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長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」(ながひとお)

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 三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」平成14年8月243号掲載記事
三和史談会 浦里宇喜男さんの「三和町地名のルーツ」その32から

長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」(ながひとお)

蚊焼本村から南に位置し、海抜一〇〇メータから二〇〇メータの広々とした山林地帯、ここが「長一尾」である。読んで字の如く、川原の秋葉山から、野母崎町高浜境まで、長い尾根が続いている。この尾根道が、十一月二十四日、本町で開催された、長崎県地方史研究大会で、本町の史談会長、中島勇先生の講演テーマ、「観音信仰とみさき道」としてとり上げられたのである。ここで、三和町郷土誌での「長一尾」「みさき道」をひもといてみよう。(以下郷土誌より)

川原道をしばらく進むと焼却場に出るが、「御崎道」はこの焼却場の少し手前から山道にかかる。ここは「長一尾」と呼ばれ、秋葉山の頂上近くまで一気に上るのである。そして上りつめたところに郷路八幡が祀られている。平家の主従五名ばかりが、ここで果てたと伝えられており、元の墓も近くの林の中に残っている。

長崎医学伝習所生、関寛斎も「蚊焼島(日記原文から「峠」が正)の上三十丁(約三粁)ばかりを“長人”といふ、此の処東西狭くして直ちに左右をみる、東は天草、島原あたり、その中間より肥後を見る」と記述しているように、上るまでは大変であるが、いったん上ってしまうと、上は平坦な道を稜線に沿って進むので、寛斎の言うように、”東西狭くして左右を見る”という感じであろう。(以下省略)

また、この「長一尾」は旧深堀藩であった蚊焼村と、長崎代官支配の川原村との境界であり、その境界とり決めの古文書には次のように記してある。
今度、公儀より絵図の儀、仰下され候は、境目相改め候覚、一、かやき村、かわら村境の事、右のはしの川内(橋川内)河境より長ひとお(長一尾)山谷境大通より高浜境迄みなふわけ(稜線〔みのう〕わけ)なり。(以下略)

先日、秋葉神社お詣りの帰途、この長一尾のみさき道を歩いてみた。最近、長崎の某山岳会の好意で案内標識も整備されており、中高年の山歩きには最適のコースと感じた次第である。

岳路回りのみさき道(岳路みさき道)

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岳路回りのみさき道(岳路みさき道)

岳路海水浴場バス停下に今魚町の道塚があることから、岳路回りのみさき道のコースがあったことが推定される。蚊焼から永一尾の山の稜線を行きゴルフ場の道塚から高浜へ出るいわゆる「みさき道本道」に対する、海沿いの蚊焼・岳路・黒浜・以下宿の集落を通って、高浜毛首の延命水手前で本道と合流するもう一つの「みさき道」である。私たちが道を区別したり書きものをするとき、そう呼んでいるだけで、正式な名前でないし認知はされていない。

蚊焼から先の永一尾の稜線に、道塚が見あたらないのは不思議なことであったが、妙道尼信女墓の所に道塚があったと記憶されている人はおり(蚊焼桑原氏)、徳道とゴルフ場にある道塚を結ぶと、この稜線の道が「みさき道」であったことは間違いない。関寛斎は「長人」を通っている。
しかし、このコースを外れて岳路に1本だけ、しかも同じ今魚町の道塚が離れてある。これは海沿いに岳路を回るもう1本の「みさき道」であった。生活道として集落を結ぶ道がまずあったことは、当然なことである。本道との分岐は蚊焼西大道の道塚である。この道は実際歩いて楽なのである。

元禄十四年「肥前全図」に描かれている赤道の線は、この道のようであり、明治の後半期に入り栄上から蚊焼に抜ける道が整備されると、かえってこのコースの道が利用されたと考えられる。長崎ー野母間の船便が運航され、外海が荒れたときは蚊焼まではなんとか来られたが、後は歩いて家に帰ったという体験談を聞く。

この道は岳路から黒浜ダムの下を黒浜まで行き、黒浜トンネル手前からいよいよ「尻喰坂」越えをし、以下宿地蔵堂から南谷を上がって高浜延命水手前の小さなアンテナ塔のあるところでゴルフ場道塚から下って来た「みさき道本道」と合流する。

尻喰坂(しっくいさか) 岳路みさき道の坂道

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尻喰坂(しっくいさか)  岳路みさき道の坂道

無駄足を踏みながら、地図で以下宿に「尻喰坂」(しっくいさか又はしっきぃさか)なる名前の道があることを知った。岳路から黒浜・以下宿と今の国道は断崖が続く。海岸は通れなかったはずと思い、この坂に分け入った。立派な街道が残り、以下宿の南の谷を上がり高浜毛首の延命水へ道は続いていた。

