月別アーカイブ: 2008年1月

天初院のヒゼンマユミ  諌早市高来町船津

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

天初院のヒゼンマユミ  諌早市高来町船津

天初院は諌早市高来町船津にある。JR小江駅のかなり手前となり、深の海バス停から国道207号線がやや登ったきったところから左側に丘陵へ行く車道に入る。途中の要所に案内標識がある。現地説明板は次のとおり。

ひぜんまゆみ  諌早市指定天然記念物

天初院境内の西側に群生する孟宗竹林の中に十数本のヒゼンマユミが自生していて、幹の直径は三十〜四十cmである。にしきぎ科の植物で春に淡緑色の小さな花をつけ、冬、ミカンの葉ににた感じの常緑葉の間から四稜形の黄色の実がたれさがり、やがて果皮が裂けて赤い種子がみえるようになる。庭園樹としてもよい。本町では珍しい木としてこの樹叢を町指定天然記念物とした。
昭和三十九年、千葉常三郎が諌早市城山の諌早公園でこれを発見、大正二年に植物分類学の最高峰である牧野富太郎博士がヒゼンマユミと和名をつけた。
城山に残っているクスノキやヒゼンマユミなどを「城山暖地性樹叢」として昭和二十六年に、国が天然記念物に指定し、諌早市では「諌早の木」に指定している。九州各県で自生していることがわかり、県下では大村・森山にも自生している。 昭和六十二年三月二日 指定
平成五年三月 諌早市教育委員会

正法寺のソシンロウバイ  諌早市多良見町木床

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

正法寺のソシンロウバイ  諌早市多良見町木床

正法寺は諌早市多良見町木床にあり、喜々津駅の西方、JR囲トンネルの山裾に寺の屋根が見える。Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(街路樹)の説明は次のとおり。

正法寺のソシンロウバイ

諫早市多良見町木床の正法寺にある。境内にはソシンロウバイの木が7〜8本ある。若い果実に混じって、昨年の果実もまだぶら下がっていた。果実は4月下旬。花は翌年の2月中旬。

多良見公民館前のイヌマキ  諌早市多良見町化屋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

多良見公民館前のイヌマキ  諌早市多良見町化屋

諌早市多良見支所横に多良見公民館がある。この前の駐車場角に平成3年町の木に指定されたマキ(イヌマキ)が由来碑とともにある。碑文は次のとおり。

由      来

町木にふさわしい年輪と風格を備えたこの槇は長崎市戸町水源地横の山林の中で北斜面岩盤上に風雪に耐えて自生していたものを所有者渡辺宗人氏のご好意により寄贈を受けこのほど移植したもので樹齢三百年を超えると推定される
今後多良見町を代表する巨樹として末永く成長を続け後世まで町民に親しまれるよう祈りたい
平成三年三月 多良見町長 石 丸 義 雄

宮摺山ン神の社叢  長崎市宮摺町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

宮摺山ン神の社叢  長崎市宮摺町

長崎市宮摺町のバス終点広場奥から市民の森へ行く車道を登る。竈神社の大クスノキを過ぎなお行くと、カーブ地点に西国茂木48番札所があり、左の農道へ入り三叉路は左上に入る。この終点から石段を上がった右方の小ピークが、宮摺山ン神「大山祗神社」である。
現地説明板があったが、モッコクについて詳しくない。HP「長崎市の文化財」の説明は次のとおり。モッコクは鳥居右奥の林の中に見える一番幹の太い木である。

宮摺山ン神の社叢  市指定天然記念物

指定年月日:昭和51年5月10日 所在地:長崎市宮摺町736番地 所有者:宮摺町自治会
山ン神とは文字通り山を守り、山をつかさどる神で、祭神は大山祗神である。幅12m、延長40mほどの小さい社叢に、スダジイ・ヤマモモ・タブノキ・モッコクの大木を中心に、ハマビワ・サザンカ・ツバキ・シロダモ・ヤマビワなど30種をこえる自然林が茂っている。
このうち、モッコクは、胸高幹囲1.43m、1.2m、1.00mと、この種として珍しい大木で貴重である。モッコクは、暖地の海岸に近い山地に生えるツバキ科の常緑高木で、その端正な樹形から庭木の王者と称せられる。土地の人たちは、社叢の樹木の一つ一つに神霊が宿るとして、大切にしてきたものという。

