九州(福 岡 県)」カテゴリーアーカイブ

山本町豊田の郡境石  久留米市山本町豊田 ( 福岡県 )

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山本町豊田の郡境石  久留米市山本町豊田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道210号田主丸の東、日野曽根交差点から南へ県道151号に出る。西へ戻るとグリーンヒルB棟角に郡境石はある。所在図のとおり。

山本町豊田の郡境石 やまもと、とよだ
久留米市 県道151号沿い 境界石 高195㎝,22.5㎝角 元禄8(1695) 市有形民俗 市教委/WEB(筑前国境石散歩) 原位置? (正面)「東 山本郡/西 御井郡、分界」/山本郡〜御井郡/17世紀の郡境石 1 A

現地説明板は、はっきり写せない。HP「久留米市の文化財」による説明は、次のとおり。裏面に「元禄八年
(1695)次乙亥十一月日建焉」文字が刻み込まれていますとあるが、確認忘れ。調整画像で見るが、判読不明。
後の記事とする巨瀬川堤防上の同じ郡境石では、年号刻字がはっきりわかる。

47 山本郡・御井郡郡界標

種 別:有形民俗文化財(昭和49年4月25日 市指定)
所在地:久留米市山本町豊田1-1
アクセス:西鉄バス「放光寺」下車徒歩5分

江戸時代、久留米藩は参府街道とともに豊後国や肥前国へ通じる街道を整備しました。そのなかで天領のある日田へ通じる街道として、耳納山地の北麓を通り草野を経る山辺道と、筑後川沿いを通り田主丸を経る中道などを整備しました。久留米から豊後国までには4郡(御井郡・山本郡・竹野郡・生葉郡)を通り抜けますが、街道筋の郡界にはそれぞれ境界標が建てられたようです。
この郡界標は、山辺道の山本郡と御井郡の境に建てられたものです。標石は、22.5cm方、地表高195cmの方柱で、表面に(道路に面する)「東山本郡・西御井郡分界」、裏面に「元禄八年(1695)次乙亥十一月日建焉」の文字が刻み込まれています。また同じ「山本郡・御井郡」の郡界標が中道で太郎原町と善導寺町の境である、津遊川付近にもあったようです。その他に「山本郡・竹野郡」郡界標が大橋町合楽に、さらに藤山町から広川町を経る街道にも「御井郡・上妻郡」郡界標が見られます。郡界標は、本来木製であったようですが、『米府年表』に元禄10年、切石に取り替えた記事があります。

大堰神社恵比須のエノキ  大刀洗町冨多 ( 福岡県 )

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大堰神社恵比須のエノキ  大刀洗町冨多

現地説明板は、次のとおり。大刀洗町役場前の県道14号を直進して東へ行く。カーブするところにすぐ恵比須があり、大堰神社の参道口手前となる。

私たちの町の象徴植物  エノキ[榎]
大堰神社の榎は、ニレ科の落葉高木で樹齢数百年と言われています。昭和初期から恵比須様の御神木として親しまれて来ました。
昭和60年の町制施行30周年を記念して、町の木に指定しました。私たちの町の”緑のシンボル”として大切に保護し、育成に努めましょう。
昭和62年3月   福岡県・大刀洗町

床島堰用水路江戸前水道  大刀洗町冨多 大堰公園 ( 福岡県 )

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床島堰用水路江戸前水道  大刀洗町冨多 大堰公園

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。大刀洗町役場前の県道14号を直進して東へ行く。カーブするところにすぐ大堰神社があり、その下に大堰公園があって、小石原川の江戸前橋へ出る。大堰神社の直下を用水路は通っている。

床島堰用水路江戸前水道 とこじま
(三井)大刀洗町 大堰公園、筑後川 石組水路 正徳2(1712) WEB/町教委 「享保十二年」銘の石材が南水道に残る/北水道は僅かに保存 普請総裁:草野又六/筑後川の水を引き、南北の二水道に分け、水配分を自在にコントロールした 4 B 筑前・筑後兼用の国境