「尻喰坂」とは、黒浜トンネル手前から以下宿の老人ホーム「永寿園」先の地蔵堂に抜ける峠越えの坂である。厳密には以下宿側を言い、以下宿から上がるのがきつく、その状態を言うという。延命水の地点は、「のもざき漫歩」が紹介しているとおり、「野中の一本松」がかつてはあり、黒浜のこどもたちが高浜の学校へ通うのにいつも使われた道であった。
「尻喰坂」については、村岡豊氏HP「長崎県の坂」にもある。

「みさき道」などにある力士墓・力士碑4話

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「みさき道」などにある力士墓・力士碑4話

写真上から

①小が倉バイパスの新小が倉1丁目相光石油ガソリンスタンド角
下の説明碑にあるとおり、この力士墓は天保十年ごろ東京相撲で活躍した「二子島力士」と、慶応四年ごろ宮相撲の強豪であった「熊ヶ谷力士」の墓である。ここの裏手の現在高比良造園のところに「みさき道」の「源右衛門茶屋」(ゲンネン茶屋)があった。
力士墓も以前ここにあったが、バイパス側に移設されて碑とともにある。

②同近く高比良造園奥の竹林内
造園の敷地から離れた奥の竹林内に「谷櫻力士墓」がある。力士の詳細不明。大正年間に建てられたということだが、いかなる理由からか竹林内に移設されている。谷櫻碑は小ヶ倉2丁目小ヶ倉神社横にも建てられているが、これも2回目になるという。川向氏の出といい、墓は浜田墓地にある。(「小ヶ倉のあゆみ」から)

③蚊焼地蔵寺国道下の前三和町有地
「二子嶋」(寛政四年)と「肥ノ嶌巌力」(明治二九年)の墓。もともとは蚊焼入口の「みさき道」の道筋にあった。国道拡幅工事のため、数年前から現在の町有地に移設されている。

④川原木場公民館のグランド奥
高さ約2mほどの自然石。「天保三年 熊川清四郎力士 十一月十九日角力中」とある。地元の川「熊川」を四股名とした力士を讃えた碑のようで墓でない。ここは半島東回りのみさき道であった。

福田村・西浦上村所有権境石 岩屋山登山道にあった

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福田村・西浦上村所有権境石 岩屋山登山道にあった

小江原の警察学校の所から車道が岩屋山中腹まで上がる。途中に岩屋神社の鳥居があり、車道の終点からいよいよ登山道にかかる。東屋やDDI塔を通り、山道を10ほど登った植林地内の道脇の自然石に、見事な字で「福田村西浦上村境石」と刻まれている。ちょうど「西町・油木方面 九州自然歩道 手熊・式見方面」の道標がある地点である。刻面は次のとおり。

所有権
福田村西浦上村境石
大正十四年一月十七日福田村長相川金
三郎西浦上村長柿田介一並手熊
郷岩屋郷民立會境ヲ定ム
所有権

林純夫著「福田村郷土史」平成12年刊、594頁に「七、岩屋山・多以良山の境界争い」があり、次のように概説されている。

福田村(小江・手熊郷)は、文化元年(一八〇四年)、浦上北村・浦上西村及び平宗村とで岩屋山の境界、さらに文政元年(一八一八年)には、浦上北村・浦上西村とで「多以良山」の境界、そして明治に至り再度岩屋山での境界について三度も争っています。三度目となる明治時代の争いでは東京での裁判となりました。その裁判では、結局福田村の主張が認められたようです。
双方同じ大村藩領ではありましたが、その争いは約八〇年間にも及ぶものであり、いかに当時の百姓が自分達の生活のため土地を守り大事にしていたかがよく窺えると思います。

林氏著は、浦上西村「郷村記」も紹介し、争いの場所が「二階岩」近くであることを説明されている。「二階岩」とは、岩屋山案内図から先の車道終点近くにある岩ではないだろうか。そのまたすぐ上方の登山道にあるこの大正14年刻「境石」の存在を、林氏はまったくご存じなかったのだろうか。紹介されていない。山中道脇の珍しい石なのに案内図にも書いてない。
岩屋山における双方の村の所有権争いは、大正時代もまだ続いていたようである。

大籠町新田神社の石祠

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大籠町新田神社の石祠

新田神社は、深堀から平山台団地へ行く車道途中の大籠町にある。神社奥の石祠は大きく、屋根の部分に蛸・蟹・海老の姿があり珍しい。道路反対側には六地蔵堂もあった。
三和史談会中島勇氏は、キリシタンの宗教色が強いと、平成10年三和町文化協会誌に「新田神社考」を掲載されている。

中尾正美編「郷土史 深堀」昭和40年刊、第五部「深堀史跡篇」の説明は次のとおり。

(三七)新 田 神 社(大籠町)
新田義興を祀る神社で、其の奉祀の原因及時期はさだかでないが義興が矢口渡に誘致されたので正平十三年(一三五八年)で、それより百年位前に此の地に新田正久が居住していたと言われている。
秋暑し陽に酔ひくゞる木の鳥居 寺田 智子

