九州(熊 本 県)」カテゴリーアーカイブ

阿蘇南外輪の清水峠越え  南阿蘇村

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阿蘇南外輪の清水峠越え  南阿蘇村

清水峠(きよみずとうげ)916mは、熊本県山都町郷野原と南阿蘇村久石の間にある県道319号仏原高森線の峠である。山都町(旧矢部町)へ出るため、阿蘇南外輪のこの清水峠越えをした。
清水峠へ着くまでヘアピンカーブが続くが、南郷谷の眺めが良い。

熊本県のアーチ式石橋  円林寺橋  南阿蘇村吉田

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熊本県のアーチ式石橋  円林寺橋  南阿蘇村吉田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№675  円林寺橋

阿蘇郡南阿蘇村(旧白水村) 吉田
橋長:8m  橋幅:2.7m  環厚:40cm
輪石:15列
南側の国道325号線旧白水村役場から100m西、標示板から南へ明神池公園あり

旧明神橋
「この石橋(旧明神橋)は白水村役場の東側を流れる明神川に架かっていました。この橋は河川改修のため、約10年前に解体されることになりましたが、貴重な石橋ですから将来移築して復原するために石材を保存することにしました。
もと通りに復原できるように、石橋のすべての石に番号をつけ解体しました。
今回組みあげる時にはその番号や写真をもとに、石の配置も昔のように復原しました。
明神池公園を整備するにあたり、明神池の清らかな水をまたぐ石橋とそて復原しましたが、石橋復原にあわせて子供達が自由に水遊びできる場所として子供池を整備しました。」
白水村

明神池水路橋

阿蘇郡南阿蘇村(旧白水村) 吉田
コンクリート製
南側の国道325号線旧白水村役場から100m西、標示板から南へ明神池公園あり

明神池水源  南阿蘇村大字吉田新町

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明神池水源  南阿蘇村大字吉田新町

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。

明神池水源(みょうじんいけすいげん) 南阿蘇村

所在地 阿蘇郡南阿蘇村大字吉田新町
解説 南阿蘇村(旧白水村)の水源を探検しよう

Q:湧水があるわけは?
山の中腹に降った雨は地下にしみこみ、水を通さない岩盤などの層の上を流れていきます。明神池水源の場合、水を通さない層がどのようなものか不明ですが、地下の岩盤にそって流れる水は未固結の地層のとぎれた場所から地表に現れることになります。

○明神池名水公園
明神池水源は、旧白水村のほぼ中央に位置する湧水地で、現在、広さ752平方メートルの池となっています。湧き水は池のいたるところから吹き出しています。この明神池は、もともと約5070平方メートルもある広い沼沢湖だったのですが、昭和28年の大水害や、その後の公園整備で埋められ、現在の姿となっています。以前の明神池は水を満々とたたえ、遠くに見える南外輪が借景となり、景勝の地として知られていました。ここの湧水は飲むと子宝に恵まれるといわれ「誕生水」と呼ばれています。湧水量は毎分2トンといわれています。

湧水池を望む丘の上には群塚神社があります。この神社の祀神は阿蘇の健磐龍尊をはじめ十二神とされる阿蘇の神様ではなく天津神系の神様です。これは阿蘇地方では珍しいとされています。また公園内には明治10年、西郷隆盛を指導者として明治政府と戦った西南戦争の際に、西郷軍と戦闘した旧会津藩家老・佐川官兵衛を紹介した資料館があります。官兵衛はこの新町に寄留したといわれています。

湧水のミネラルデータは、pHが7.5、ナトリウム10.7mg/l、カリウム6.27mg/l、カルシウム27.7mg/l、マグネシウム7.62mg/lです。

参考文献
田中伸廣 『自然と文化阿蘇選書8 阿蘇山と水』 一の宮町 2000

地蔵峠  南阿蘇村

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地蔵峠  南阿蘇村

熊本県観光サイト なごみ紀行による説明は、次のとおり。
グリーンロード南阿蘇の駐車場から、約200m登ると地蔵峠へ着く。阿蘇五岳や九重の山々の眺めがよい峠だか、あいにくの霧だった。グリーンロードを阿蘇白川の方へ下って行くと、途中に羅漢山が良く見えるところがあった。