大堰公園内の現地説明板は、次のとおり。

床島堰用水路江戸前水道    (南北水路)
所在地  三井郡大刀洗町大字富多
床島堰は正徳2(1712)年に難工事の末、完成したが、関連施設で現在当時の面影を残すものは多くない。その中で昔をしのぶものができるものとして水門に使われていた「享保十二年」銘の石材が南水道に残っている。
筑後川の水は恵利堰から床島用水を経て、江戸前に至り大堰神社の地点で大きく二分されていた。水路は小石原川を潜り、南北の二水道にわかれ、南北水門を経て各支線へと分岐された。南水道の水門を開けば、深々と真っ青の水が力強く大城・金島方面に流れていた。北水道の水門を開くと勢いのよい水が白波をたてて中川を経て北野・味坂方面にはしり、各々多数の支線によって各村にいきわたっていた。水門を閉じると水路の水はことごとく小石原川に落ち込み、その運用は誠に自由自在であった。
現在、改修工事によって以前の南北水道は南の一水路にまとめられ、往時の姿は失われた。その中で、わずかに保存された北水道に当時の面影を残すのみとなった。
平成11年   大刀洗町

同文は、HP「たちあらい れきしびじょん ーまちの文化財ー」にあるので参照。
http://www.town.tachiarai.fukuoka.jp/imgkiji/pub/detail.asp?c_id=75&id=16&pg=1&m_id=&mst=0&wd=

本郷の国境石  大刀洗町本郷 ( 福岡県 )

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本郷の国境石  大刀洗町本郷

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道322号が朝倉市との市境に入る大刀洗町本郷の陣内交差点角にある。上部にナンバー「十六」と刻む。

本郷の国境石 ほんごう
(三井)大刀洗町 <秋月街道> 境界石 高101㎝,幅22㎝,厚18.5㎝ 寛政8(1796)? WEB(みさき道人) 移設 (正面)「従是西北 筑前國」、(裏面)「従是南 筑後國」、(天端)「十六」/筑前〜筑後/1つの境界石の両面に相対する国名が刻まれているのは稀(文字は別々に彫った) 2 C

冨多の郡境石(御井・御原郡境石)など  大刀洗町 太刀洗町中央公民館 ( 福岡県 )

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冨多の郡境石(御井・御原郡境石)など  大刀洗町 太刀洗町中央公民館

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道14号などで大刀洗町の中心へ行く。西鉄大堰駅近く。大刀洗町役場の左隣りが大刀洗町中央公民館である。
前庭に展示されている3本のうち、中央が郡境石(写真は、正面が6枚目,裏面が7枚目)。右、左は国境石。

冨多の郡境石(御井・御原郡境石) とみた
(三井)大刀洗町 太刀洗中央公民館 境界石 高147㎝,幅21.5㎝,厚20.5㎝ 天保9(1838) WEB(筑前国境石散歩) 移設 (正面)「従是、南 御井郡/北 御原郡境」/御井郡〜御原郡 3 C

現地説明板は、次のとおり。

大刀洗町に残る境石

大刀洗町はむかしの国でいう筑後国で筑前国との境界にあり、郡でいう御原郡で筑前国の馬田郡や下座郡、筑後国の御井郡や生葉郡との境にあります。国と国の境は、江戸時代では藩の境でもあり、特に筑後・筑前の境にあたる稲数付近は領地や水などを巡っての争いが絶えず、争いをなくすため国境石が数多く建立されました。
稲数付近に多く残る境石は幅22㎝、厚さ16㎝、高さ1.3m前後の断面が長方形に整形された石材で、一面に「従是○○筑後國」、対面に「従是○○筑前國」と刻まれています。また、境石が失われたり、位置が不明になったときの目印のための「控石」もいくつか建てられており、現在二箇所で見ることができます。幅・厚さ30㎝、高さ1m以上の断面が正方形に整形されています。

ここ、大刀洗町中央公民館の前には、ほ場整備の際、稲数で掘り出された2本の国境石と冨多で掘り出された1本の郡境石があります
向かって右側の境石の一面には 「従是南筑後國」、対面には「従是北筑前國」と刻まれています。
左側の境石には一面に「従是西北筑後國」、対面には「従是東筑前國」と刻まれています。
中央は郡境石で一面に 「従是 南御井郡 北御原郡 境」、対面に「天保九年戌戌歳 七月吉日」 と刻まれています。形状・規模も国境石とは異なっています。
これらの境石は、郷土の歴史を知るうえで貴重な資料です。
平成14年3月    大刀洗町教育委員会

