長崎県の石橋」カテゴリーアーカイブ

大村市に残るアーチ石橋  大村市中里町「ひやけはし」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

大村市に残るアーチ石橋  大村市中里町「ひやけはし」

大村市中里町にはカキノキの樹形がよい大木があった。「ひやけはし」という変った名のアーチ石橋もあるとHPにあったから訪ねてみた。大村市では、この橋が唯一の石橋のようだ。
国道34号線が鈴田峠を過ぎ、JR大村線の鈴田峠トンネル出口付近で左折して踏み切りを渡り、旧国道の道を行くとすぐの川に架かっている。鉄道のすぐ左側。折りよくシーサイドライナーが通った。
橋の銘柱はコンクリート製。変った形をしていて「ひやけはし」とある。架設年は不明。このあたりの地名が「日焼」とバス停があった。HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

第 62 番 ひやけはし   大村市中里郷
年代 不明   長さ 約6.0m 幅員 約4.0m
地域在住の大久保氏から連絡を頂いた橋。旧国道に架かる橋。ここに石橋があることを、知らせてもらうまで全く知らなかった。感謝。
【ガイド】諫早市から国道34号線で鈴田峠を越える。鉄道のトンネル付近で左折して旧国道に入る。

北・南有馬町に残るアーチ石橋  (2)  南島原市北有馬町・南有馬町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

北・南有馬町に残るアーチ石橋 (2)  南島原市北有馬町・南有馬町

南島原市北有馬町・南有馬町に残るアーチ石橋は、11橋である。このうちの(2)。
ここも石橋の宝庫である。諏訪の池から北有馬へ下る県道30号線から少し入ると見学できる。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真 7  第 43 番  荒 田 橋    北有馬町坂上下名下田中
明治末期       長さ 13.0m  幅員 2.5m
有馬川にの支流、三八川上流。荒田バス停から入る。
田中橋を訪ねて、諏訪の池から県道30号線を北有馬に向かっていたら、田中公民館の先の荒田バス停の先を、なんとなくカンが働いて入ってみた。偶然であったアーチ橋。名前が判らないので「荒田橋」としてみた。
アーチ部分は小さく、側面は石垣のように積み上げている。比較的新しい橋のように感じる。山口祐造氏の著書で名前と架橋年代が判明した。

写真 8  第 40 番  ショウベ川橋   北有馬町折木名折木(堤下)
明治期        長さ 15.0m  幅員 1.8m
堤のホテイアオイの花に誘われて、ふと下流を見て気が付いた橋。有馬川の支流坂山川に架かる。
面無橋ほどではないが、この橋も丸石が多用されている。植物で見えないが…。付近の景観ともマッチした良い橋だ。

写真 9  第 64 番  上長平谷橋    北有馬町折木名長平谷(堤上) 
明治末期       長さ 6.8m   幅員 3.0m
ショウベ川橋から坂山の別れ道に上る二倍ほど上流に登る。
棚田の奥に、石橋が現われた集落の最上部になる。すぐ手前の水神さんで、顔を洗わせていただいた。

写真10  第 65 番  小 谷 橋    北有馬町折木名小谷
年代不詳       長さ 3.0m   幅員 4.0m
小谷の旧道から山に入る。普通車ではチョッと辛い。
九州自然歩道を登る。地元の人たちは軽自動車でなら入っていく。この橋が近年教育長自身が見つけた橋。

写真11  第 86 番  深谷(ふかだん・ふかたに)橋  南有馬町菖蒲浜
明治中期       長さ 約5.0m  幅員 約4.0m
旧国道に架かる。

北・南有馬町に残るアーチ石橋  (1)  南島原市北有馬町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

北・南有馬町に残るアーチ石橋 (1)  南島原市北有馬町

南島原市北有馬町・南有馬町に残るアーチ石橋は、11橋である。このうちの(1)。
ここも石橋の宝庫である。諏訪の池から北有馬へ下る県道30号線から少し入ると見学できる。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真 1  第 39 番  面 無 橋    北有馬町今福名面無 タカエ川
江戸末期〜明治初期   長さ 12.0m  幅員 3.4m
棚田の中に見える橋は、元の往還に架かる橋 有馬川の支流、高江川に架かる。
岩屋川のアーチ橋が自然石組だと感心してたら、この面無橋には驚いた。枠石の外側だけは多少の加工がしてあるが、それ以外は加工の跡が余り見られない石ばかりで組まれている。よくこれで綺麗なアーチが保てるものだ。付近の景観ともマッチした良い橋だ。

