千々石町に残るアーチ石橋 (2) 上流部  雲仙市千々石町

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千々石町に残るアーチ石橋 (2)上流部  雲仙市千々石町

雲仙市千々石町の千々石海水浴場にそそぐ川は、雲仙地獄盆地に発する延長12kmの島原半島第1の長さ2級河川の千々石川を本流とし、清水川・飯岳川・上峯川などを集めている。
石橋群が残っているから、下流部から上流部まで見てまわった。千々石町「千々石郷土誌」平成10年刊の1216〜1218頁に資料と地図があった。HPでは「長崎県の石橋を訪ねて」が地域別に詳しい。

郷土誌の記録当時から年月が経ち、大中橋は平成10年3月、古松橋は平成18年4月に橋が架け変えられ、石橋は解体されていた。道路拡幅のとき残すのがむつかしいようだ。現在、残っているアーチ石橋は次のとおり6橋。
上段は「千々石郷土誌」の記録。下段はHP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明。

写真  1  万 松 橋  下塩浜  明治末期
第 14 番  萬松橋(塩浜橋) 千々石町 下峯川に架かる
江戸時代末期   長さ 6.5m  幅員 5.2m(1/4程度はコンクリートの継ぎ足し)
千々石町では石造アーチ橋を壊さずに補強したり打ち増ししたりして残してくれている。石橋好きには嬉しい。
車時代に合わせて橋の幅を広げている。このような形でも残してくれるのはありがたいことだ。

写真  4  八 千 代 橋  神ノ下  大正 6年頃(1917)
第 23 番  八 千 代 橋  千々石町 橘神社より千々石川の下流に架かる
大正6年    長さ22.0m  幅員 5.4m
付近は河川公園で「橋の歴史」が見られます。
下流側には、補強工事が右下のようにされてある。橋の景観を守るため補修のしかたに工夫が見られる。
左下の写真は八千代橋の上流の風景、増水した時は完全に水没する「河磯橋」と、その奥には橘神社にいたる「軍神橋」が見える。軍神橋は近代的なコンクリート橋。
八千代橋下流の飛び石。飛び石からコンクリート橋までが短い区間に並んでいる。

写真  7  大 門 橋  小 倉  明治30年頃(1897)
第 15 番  大 門 橋    千々石町 橘神社より千々石川の上流に架かる
明治30年   長さ14.3m  幅員 4.0m
上流の風景もいいですよ。行ってみませんか?
車止めがついた。下流側に新しい橋が出来たために、大門橋は車両通行止め。橋の寿命は随分延びるだろう。

写真 10  水 道 橋  飯 岳  大正7年?
第 30 番  水 道 橋    千々石町飯岳
大正7年   長さ 7.3m  幅員 2.5m
ダムからの発電用水路の水道橋。飯岳橋の下流のダムの点検通路を通って水道橋まで行けるが、立ち入り禁止になっている。
千々石町の総務課の方から存在を伺った。枠石もしっかりしている。長崎県内では、私の知る限り唯一の水道橋。発電所の存在は判っていたから、水道橋の名前さえ判っていれば、もっと早く出会えたのにと思う。
要石の上の平石が気になる。押さえ石か排水口か?

写真 11  白 新 田 橋  白新田  明治31年頃(1898)
第 16 番 白 新 田 橋  千々石町 木場入口手前から入って千々石川の上流を目指すと判りよい。
明治31年   長さ13.9m  幅員 3.3m
もう無くなってしまったと思っていた。
普通に通る分には、石橋を忘れてしまう。石橋の上に架かる新橋は、石橋に負荷を掛けない構造になっているようだ。

写真 13  水 電 橋   岳   大正 4年 (1915)
第 17 番  水電橋(水力発電からの命名だろう)千々石町 棚田の岳の集落に入って羽山橋のバス停手前
大正4年5月  長さ11.0m  幅員 2.6m
黄色い柵は発電所まで続く。
補強工事をしている。枠石が崩れなければめったなことではアーチ橋は破損しない。このような補強は、素人目にも有効に思える。標柱もちゃんと立っていた。