塩釜神社のクスノキ  長崎市千々町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

塩釜神社のクスノキ  長崎市千々町

塩釜神社は、長崎市千々町のバス終点先にある。クスノキはさほど大きくなく幹周り4.5mほど。根元からすぐ2本の幹に分かれている。側にエノキがあり、境内の奥にはモッコク、シイなどが見られた。

藤田尾のツバキなどの巨木の列  長崎市藤田尾町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

藤田尾のツバキなどの巨木の列  長崎市藤田尾町

次は、昭和61年刊三和町「三和町郷土誌」375〜377頁の、荒木新氏稿「藤田尾余聞」の中にある巨木の記述である。

「部落の南西部、荒神山と呼ばれるところに、樹齢数百年を過ぎたであろう巨木が縦に九本、又ここより東下に、氏神の一代と思われる三浦水源をご神体としてお祭りしている八幡さまの屋敷跡がある。ここにも巨木が残っている。部落が起こってから何百年を経ているのか不明であるが、これらの巨木が部落の始まりに深い関係があり、おそらくこの年輪と部落の起こりの年代が一致するのではあるまいか。又もう一人の氏神一代三ッ峰近根門はいづれに祭られているかわからない。」

長崎市指定天然記念物になっているツバキの大木については、すでに先項により紹介している。この木の下の方にもう1本の幹周り1.63mのツバキの大木があることは聞いていたが、この余聞が書いていることに非常に関心がわき、1月4日、荒木新氏を訪ね確かめた。
藤田尾地区のことは、荒木氏にたいへん世話になっている。まだお元気で現地へ案内してくれた。荒神山とはやはりツバキの大木があるところである。藤田尾公民館手前に案内標識がある。

荒木氏の小さい頃の記憶として、この尾根には11本の巨木が並んで立っていた。ツバキ・カシ・シイ・タブ・モチなどの大木である。代代わりしたものもあり、今は5本が残っている。タブノキは大きい。記録のとおり樹齢200年を過ぎそうだ。他の木の伐り株の跡もこことここだったと話してくれた。
昭和61年「三和町郷土誌」植物の稿は、外山三郎氏がまとめられているが、藤田尾地区は記述がない。私の知識では、ここの巨木群の貴重さを紹介できない。写真のみ掲げる。
一度、専門の人が詳しく調査をお願いしたい場所である。Otoji.K氏HP「長崎県の名木」も次のとおりツバキの木しかふれていないのが惜しい。

三和町藤田尾の大ツバキ

根元から幹は二つに分かれ、それぞれの幹周りは、1.48mと0.9m。樹高11.2m、樹齢300年と言われ、町の天然記念物に指定。県指定になっている「福江の大ツバキ」にも匹敵するツバキである。花期は終わり、多くの実がなっている。

荒木新氏稿「藤田尾余聞」  三和町郷土誌から

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

荒木新氏稿「藤田尾余聞」  三和町郷土誌から

長崎市藤田尾地区は、長崎半島の裏側に位置し橘湾に面する。交通不便な地であった。茂木町であった藤田尾名は、昔から為石村と日常生活のあらゆる面で関わりが深く、昭和22年茂木町と住民の懇願によって為石村に編入された。その後昭和30年2月、蚊焼・為石・川原三村合併で「三和町」が誕生。現在は長崎市の南部地域「藤田尾町」となっている。