地蔵峠

所在地 阿蘇郡南阿蘇村
阿蘇郡南阿蘇村と西原村の村境、南阿蘇外輪縦走路の俵山・冠ヶ岳と大矢野岳の間にあり、峠に3体の地蔵尊像が祭られています。秋になると風に揺れる黄金色のススキの穂が見事で、山々も紅葉で色づきます。グリーンロード南阿蘇から上ってすぐのところにあり、ここから駒返り峠付近までブナの原生林などが続く南阿蘇の代表的トレッキングコースです。紅葉時期は10月下旬〜11月中旬です。

羅漢山の奇岩  南阿蘇村河陰

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羅漢山の奇岩  南阿蘇村河陰

熊本県HPの地域発 ふるさとの自然と文化による説明は、次のとおり。伝説の「恐ヶ渕」が近くにある。
羅漢山の頂上付近に、凝灰角礫岩の自然石橋を見ることができるが、確認には行かなかった。羅漢山の麓から地蔵峠方面へ上がる狭いコンクリート舗装の車道があるが、長くて難路。通行は勧められない。

羅漢山の奇岩(らかんざんのきがん)

所在地 阿蘇郡南阿蘇村大字河陰
解説 中国の山水画を思わせるような久木野の奇岩

○旧久木野村の風土
旧久木野村は、阿蘇カルデラ南郷谷の一部を占め、東西に長く、南北に狭い形をしています。起伏に富み、急峻に見える南外輪山は、その向こう側に住む人々を寄せ付けないかの観を呈していますが、かつては多くの峠道が開かれていました。

○羅漢山の奇岩
久木野中学校の西部に位置する羅漢山では、先阿蘇火山岩類の中の輝石安山岩質凝灰角礫岩を見ることができます。このあたりの外輪山は先阿蘇火山岩類が侵食されて火山体の内部が露出し、中国の山水画を思わせるような特異な地形を作っています。

○凝灰角礫岩とは
火山の噴火が起こると、高温の火山ガスと共に火山灰や火山レキ、火山弾などの噴出物がすごい勢いで飛び出してきます。飛び出した噴出物は、火口の周辺に厚く降り積もっていきます。このようにして降り積もったもの(堆積物)が固まって岩石となっていきます。このとき、堆積したものが火山灰ならば凝灰岩といいます。ほとんどが火山レキからなる場合を火山角レキ岩といいます。火山灰と火山レキなどが混じっている場合にレキの量が多いものを凝灰角礫岩といいます。
また、羅漢山で見られる輝石安山岩とは、どういう岩石でしょうか。地表や地表付近でマグマが固まって出来た岩石を火山岩といいます。火山岩のうち、中間色(灰色)をしたものを安山岩といいます。この安山岩に特徴的に輝石の結晶を含むものを輝石安山岩と呼んでいます。

○なぜ、この特異な形に?
南郷谷側の外輪山は、古い火山が作るカルデラ外側(南側)の斜面が切り立っていて、流れやすい火砕流はとどまることができず、古い火山の稜線が埋め立てられずに残ってしまいます。この稜線は、火砕流に覆われることなく、浸食を受け続けているので、ギザギザした形をしています。
羅漢山の頂上付近には、凝灰角礫岩の石橋も見ることができます。

参考文献
藤崎清一著 久木野村誌編纂委員会編 『久木野村誌第一巻』 久木野村教育委員会発行 1985
久木野村誌編纂委員会 『久木野村誌第二巻』 久木野村教育委員会 1990
松本ゆき夫・松本幡郎 『阿蘇火山』 東海大学出版会 1981
日本地質学会第99年学術大会見学案内書 1992
渡辺一徳 『自然と文化阿蘇選書 阿蘇火山の生い立ち』 一の宮町 2001

