深澤儀太夫が築いた三井木場堤、鹿ノ丸堤、中堤、蕪堤 東彼杵町千綿の四つ池
サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
国道34号東彼杵町平似田郷に千綿渓「いこいの広場」への案内板があり、これを上がると途中で見られる。私は大野原から訪ね、野岳の堤へ行った。
三井木場堤 みいこば
(東彼杵)東彼杵町 千綿高原の四ツ池 溜池 堤長約180m 明暦元(1655) 町教委/WEB 堰堤改修 初代・深澤儀太夫(捕鯨で富を築いた)の献金により築かれた溜池 2 C
鹿ノ丸堤 かのまる
(東彼杵)東彼杵町 千綿高原の四ツ池 溜池 堤長約100m 元禄年間(1688-1704) 町教委/WEB 堰堤改修 二代・深澤勝幸(同上)の献金により築かれた溜池群 2 C
中堤 なか
(東彼杵)東彼杵町 千綿高原の四ツ池 溜池 堤長約160m 元禄年間(1688-1704) 町教委/WEB 堰堤大改修 二代・深澤勝幸(同上)の献金により築かれた溜池群 3 C
蕪堤 かぶら
(東彼杵)東彼杵町 千綿高原の四ツ池 溜池 堤長約110m 元禄年間(1688-1704) 町教委/WEB 堰堤大改修 二代・深澤勝幸(同上)の献金により築かれた溜池群 3 C
深澤儀太夫と新田開発 (現地説明板)
初代儀太夫勝清は、北方町芦原に生まれ、浅井姓を名乗ったが、波佐見に来て中尾姓となった。30余歳のころ全国武者修行の途中、紀州(和歌山県)太地浦で捕鯨の方法を学び、大村に来て鯨組を組織した。勝清は五島方面での捕鯨によって巨万の富を得た。当時の大村藩主純長は、勝清の献金によって新田開発等の大事業を達成できた。平似田郷の三井木場堤はその一つである。
寛永3年(1663)跡を継いだ二代儀太夫勝幸も網取り捕鯨で成功した。彼は巨万の富を新田団地に投じ、蕪堤、中堤、鹿ノ丸堤を築き、蕪郷、中岳郷で水田を開発した。
勝幸の次男儀平次重昌は栃浦(崎戸町)で捕鯨業に従事し、1ツ石郷で網打、大田代堤を築いた。
こうして千綿の新田開発、彼杵の捕鯨と東彼杵町の基礎づくりに代々貢献した。
三井木場堤 25.0ha (写真 4〜 6)
中堤 13.9ha (写真10〜12)
鹿ノ丸堤 19.9ha (写真 7〜 9)
新堤 3.1ha
蕪堤(かぶら) 18.0ha (写真13〜15)
春木堤 1.8ha
綿打堤 6.8ha
(間接) 17.2ha
大田代堤 12.0ha
袖山堤 2.5ha