このような経過をたどった町なので、古記録が見あたらない。茂木や三和の郷土誌もほとんど町の歴史がふれられていない。次はこの中でも唯一の記録。
地元の識者荒木新氏が、昭和61年刊三和町「三和町郷土誌」第二編町の成り立ちの375〜377頁に、以下のとおり貴重な話をまとめられているので全文を紹介したい。
私はこれらの記録によって、この地区の歴史や自然を随分と調べることができた。すでに各項において載せているから、記事が重複するが参照をお願いしたい。

第四節 藤田尾余聞

部落の氏神は小川半根門、三ッ峰近根門、三浦水源の三氏であると伝えられ、今も森山神社にお祭りしている。神社は三方を川で囲む谷の小高い場所にあるが、住民は暖い場所を求めてか北東向の斜面に居を構えている。水には相当不自由をしたと思われる。ある時、お遍路さんが通りがかり、部落を見廻して、ここには五十戸程しか住まないだろうと予言したそうである。現に今も五十戸内外しか居住していない。
当部落は天領で、鍋島藩と隣接し、その境界ともなっている。五郎岳東部から飛瀬海岸までの間に部分的ではあるが、かっての境界を示す直径一メートル位の円形の石積が数百メートル間隔に残っている。
道路は干々埠頭を起点に上下に別れ、下道は干々木場を経て藤田尾を通り、為石へ。上道は二軒屋を通り布巻へ、又は為石へ。又、天領の境界番は木場で、藩領は二軒屋でそれぞれ双方からの去来者をチェックしていたのであろう。厳重な警護がうかがえる。藤田尾の者は、こむづかしいなどとよく耳にするが、このような地域性にも関係があるのかもしれない。
その昔、代官が領地見回りの際、集落のよく見える場所におかごを据えられたとかで、今も“かご据え場”の地名がある。又前田線の終点には、その当時海辺で舟の上げ下ろしを手伝ったり、部落の見回りなどをして、里人から食物を与えられて生活していたらしい番人の屋敷跡もある。

藤田尾の各所には、いくつかの小さな集落の跡がある。これらの集落の形成は平家の落人が安住の地を求め、去来を繰返して出来たのであろう。仏の高地、津々谷の滝下流の上道沿及び東面、戸屋平、木場の外、数箇所にある。いずれも川の近くか、出水あるいは堀井戸のある所でこれを利用したものと思われる。又、みな殻を多量に捨てている所もあり、当時の栄養源に食していたのであろう。生活の智恵を思い知らされる面もある。
山の田からよう星岳一帯に大小の埋葬されたと思われる塚がある。小さい塚で直径一メートル位の円形の石積で、大きい塚は四メートル位はある。この塚は、小石を高さ三メートル位の円形に積上げ、身分の高い士を埋葬したものであろう。この士が氏神の一代小川半根門ではなかろうか。大きい塚の上方数百メートルの所に、猪の害を防ぐ為であろう石で築いた高さ一メートル、幅六十センチ、長さ百メートルの堤がある。堤の内の畑は石垣で何枚かに仕切られ、部落の人はここを堤の内と呼んでいる。
部落の南西部、荒神山と呼ばれるところに、樹齢数百年を過ぎたであろう巨木が縦に九本、又ここより東下に、氏神の一代と思われる三浦水源をご神体としてお祭りしている八幡さまの屋敷跡がある。ここにも巨木が残っている。部落が起こってから何百年を経ているのか不明であるが、これらの巨木が部落の始まりに深い関係があり、おそらくこの年輪と部落の起こりの年代が一致するのではあるまいか。又もう一人の氏神一代三ッ峰近根門はいづれに祭られているかわからない。