地獄温泉  南阿蘇村河陽

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地獄温泉  南阿蘇村河陽

十六羅漢窟まで行って日没。この日は地獄温泉で泊まった。羅漢山へは明日再び出かける。ウィキペディアフリー百科事典による地獄温泉の説明は、次のとおり。
滝は地獄温泉の手前、垂玉温泉山口旅館の源泉「金龍山」より流れ落ちる「金龍の滝」。

地獄温泉

地獄温泉(じごくおんせん)は、熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽(旧長陽村)(旧国肥後国)にある温泉。温泉名の由来は温泉の裏山に火山ガス噴出による草木の生えていない場所(いわゆる地獄地帯)が存在することによる。

アクセス 鉄道:南阿蘇鉄道高森線長陽駅よりタクシー約15分。
泉質 単純硫黄泉(硫化水素型硫黄泉)

温泉街
「清風荘」1軒のみからなる。隣の垂玉温泉山口旅館もさほど離れていない場所に立地しているが、源泉が異なるため別の温泉として扱われている。宿は山の中に散在しているために、温泉街と言えるものではない。以前は国民宿舎「南阿蘇」も存在したが、2008年2月末に閉館した。

歴史
江戸時代は熊本細川藩の藩士しか入浴が許されていなかったという格式を誇る。また、入浴が許された藩士も帯刀を義務付けられるなど、数々の掟があった。清風荘の本館(旧館)玄関には当時の掟書が展示されている。

湯治場
明治以降、一般庶民に開放された地獄温泉は、庶民の湯治場として発展する。現在でも清風荘には、一般旅館部とは別に安価で素泊まり宿泊できる自炊設備を完備した簡素な部屋が存在する。近年までは旅館敷地内に湯治客のための食品や日用品を販売する売店が営業を続けていたが、経営者の高齢化により廃業してしまい、自動販売機コーナーになってしまった。また、テレビ等で紹介されたこともあり、一般観光客が増加して一般客室を増やすために、湯治客用の部屋は減っている。そのため以前の秘湯の雰囲気は後退している。

十六羅漢窟  南阿蘇村河陰

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十六羅漢窟  南阿蘇村河陰

南阿蘇村HPの芸術・歴史・文化による説明は、次のとおり。久木野中学校の西南、羅漢山の山頂近くで、駐車場までもわかりにくく、十六羅漢窟までは、急斜面をかなり登らないとならない。

十六羅漢窟

所在地  熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字河陰5265-11
久木野中学校の西南、羅漢岩の中腹にある。村在住の郷土史家藤崎清一氏は、古記録から次のように推測する。「数百年前羅漢信仰が国内に広まった頃、この辺に羅漢寺が建立され、釈迦三尊に、十六羅漢がまわりに安置された。近くに久木野氏の滋水域もあって多くの信仰を集めたが、戦国の世兵火等の事変によって城も寺も滅び、仏像だけが残った」と。
宝永4年(1707)羅漢窟が野猿の遊び場となっていることに心痛めた庄屋浅尾善之丞は、有志と相談して、それまでの木仏を石仏に改めて奉納、今日にいたる。木仏釈迦如来像は御陣の江善寺に預けられている。石仏本尊を刻んだ仏師は有名な肥前の国平川与四右ヱ門信照。この近く一帯は、奇岩青松の景勝地で、鬼の目、仏が窟、獅子岩、恐ヵ淵等の名勝がある。

高森殿の杉  高森町高森

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高森殿の杉  高森町高森

HP「人里の巨木たち 全国巨樹探訪記」熊本県による説明は、次のとおり。
根子岳の東、箱石峠越えの国道265号により高森へ入った。高森峠の登り口村山交差点先に「高森殿の杉」の案内標識があるので、清栄山の方へ向かう。牧場内へ入る右手ゲート門が、殿の杉への入口。

名称 高森殿の杉 (たかもりどんのすぎ)
名称の典拠 現地の標柱(注1)
樹種 スギ
樹高 30m/30m(注2)
目通り幹囲 9.3m/5.7m(注2)
推定樹齢 400年以上(注3)
所在地の地名 熊本県阿蘇郡高森町高森
高森町指定天然記念物(1976年9月14日指定)