深堀陣屋跡のアコウ 長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡のアコウ 長崎市深堀町5丁目

長崎市深堀町5丁目の深堀カトリック教会一帯が深堀陣屋跡。この敷地内にある。現地説明板は次のとおり。なお、陣屋跡の石垣の脇には、深堀城山から運ばれた俵石が数本置いてある。

市指定天然記念物 深堀陣屋跡のアコウ
指定年月日 昭和51年7月20日  所有者 カトリック長崎大司教区

アコウは雌雄異株の常緑高木で、おもに西南日本の海岸に分布する。アコウの巨樹の多くは、地上まもなく数本の主幹を横に広げる。主幹は支柱根を垂らして、支幹を支える。
このアコウは、胸高幹囲6.90m、樹高20mで、巨樹とはいえないが、地上4mまで幹は直立し、そこから出る支幹も高く上に伸びて、美しい樹形をつくる。横に広がる支幹がないためか、支柱幹は主幹に沿って数本が垂れ下がり、毛髪状の気根がわずかに見られるだけというのがかえって珍しい。
長崎市教育委員会(平成元年3月設置)

善長谷開拓碑 長谷川佐八碑・善長谷教会・境内ルルド  長崎市大籠町

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善長谷開拓碑 長谷川佐八碑・善長谷教会・境内ルルド  長崎市大籠町

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年刊による説明は次のとおり。

132 善長谷開拓碑 (所在地:大籠町)
この地の開拓は、文政6年(1823)佐賀藩深堀領東樫山から水方佐七に率いられた人達の移住に始まる。彼らは全員キリシタンであったが、鍋島家より原野数町歩を与えられ、城山頂上の八幡神社の祭祀や掃除等を課せられた。さらに、旦那寺は菩提寺であったが、踏絵は免除された。このようなことが絶好の隠れみのとなり、以後も信仰を隠すことができ、幕末維新に至った。

2−D 城山台団地背後の山の稜線上 (確認 長崎要塞第二地帯標 第六号)

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2−D 城山台団地背後の山の稜線上 (確認 長崎要塞第二地帯標 第六号)

略図は福田村と長崎市境に標石位置を示している。小江原から稲佐山の縦走路稜線と判断し、車で小江原Sマートから霊園と水道タンクへ行く林道に入った。タンク地点でコンクリート舗装は途切れ砂利道を歩く。尾根を回って四叉路となりゴルフ場の方まで探したが見あたらない。戻って反対側の小江原の方へ防火帯を探した。

防火帯を登ったところに尾根分岐があり、稲佐山の縦走路は東へ行く。これから平坦な防火帯の中の道が続く。標石は旧版地図296.6m地点でないかと推測した。途中で南稜平野氏ら2人と会ったが、標石は全く見ないと言う。まもなく白い反射板鉄塔が建ち、ここが標高地である。引き返そうと思ったが、しばらく200mほど歩いた。高橋氏が標石を見つけた。

ブルドーザーがならした防火帯の高さ1m位左上斜面の木の根元に横倒し、角柱の一部を覗かせていた。工事で無惨に半分に壊され放置されていた。刻面の字は欠けてない。標石は「長崎要塞第二地帯標」「第六号」である。下部は土に埋もれすぐ下にあったので掘り起こした。先へ行くと小江原団地が一望できる。団地から上がった方が近いが、そう来た場合、見過ごした恐れがある。標石を写真に収め、元の位置に戻した。この標石は「長崎県の山歩き」旧版にも記述はない。私も覚えがない。江越先生へ話すと40年位前あったと記憶していた。

(注)以上は平成18年3月の報告。平成19年7月25日再訪した。小江原の登山口から入り緩やかな登りを15分ほどで標石の地点へ着く。誰が気を利かして動かしたか、標石は縦走路の道脇に出されていた。

2−A 小江の野島 (確認 長崎第二地帯標 第一号)

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2−A 小江の野島 (確認 長崎第二地帯標 第一号)

かつて小江の湾にあった小さな島。暖海流の影響が大きく「野島樹叢」として市天然記念物に指定されている。今は埋立てられ西部ガスの天然ガス供給基地などができている。島の姿は埋立地内にそのまま残る。高橋氏は市からフェンスの鍵を開けてもらい調査したが、標石は見あたらなかった。

地元で聞いても知っている人はいなく、標石はないと思っていたところ、平成18年3月20日大手町木村氏が確実な情報を寄せてくれた。長崎文献社刊「長崎石物語」著者で自然史研究の布袋厚氏が5年前、野島地質調査の際、1級基準点59のピークで標石を見たと記憶されているという。翌21日木村氏と確認に行った。
標石はあった。「長崎要塞第二(刻面は第二区)地帯標」「第一号」で、「昭和十四年三月」である。「昭和」の年月は珍しく、資料のとおり、告示3次改正の一時期のものと判断された。18cm角、高さ70cmある。