同文は、HP「たちあらい れきしびじょん —まちの文化財—」にあるので参照。
http://www.town.tachiarai.fukuoka.jp/imgkiji/pub/detail.asp?c_id=75&id=18&pg=1&m_id=&mst=0&wd=

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり変更・登載された。

冨多の郡境石(御井・御原郡境石) とみた
(三井)大刀洗町 太刀洗町中央公民館 境界石 高147㎝,幅21.5㎝,厚20.5㎝ 天保9(1838) WEB(筑前国境石散歩) 掘り出されたものを移設 (正面)「従是、南 御井郡/北 御原郡、境」/御井郡〜御原郡 2 C

元・稲数の国境石1 いなかず
(三井)大刀洗町 太刀洗町中央公民館 境界石 江戸期 WEB(みさき道人) 掘り出されたものを移設 (正面)「従是東 筑前國」、(裏面)「従是西北 筑後國」/筑前〜筑後/天端に数字がないので、上記「本郷の国境石」と建立年代が異なる可能性あり 2 C

元・稲数の国境石2 いなかず
(三井)大刀洗町 太刀洗町中央公民館 境界石 江戸期 WEB(みさき道人) 掘り出されたものを移設 (正面)「従是北 筑前國」、(裏面)「従是南 筑後國」/筑前〜筑後/同上 2 C

五穀神社の石橋  久留米市通外町 ( 福岡県 )

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五穀神社の石橋  久留米市通外町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。西鉄久留米駅から国道322号を行く。次がすぐ五穀神社前バス停である。

№1,975  五穀神社の石橋

福岡県久留米市通外町58-1
市指定文化財
橋長:10.5m  橋幅:3.2m
6径間桁橋
架設:文化3(1806)年

「寛延2年(1749)、久留米藩7代有馬頼撞によって創建された五穀神社の池にかけられた石造反橋である。
この神社は藩営に近いものであり、神社神殿を大庄屋中、拝殿は総郡中から寄進を命じている。この例にもれず、この石橋も文化3年(1806)に総郡中からの寄進によるものである。
長野石(八女市長野で切り出される阿蘇凝灰岩)が使用され、同所の石工たちによって築かれ、筑後地方の石橋架橋技術を示し、貴重である。」
五穀神社は最盛期、神殿と神宮寺円通寺ほか阿弥陀堂・地蔵堂・観音堂などの諸堂があった。明治2年(869)に神仏分離により円通寺が廃寺になり、五穀神社のみになっており、盛時を復元するのに貴重な建造物である。」
久留米市教育委員会

長門石八幡神社参道橋  久留米市長門石5丁目 ( 福岡県 )

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長門石八幡神社参道橋  久留米市長門石5丁目

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。筑後川の長門石橋を渡り県道145号に入る。長門石バス停手前から右折すると八幡神社がある。

№5,038  長門石八幡神社参道橋

久留米市長門石5丁目
橋長:4.6m  橋幅:2.4m
2径間円弧桁橋
架設 昭和3年

庚申板碑  久留米市長門石5丁目 ( 福岡県 )

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庚申板碑  久留米市長門石5丁目

HP「久留米市の文化財」による説明は、次のとおり。筑後川の長門石橋を渡って県道145号に入る。長門石バス停手前から右折すると八幡神社がある。碇石は本殿横にある。

78-1 庚申板碑
種 別:有形民俗文化財 (昭和59年6月29日 市指定)
所在地:久留米市長門石5丁目1-13 八幡神社・天満宮
アクセス:西鉄バス「長門石」下車徒歩3分

