐郡土佐町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

早明浦ダム
所在地 左岸:高知県長岡郡本山町大字吉野
右岸:高知県土佐郡土佐町大字中島

早明浦ダム(さめうらダム)は、高知県長岡郡本山町と土佐郡土佐町にまたがる、一級河川・吉野川本流上流部に建設されたダムである。

独立行政法人水資源機構が管理する多目的ダムである。型式は重力式コンクリートダム、高さは106.0メートルで有効貯水容量は2億8,900万立方メートル、利水容量は1億7300万立方メートルで、これは香川県内の全ため池(15,000ヶ所)の総容量に相当し、吉野川水系における水資源施設の中核をなす四国地方最大のダムである。吉野川の治水と四国地方全域の利水を目的に建設され、このダムの水運用は四国地方の経済・市民生活に極めて多大な影響を及ぼす。このため「四国のいのち」とも呼ばれ、四国地方の心臓的な役割を果たす。ダムによって形成される人造湖はさめうら湖と呼ばれ、2005年(平成17年)には本山町・土佐町・大川村の推薦により財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれている。

エピソード
ダム完成時、水資源開発公団は当時高知県知事であった溝渕増巳に記念碑の銘を揮毫(きごう)するよう依頼した。この記念碑がダム右岸に建つ「四国のいのち」の碑であるが、当初は「四国はひとつ」と刻まれる予定であった。しかし溝渕は「水は一つになったが、他のことはまだ一つになっていない」として「四国のいのち」と銘を変更したというエピソードが残されている。この溝渕の言葉は、後年水不足でダムが枯渇した際に繰り広げられる四国四県同士の対立を図らずも暗示するようであった。…

ダム諸元
ダム型式 重力式コンクリートダム
堤高 106.0 m
堤頂長 400.0 m
堤体積 1,200,000 m³
流域面積 472.0 km²
湛水面積 750.0 ha
総貯水容量 316,000,000 m³
有効貯水容量 289,000,000 m³
利用目的 洪水調節・不特定利水
かんがい・上水道
工業用水・発電
事業主体 水資源機構
電気事業者 電源開発
発電所名
(認可出力) 早明浦発電所
(42,000kW)
施工業者 間組
着工年/竣工年 1963年/1975年

桃原の牡丹杉  高知県長岡郡大豊町

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桃原の牡丹杉  高知県長岡郡大豊町

所在地 大豊町桃原熊野十二神社。大豊町指定特別天然記念物。現地説明板及び大豊町HPの解説は、次のとおり。早朝で写真が暗い。牡丹のような枝葉が良く写らなかった。

西豊永の天狗スギ(桃原のボタン杉)
場所 長岡郡大豊町桃原熊野十二神社 
樹齢 約1200年  樹高 31m  周囲 10.6m
(由来)
1200年の昔、京都の巫女17人が捕えられ、土佐へ流された。
そのうち幾人かは、阿波から京柱峠を越えて土佐に来たが、そこで熊野権現から出た山嶽仏教と一緒になり、織物や薬草の知識をひろめ、また信仰地へ木を植えた。
このスギは、その巫女が植えたものと伝えられている。大きな枝が根元から出ていて通直な魚梁瀬スギなどとは、まったく形質を異にしたスギである。
’85国際森林記念年記念  昭和63年6月
高知県緑化推進委員会・大 豊 町

桃原の牡丹スギ
担当 : 教育委員会 / 掲載日 : 2012/03/14
桃原の十二所神社の境内に推定樹齢1200年の牡丹スギがある。
このスギは在来の品種や魚梁瀬スギやおびスギなどとは形状を異にし、八房スギの系統であるといわれている。
樹幹の大きさに比べ樹高が低く葉が異常に繁茂している様子は夏の入道雲に似ている。
枝葉はボタンの花を連想させるところから牡丹スギと呼ばれている。

さおりガ原の巨人たち(トチノキ)  高知県香美市物部町

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さおりガ原の巨人たち(トチノキ)  高知県香美市物部町

四国森林管理局HP「森の巨人たち100選」管内にある7箇所の紹介による解説は、次のとおり。私は堂床から三嶺登山道によりさおりガ原へ登り、西熊林道(荒廃 車通行禁止)で下った。
78.さおりガ原の巨人たち(イヌザクラ)は、前の記事へ。東屋から三嶺登山道をさらに約10分登ると、トチノキがある。4枚目は別の巨木。