写真 2  第 52 番  西 平 橋    北有馬町西正寺名西平 西正寺川
明治30年8月     長さ 28.5m  幅員 5.0m ハツメ石
石工 森田清次郎。肝心なアーチが見えないのが残念。
山本教育長のお話では、なんとここは「ゴミ捨て場」になってしまっていたそうだ。手前の橋があってアーチを簡単に見ることができない。

写真 3  第 66 番  桶口橋(テイグチ橋・坂下橋)北有馬町坂上下名坂下桶口 大丸川
明治28年       長さ 20.2m  幅員 5.1m ハツメ石
坂下小学校前の県道を下り、大丸バス停の川下側に架かる。
枠石はしっかりとした切石だが、側面は自然石を野面で積んだ状態。標柱には石工の名前が刻まれていて、北高来郡上戸村の上戸栄助とある。
橋底から見ても、まだまだしっかりとしていることが見て取れる。

写真 4  第 45 番  元 平 橋    北有馬町坂上下名田中
大正10(1921)年 長さ 18.7m  幅員 2.8m
有馬川にの支流、坂下川。上流側に新元平橋がかかる。
橋の横には公園整備がなされている。
北有馬町には沢山のアーチ橋が残っているそうだ。この橋も偶然に出会えた。

写真 5  第 44 番  田 中 橋    北有馬町坂上下名田中 
明治36(1903)年 長さ 13.7m  幅員 3.9m
馬川にの支流、坂下川。坂下小学校から入る。
柿ノ木谷への案内板の先に、田中橋は現われた。川底を見ると橋の材料になりそうな砂岩の層が見える。北松の佐々川と同じように石に恵まれているのかもしれない。
美しさを感じさせる良い橋だ。

写真 6  第 49 番  荒 田 下 橋  北有馬町坂上下名下田中 
明治35年        長さ  5.6m  幅員 3.9m
有馬川の支流三八川に架かる。田中橋のすぐ上流。
田中橋を渡らずにそのまま50m程上ると、有馬川の支流の坂下川の、さらに支流となる三八川の合流点に出る。この荒田下橋を越えて坂を登ると、荒田橋に行き着く。

坂下川の元平橋  南島原市北有馬町乙

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

坂下川の元平橋  南島原市北有馬町乙

諏訪の池から南島原市北有馬町へ下る県道30号線沿い。人家や幼稚園に出たところに案内標識がある。坂下川に架かる。石橋の川からの高さが高く、多くの石を積んでいる。上流側の新元平橋と並ぶ光景は、見ごたえがあった。
県道沿いですぐ近く、通りかかりに寄って見る価値がある。夕暮れで写真が暗く、再度出かけたい。HP「長崎県の石橋を訪ねて」の中の説明は次のとおり。

第 45 番  元 平 橋    南高来郡北有馬町坂上下名田中
大正10(1921)年   長さ18.7m 幅員2.8m
有馬川にの支流、坂下川 上流側に新元平橋がかかる。橋の横には公園整備がなされている。北有馬町には沢山のアーチ橋が残っているそうだ。この橋も偶然に出会えた。

千々石町に残るアーチ石橋 (2) 上流部  雲仙市千々石町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

千々石町に残るアーチ石橋 (2)上流部  雲仙市千々石町

雲仙市千々石町の千々石海水浴場にそそぐ川は、雲仙地獄盆地に発する延長12kmの島原半島第1の長さ2級河川の千々石川を本流とし、清水川・飯岳川・上峯川などを集めている。
石橋群が残っているから、下流部から上流部まで見てまわった。千々石町「千々石郷土誌」平成10年刊の1216〜1218頁に資料と地図があった。HPでは「長崎県の石橋を訪ねて」が地域別に詳しい。

郷土誌の記録当時から年月が経ち、大中橋は平成10年3月、古松橋は平成18年4月に橋が架け変えられ、石橋は解体されていた。道路拡幅のとき残すのがむつかしいようだ。現在、残っているアーチ石橋は次のとおり6橋。
上段は「千々石郷土誌」の記録。下段はHP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明。

