荒木新氏稿「藤田尾余聞」  三和町郷土誌から

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荒木新氏稿「藤田尾余聞」  三和町郷土誌から

長崎市藤田尾地区は、長崎半島の裏側に位置し橘湾に面する。交通不便な地であった。茂木町であった藤田尾名は、昔から為石村と日常生活のあらゆる面で関わりが深く、昭和22年茂木町と住民の懇願によって為石村に編入された。その後昭和30年2月、蚊焼・為石・川原三村合併で「三和町」が誕生。現在は長崎市の南部地域「藤田尾町」となっている。

このような経過をたどった町なので、古記録が見あたらない。茂木や三和の郷土誌もほとんど町の歴史がふれられていない。次はこの中でも唯一の記録。
地元の識者荒木新氏が、昭和61年刊三和町「三和町郷土誌」第二編町の成り立ちの375〜377頁に、以下のとおり貴重な話をまとめられているので全文を紹介したい。
私はこれらの記録によって、この地区の歴史や自然を随分と調べることができた。すでに各項において載せているから、記事が重複するが参照をお願いしたい。

第四節 藤田尾余聞

部落の氏神は小川半根門、三ッ峰近根門、三浦水源の三氏であると伝えられ、今も森山神社にお祭りしている。神社は三方を川で囲む谷の小高い場所にあるが、住民は暖い場所を求めてか北東向の斜面に居を構えている。水には相当不自由をしたと思われる。ある時、お遍路さんが通りがかり、部落を見廻して、ここには五十戸程しか住まないだろうと予言したそうである。現に今も五十戸内外しか居住していない。
当部落は天領で、鍋島藩と隣接し、その境界ともなっている。五郎岳東部から飛瀬海岸までの間に部分的ではあるが、かっての境界を示す直径一メートル位の円形の石積が数百メートル間隔に残っている。
道路は干々埠頭を起点に上下に別れ、下道は干々木場を経て藤田尾を通り、為石へ。上道は二軒屋を通り布巻へ、又は為石へ。又、天領の境界番は木場で、藩領は二軒屋でそれぞれ双方からの去来者をチェックしていたのであろう。厳重な警護がうかがえる。藤田尾の者は、こむづかしいなどとよく耳にするが、このような地域性にも関係があるのかもしれない。
その昔、代官が領地見回りの際、集落のよく見える場所におかごを据えられたとかで、今も“かご据え場”の地名がある。又前田線の終点には、その当時海辺で舟の上げ下ろしを手伝ったり、部落の見回りなどをして、里人から食物を与えられて生活していたらしい番人の屋敷跡もある。

藤田尾の各所には、いくつかの小さな集落の跡がある。これらの集落の形成は平家の落人が安住の地を求め、去来を繰返して出来たのであろう。仏の高地、津々谷の滝下流の上道沿及び東面、戸屋平、木場の外、数箇所にある。いずれも川の近くか、出水あるいは堀井戸のある所でこれを利用したものと思われる。又、みな殻を多量に捨てている所もあり、当時の栄養源に食していたのであろう。生活の智恵を思い知らされる面もある。
山の田からよう星岳一帯に大小の埋葬されたと思われる塚がある。小さい塚で直径一メートル位の円形の石積で、大きい塚は四メートル位はある。この塚は、小石を高さ三メートル位の円形に積上げ、身分の高い士を埋葬したものであろう。この士が氏神の一代小川半根門ではなかろうか。大きい塚の上方数百メートルの所に、猪の害を防ぐ為であろう石で築いた高さ一メートル、幅六十センチ、長さ百メートルの堤がある。堤の内の畑は石垣で何枚かに仕切られ、部落の人はここを堤の内と呼んでいる。
部落の南西部、荒神山と呼ばれるところに、樹齢数百年を過ぎたであろう巨木が縦に九本、又ここより東下に、氏神の一代と思われる三浦水源をご神体としてお祭りしている八幡さまの屋敷跡がある。ここにも巨木が残っている。部落が起こってから何百年を経ているのか不明であるが、これらの巨木が部落の始まりに深い関係があり、おそらくこの年輪と部落の起こりの年代が一致するのではあるまいか。又もう一人の氏神一代三ッ峰近根門はいづれに祭られているかわからない。

藤田尾は急な斜面に集落をなしているため、道路は板石を段々と積み重ね、幅は一メートル以上、延長も数百メートルにも及んでいる。このように大石を使用し、数も相当なものなので、初めて見る人には強く印象に残ったそうである。今は一箇所たのぎわ坂に残っている。祖先の苦労がよくうかがえる一端である。又茂木村のころ西の端に位置する藤田尾に、近郷にない立派な石橋を架けようと、部落在住の村会議員が激論を闘わせ、やっと石橋の架橋に成功した。この橋もその後の大水害で流され短命に終わった。今は橋のたもとに、大正七年に架橋した旨を記す架橋碑のみが残っている。
地形状水の不自由は想像以上で、部落内に個人所有の井戸はあるが、ほとんどの人が二〜三か所の出水又は谷間の川からたんごで水を運び、炊事・洗濯・風呂などに使用したのである。主婦が子供を背に水を運ぶ姿をよく見かけた。このように水の不自由を感じ、部落ではこのことを連日連夜話し合い、組合を作って水道設置に踏み切った。水源地資金など難問が山積したが、鉛管を使い、長さ数キロにも及ぶ配管で完成した。一戸当りの負担は、今の金額にすると数百万円にもなったという。水道設置数年後電燈も灯り、ランプ磨きも不用になり、子供心にだいぶはしゃいだことを記憶する。
そのころには、ぼら網漁も最盛期で、為石、川原、宮崎、蚊焼の各地域から大勢集まり、大漁の時は万越祝いで浜辺に車座になり、酒盛りをしたものである。網倉庫は番人屋敷跡で、倉庫内は多量の網類と潜水具一式も保管されていた。最後に本稿は年代が若干前後しているとは思われるが筆者が古老、中老の話をもとに、足を運び確認したものである。          荒木 新