藤田尾は急な斜面に集落をなしているため、道路は板石を段々と積み重ね、幅は一メートル以上、延長も数百メートルにも及んでいる。このように大石を使用し、数も相当なものなので、初めて見る人には強く印象に残ったそうである。今は一箇所たのぎわ坂に残っている。祖先の苦労がよくうかがえる一端である。又茂木村のころ西の端に位置する藤田尾に、近郷にない立派な石橋を架けようと、部落在住の村会議員が激論を闘わせ、やっと石橋の架橋に成功した。この橋もその後の大水害で流され短命に終わった。今は橋のたもとに、大正七年に架橋した旨を記す架橋碑のみが残っている。
地形状水の不自由は想像以上で、部落内に個人所有の井戸はあるが、ほとんどの人が二〜三か所の出水又は谷間の川からたんごで水を運び、炊事・洗濯・風呂などに使用したのである。主婦が子供を背に水を運ぶ姿をよく見かけた。このように水の不自由を感じ、部落ではこのことを連日連夜話し合い、組合を作って水道設置に踏み切った。水源地資金など難問が山積したが、鉛管を使い、長さ数キロにも及ぶ配管で完成した。一戸当りの負担は、今の金額にすると数百万円にもなったという。水道設置数年後電燈も灯り、ランプ磨きも不用になり、子供心にだいぶはしゃいだことを記憶する。
そのころには、ぼら網漁も最盛期で、為石、川原、宮崎、蚊焼の各地域から大勢集まり、大漁の時は万越祝いで浜辺に車座になり、酒盛りをしたものである。網倉庫は番人屋敷跡で、倉庫内は多量の網類と潜水具一式も保管されていた。最後に本稿は年代が若干前後しているとは思われるが筆者が古老、中老の話をもとに、足を運び確認したものである。          荒木 新

諌早湾干拓堤防道路の風景 (遠望と夜景)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

諌早湾干拓堤防道路の風景 (遠望と夜景)

「諌早湾干拓堤防道路」の雲仙市吾妻ー諌早市高来間全長7kmが、平成19年12月22日午後5時から開通した。
12月27日午後4時過ぎ吾妻から通った道路の近景は、昨年紹介している。今回は1月5日午後またこの方面へ行ったので、高来・小長井側山手からの遠望と水門の夜にかかった風景を写した。
最後の2枚は翌6日、今度は反対方の吾妻側山田城址公園展望台からのもの。

為石のクスノキ・アコウ・エノキ  長崎市為石町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

為石のクスノキ・アコウ・エノキ  長崎市為石町

長崎市為石町の海岸沿いに見かけた大木。さほど巨樹と言えないが、クスノキは為石漁港の大川河口にあり、大川橋から見える。
アコウ・エノキは市為石地区公民館の先の方となり、藤田尾方面へ行く県道34号線登り口左側に見える。このエノキは根元の坂田宅の支障となるため、3年前伐採され枯れている。幹周りは2.5mくらいあった。
枯れた枝の上に、隣のアコウが着生しかけている。

年崎のチシャノキ  長崎市為石町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

年崎のチシャノキ  長崎市為石町

年崎は、長崎市為石町と川原町の町境の海岸。為石漁港の南側突端で、県道34号線はここでカーブする。防波堤へ下る道との間にかなり大きな木があり、チシャノキもここにある。長崎市立城山小学校にも高木がある。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(街路樹)の説明は次のとおり。
なお、この辺りの海岸はれき質片岩と円れき浜となり、地質学上、貴重なところである。

三和町の街路樹

川原大池は「川原大池樹林」として県の天然記念物に指定されている。大池に至る途中の道路沿いにチシャノキを見ることができる。自生のチシャノキを見たのはここが始めてであった。

チシャノキ ムラサキ科チシャノキ属 常緑高木

葉は互生し、倒卵形〜倒卵状楕円形で先は尖る。縁に浅い鋸歯があり、表面は毛があってざらつく。若葉は食べられる。6〜7月、円錐花序をだし小さな白い花を咲かす。花冠は5裂。果実は5mmほどの球形で黄褐色に熟する。
本州(中国地方)、四国、九州に自生。
三和町・川原大池に至る道沿いのチシャノキ。
花は6月中旬。果実は8月初旬。