写真  1  万 松 橋  下塩浜  明治末期
第 14 番  萬松橋(塩浜橋) 千々石町 下峯川に架かる
江戸時代末期   長さ 6.5m  幅員 5.2m(1/4程度はコンクリートの継ぎ足し)
千々石町では石造アーチ橋を壊さずに補強したり打ち増ししたりして残してくれている。石橋好きには嬉しい。
車時代に合わせて橋の幅を広げている。このような形でも残してくれるのはありがたいことだ。

写真  4  八 千 代 橋  神ノ下  大正 6年頃(1917)
第 23 番  八 千 代 橋  千々石町 橘神社より千々石川の下流に架かる
大正6年    長さ22.0m  幅員 5.4m
付近は河川公園で「橋の歴史」が見られます。
下流側には、補強工事が右下のようにされてある。橋の景観を守るため補修のしかたに工夫が見られる。
左下の写真は八千代橋の上流の風景、増水した時は完全に水没する「河磯橋」と、その奥には橘神社にいたる「軍神橋」が見える。軍神橋は近代的なコンクリート橋。
八千代橋下流の飛び石。飛び石からコンクリート橋までが短い区間に並んでいる。

写真  7  大 門 橋  小 倉  明治30年頃(1897)
第 15 番  大 門 橋    千々石町 橘神社より千々石川の上流に架かる
明治30年   長さ14.3m  幅員 4.0m
上流の風景もいいですよ。行ってみませんか?
車止めがついた。下流側に新しい橋が出来たために、大門橋は車両通行止め。橋の寿命は随分延びるだろう。

写真 10  水 道 橋  飯 岳  大正7年?
第 30 番  水 道 橋    千々石町飯岳
大正7年   長さ 7.3m  幅員 2.5m
ダムからの発電用水路の水道橋。飯岳橋の下流のダムの点検通路を通って水道橋まで行けるが、立ち入り禁止になっている。
千々石町の総務課の方から存在を伺った。枠石もしっかりしている。長崎県内では、私の知る限り唯一の水道橋。発電所の存在は判っていたから、水道橋の名前さえ判っていれば、もっと早く出会えたのにと思う。
要石の上の平石が気になる。押さえ石か排水口か?

写真 11  白 新 田 橋  白新田  明治31年頃(1898)
第 16 番 白 新 田 橋  千々石町 木場入口手前から入って千々石川の上流を目指すと判りよい。
明治31年   長さ13.9m  幅員 3.3m
もう無くなってしまったと思っていた。
普通に通る分には、石橋を忘れてしまう。石橋の上に架かる新橋は、石橋に負荷を掛けない構造になっているようだ。

写真 13  水 電 橋   岳   大正 4年 (1915)
第 17 番  水電橋(水力発電からの命名だろう)千々石町 棚田の岳の集落に入って羽山橋のバス停手前
大正4年5月  長さ11.0m  幅員 2.6m
黄色い柵は発電所まで続く。
補強工事をしている。枠石が崩れなければめったなことではアーチ橋は破損しない。このような補強は、素人目にも有効に思える。標柱もちゃんと立っていた。

千々石町に残るアーチ石橋 (1)下流部  雲仙市千々石町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

千々石町に残るアーチ石橋 (1)下流部  雲仙市千々石町

雲仙市千々石町の千々石海水浴場にそそぐ川は、雲仙地獄盆地に発する延長12kmの島原半島第1の長さ2級河川の千々石川を本流とし、清水川・飯岳川・上峯川などを集めている。
石橋群が残っているから、下流部から上流部まで見てまわった。千々石町「千々石郷土誌」平成10年刊の1216〜1218頁に資料と地図があった。HPでは「長崎県の石橋を訪ねて」が地域別に詳しい。

郷土誌の記録当時から年月が経ち、大中橋は平成10年3月、古松橋は平成18年4月に橋が架け変えられ、石橋は解体されていた。道路拡幅のとき残すのがむつかしいようだ。現在、残っているアーチ石橋は次のとおり6橋。
上段は「千々石郷土誌」の記録。下段はHP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明。

写真  1  万 松 橋  下塩浜  明治末期
第 14 番  萬松橋(塩浜橋) 千々石町 下峯川に架かる
江戸時代末期   長さ 6.5m  幅員 5.2m(1/4程度はコンクリートの継ぎ足し)
千々石町では石造アーチ橋を壊さずに補強したり打ち増ししたりして残してくれている。石橋好きには嬉しい。
車時代に合わせて橋の幅を広げている。このような形でも残してくれるのはありがたいことだ。