79.さおりガ原の巨人たち(トチノキ)

トチノキ
幹周り 479cm
樹高 25m
樹齢 200〜290年
所在地 高知県香美市物部町

「さおりガ原の巨人たち(イヌザクラ、トチノキ)」は、三嶺自然休養林の中程に位置する、通称『さおりガ原』に佇んでいます。
「さおりガ原の巨人たち」に出会うには、物部町大栃から五王堂を経て西熊渓谷へと進み、ヒカリ石登山口から徒歩で約20分で西熊展望台に、展望台から西熊林道を通りトンネル上部の迂回路を約40分でさおりガ原の入口に、入口から約15分でイヌザクラに更に約10分でトチノキの巨木に会えます。

さおりガ原の巨人たち(イヌザクラ)  高知県香美市物部町

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さおりガ原の巨人たち(イヌザクラ)  高知県香美市物部町

四国森林管理局HP「森の巨人たち100選」管内にある7箇所の紹介による解説は、次のとおり。私は堂床から三嶺登山道によりさおりガ原へ登り、西熊林道(荒廃 車通行禁止)で下った。
79.さおりガ原の巨人たち(トチノキ)は、次の記事へ。

78.さおりガ原の巨人たち(イヌザクラ)

イヌザクラ
幹周り 517cm
樹高 30m
樹齢 200〜290年
所在地 高知県香美市物部町

「さおりガ原の巨人たち(イヌザクラ、トチノキ)」は、三嶺自然休養林の中程に位置する、通称『さおりガ原』に佇んでいます。
「さおりガ原の巨人たち」に出会うには、物部町大栃から五王堂を経て西熊渓谷へと進み、ヒカリ石登山口から徒歩で約20分で西熊展望台に、展望台から西熊林道を通りトンネル上部の迂回路を約40分でさおりガ原の入口に、入口から約15分でイヌザクラに更に約10分でトチノキの巨木に会えます。

轟 の 滝  高知県香美市香北町

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轟 の 滝  高知県香美市香北町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

轟 の 滝

轟の滝(とどろのたき)は、高知県香美市香北町にある滝。県指定名勝であり、日本の滝百選に選定されている。

概 要
物部川支流の日比原川流域にある。落差83メートルを3段に分かれて落下する。平家落人伝説の残る御在所山(1079メートル)北麓に位置する。最上段の滝壺は直径約15メートルの甌穴となっている。また、滝壺の脇には神社がある。
滝の周囲は原生林となっておりモミジなどの落葉樹が多く秋には紅葉の名所となる。また、周辺には轟の滝キャンプ場がある。

玉織姫伝説
轟の滝の滝壺には大蛇にさらわれた平家落人一門の娘・玉織姫(たまおりひめ)の悲しい伝説が残っている。

龍 河 洞  高知県香美市土佐山田町

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龍 河 洞  高知県香美市土佐山田町

国指定文化財等データベースは、現在メンテナンス中で利用できないため、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説を載せる。

龍 河 洞

龍河洞(りゅうがどう)は、高知県香美市にある鍾乳洞。日本三大鍾乳洞の一つに数えられる。
1934年(昭和9年)、国の天然記念物および国の史跡に指定された。2007年(平成19年)には日本の地質百選に選定されている。

概 要
鍾乳洞の総延長約4キロメートルのうち、約1キロメートルが通常ルートとなっている。このほかに、冒険コース(前日までに要予約)がある。珍鳥センターと龍河洞博物館が併設されている。

洞内より数十点の弥生式土器、炉跡、木炭および獣骨などを発見しており、弥生時代にあって洞内に居住した痕跡がのこるとして天然記念物指定と同時に国の史跡にも指定された。

特に洞内において弥生式土器が鍾乳石と一体化したものが見られ、「神の壷」と命名され龍河洞のシンボリックな存在になっている。その隣には昭和12年に実験のため置かれた壷があり、こちらも鍾乳石と一体化している[1]。