庚申信仰は、60日に一回めぐってくる庚申の夜、三尸虫(さんしのむし)が人の体から抜け出して、その人の罪を天帝に告げるのを防ぐため、人々が集まり徹夜で雑談する風習にあるといわれています。この風習に基づいて作られたのがこの庚申塔です。
高さ73cm、幅75cmで、全体的に丸みをおびた自然石で、碑面中央に種子と「奉信念庚申待三十五年」、その右に「寛永十一年甲戌十一月吉日執行次郎衛門尉敬白」とあります。なお、「右意趣者子孫繁栄家内福貴村中安全祈願成就如意満足之所」からなる趣旨文が刻まれ、当時の庚申信仰の内容を知る上に貴重なものです。
寛永11年(1634)建立は県下でも最古の遺物であり、「三十五年」は当時から35年前の慶長4年(1599)には「庚申待ち」行事が行われたことを示すものです。

長門石町の碇石  久留米市長門石5丁目 ( 福岡県 )

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長門石町の碇石  久留米市長門石5丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。筑後川の長門石橋を渡って県道145号に入る。長門石バス停手前から右折すると八幡神社がある。碇石は本殿真裏にある。

長門石町の碇石 ながといし
久留米市 (本村区)八幡宮 碇石(花崗岩) 長128㎝ 中世〜近世 市有形民俗 WEB 立てて屋外展示 町名の由来になったという伝承のある石/①平家が長門から逃れてきた船の碇だとする説、②長門からの国の船をつなぐ舫石(碇石の転用)だったとする説などがある/県内に多い蒙古碇石とは無関係 3 C

HP「久留米市の文化財」による説明は、次のとおり。

78-2 碇 石

種 別:有形民俗文化財(昭和62年2月21日 市指定)
所在地:久留米市長門石5丁目1-13 八幡神社・天満宮
アクセス:西鉄バス「長門石」下車徒歩3分

碇石は、長門石の八幡神社に土中に突き立てられた形で建っています。赤御影(花崗岩)で造られていて、全体の四分の一程が欠けています。
碇石とは、角柱形の石材を碇として使用したもので、平安時代に来航した中国北宗時代の商船や日本の遣唐使船、鎌倉時代の蒙古来襲の軍船など色々な時代の様々な船に使われました。
蒙古碇石は、西日本一帯に40数カ所発見されています。その中心は博多湾沿岸で、西は平戸・五島、東は山口県萩で確認されています。もし、この碇石が蒙古来襲時の軍船のものとすれば、最も内陸部で南にある碇石ということになります。
またその一方で、地元の伝承や記録にある長門国(山口県)の船との関連や長門石地域は筑後川がつくった洲であることから、有明海交通の面から考えることもできます。

目安町一里塚  久留米市安武町安武本 ( 福岡県 )

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目安町一里塚  久留米市安武町安武本

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道23号安武小学校前の約
600m北東に目安町交差点があり、一里塚はこの角にある。一里塚公園となっている。

目安町一里塚 めやす
久留米市 <柳川街道> 一里塚(1基) 元禄以前 市史跡 市教委 榎の巨木(高13m)が残る→オリジナル/明確な塚がない 3 A

HP「久留米市の文化財」による説明は、次のとおり。

85 目安町の一里塚

種 別:史跡天然記念物(昭和49年4月25日 市指定)
所在地:久留米市安武町安武本3104-1
アクセス:西鉄バス「目安町」下車徒歩1分

一里塚の起源については、明らかではありませんが、豊臣秀吉の頃に36町を1里として、1里ごとに塚を築いていたようです。その後江戸時代になり、国内統一とともに道路網の整備が進み、街道に約5間(9m)四方の小山状の一里塚が築かれました。一里塚は、塚上に1本または数本の木が植えられ、旅人にとっては旅程の目安として、また木陰が休憩の場として貴重なものでありました。
目安町の一里塚は、築造の時期は不明ですが、元禄年間(1688〜1704)の「久留米藩領図」には久留米と柳川を結ぶ往還に描かれていることから、それ以前にはあったと思われます。久留米札ノ辻(今の通町、市役所東交差点付近)からちょうど1里となります。古くは、この西側の榎の塚とともに、東側にも松が植えられた塚がありましたが、道路の拡幅により壊されたようです。
久留米市内には、その他に各所に一里塚がありましたが、現在は残っていません。