写真  4  八 千 代 橋  神ノ下  大正 6年頃(1917)
第 23 番  八 千 代 橋  千々石町 橘神社より千々石川の下流に架かる
大正6年    長さ22.0m  幅員 5.4m
付近は河川公園で「橋の歴史」が見られます。
下流側には、補強工事が右下のようにされてある。橋の景観を守るため補修のしかたに工夫が見られる。
左下の写真は八千代橋の上流の風景、増水した時は完全に水没する「河磯橋」と、その奥には橘神社にいたる「軍神橋」が見える。軍神橋は近代的なコンクリート橋。
八千代橋下流の飛び石。飛び石からコンクリート橋までが短い区間に並んでいる。

写真  7  大 門 橋  小 倉  明治30年頃(1897)
第 15 番  大 門 橋    千々石町 橘神社より千々石川の上流に架かる
明治30年   長さ14.3m  幅員 4.0m
上流の風景もいいですよ。行ってみませんか?
車止めがついた。下流側に新しい橋が出来たために、大門橋は車両通行止め。橋の寿命は随分延びるだろう。

写真 10  水 道 橋  飯 岳  大正7年?
第 30 番  水 道 橋    千々石町飯岳
大正7年   長さ 7.3m  幅員 2.5m
ダムからの発電用水路の水道橋。飯岳橋の下流のダムの点検通路を通って水道橋まで行けるが、立ち入り禁止になっている。
千々石町の総務課の方から存在を伺った。枠石もしっかりしている。長崎県内では、私の知る限り唯一の水道橋。発電所の存在は判っていたから、水道橋の名前さえ判っていれば、もっと早く出会えたのにと思う。
要石の上の平石が気になる。押さえ石か排水口か?

写真 11  白 新 田 橋  白新田  明治31年頃(1898)
第 16 番 白 新 田 橋  千々石町 木場入口手前から入って千々石川の上流を目指すと判りよい。
明治31年   長さ13.9m  幅員 3.3m
もう無くなってしまったと思っていた。
普通に通る分には、石橋を忘れてしまう。石橋の上に架かる新橋は、石橋に負荷を掛けない構造になっているようだ。

写真 13  水 電 橋   岳   大正 4年 (1915)
第 17 番  水電橋(水力発電からの命名だろう)千々石町 棚田の岳の集落に入って羽山橋のバス停手前
大正4年5月  長さ11.0m  幅員 2.6m
黄色い柵は発電所まで続く。
補強工事をしている。枠石が崩れなければめったなことではアーチ橋は破損しない。このような補強は、素人目にも有効に思える。標柱もちゃんと立っていた。

幸仏橋  諌早市多良見町野川内

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

幸 仏 橋  諌早市多良見町野川内

諌早市多良見町野川内に、小さいが珍しい石橋がある。長与から行くと松ノ頭トンネルを越え、伊木力へ下る県道33号線の中間ほどに「幸仏」(こうぶつ)というバス停がある。その下の谷間の川に架かる。
ここにコンクリート橋が2つある。小さな方の橋の欄干のすぐ下流側の下に並んで、写真のとおりアーチの石組みのみ残す古い石橋。この道は往時、大村から伊木力へ船で渡った大村殿様の「長崎往還道」道筋のようである。

多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊771頁による説明は次のとおり。
4 幸 仏 橋
町内に残る唯一の石造りアーチ橋である。橋造り職人の作とは思われない。割石を組んだだけの素朴な橋である。

なお、HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

第 149 番  幸 仏 橋    西彼杵郡多良見町野川内郷
年代は不詳(江戸時代と言われる)  長さ 約3.5m  幅員 約1.3m
大村藩の殿様道(長崎往還)に架かっていた橋だといわれる。
橋のすぐ上にお住まいの、前川さん(68歳)にうかがうと、この橋は往還であり、琴ノ尾岳の烽火台に、向かう大切な橋だそうで、前川さんの祖父の時代にはすでにあったそうだ。
大村のお殿様は、諫早領を通るのを嫌い、大村湾を渡って伊木力船津の海岸から、この橋を渡り長与・川平経由で長崎に赴いたと言われる。
〜県の河川課川内係長の情報で多良見町社会教育課の荒木氏から教えていただいた。