注1)高森町教育委員会が設置(設置年月不詳)。ただし、天然記念物指定名称は「高森殿杉」で、「の」がない
注2)環境省巨樹データベース(2000年フォローアップ調査」による
注3)熊本県公式ホームページより、「地域発 ふるさとの自然と文化」による

一部共用区間となっていた国道265号と325号は、村山集落のところで分岐する。そのあたりから、清栄山(1006m)の南を越えて、高尾野に至る道路がある。村山からその道を登って行くと、やがて牧場内に出る。控えめなスピードを保って走れば、右手の路傍に「高森殿の杉」と書かれた標柱が見つかることと思う。そこが大杉への入口である。
少し戻って、道が広くなった場所に車を駐め、金網のゲートを開けて分岐道を進む。(このようなケースでは、通り過ぎたらすぐ、またゲートを閉めるのが原則) 多分、牧場の管理用道路なのだろう。道幅は広く、歩きやすい。大杉までの距離はいくらでもない。景色を楽しみながら、緩やかな坂道を登る。

大杉は一般道と管理用道路の間、小さな谷の底に立っていた。明らかにウラスギ(アシウスギ)の仲間だ。自由奔放に伸ばした枝は、まるでメデューサの髪。一部は地に着いて、そこで発根している。素直に直立するだけの人工林のスギとは大違いだ。力強い姿に圧倒される。
ところで、近年、ここがパワースポットだということになったらしい。それまで、大杉など興味のなかった人も訪ねて来るようになった。物理学を専攻した者として、マスコミによるそのような宣伝行為を、私は客観的に捉えることが出来るつもりだが、心身の健康には精神状態が大きく作用することもまた事実だろう。ここに来て大木に触れることで、いい気持ちになることまで否定するつもりはない(現に私自身もそうだ)。それを契機に、巨木に愛着を感じるようになっていただけるなら、なお結構なことである。

しかし、残念ながら、なかには不心得者もいるようだ。樹皮を剥がぬよう訴える、手製の張り紙があった。樹皮を持ち帰って、お守りにでもするつもりなのだろうか。閑話休題。大杉の話に戻ろう。
天正14年(1586)1月23日、島津勢に敗れた高森城主伊予守惟直と家臣三森兵庫守能因が豊後に落ちようと当地まで逃れ来たが、ついに追手に囲まれ、ここで自刃した。(標柱に書かれた説明より)
高森殿の名は、そのことに関係するわけだ。怨念が籠もったようなおどろおどろしい姿の大杉に、いかにも似つかわしい話である。

金比羅スギ  南小国町満願寺 

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金比羅スギ  南小国町満願寺 

HP「全国巨樹探訪記」熊本県による説明は、次のとおり。
地蔵堂の所に「満願寺地区遊歩道」の地図があり、霊場巡りコースにより山の上の金比羅スギまで行く。登りはきつく、一周には1時間30分を要する。草刈していないときは遊きにくい。

名称 金比羅スギ (こんぴらすぎ)
名称の典拠 現地の案内板(注1)
樹種 スギ
樹高 28m(注2)
目通り幹囲 12.4m(注2)
推定樹齢 1000年(注3)
所在地の地名 熊本県阿蘇郡南小国町満願寺
国指定天然記念物(1959年7月24日指定)

注1)1991年3月に熊本県教育委員会が設置。国の天然記念物指定名称も同じ。ただし地元では「金毘羅杉」の文字をあてているようだ
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注3)上記案内板による

南小国町役場から、県道40号(南小国波野線)を南東方向に3.5kmほど進んだところに満願寺集落がある。集落の名は、文永11年(1274)、元寇を迎え撃つため、時の鎮西奉行北條時定が建立して戦勝を祈願した立護山満願寺にちなむ。また、満願寺には、海上航行の安全を祈願して、金比羅権現が祀られた。以来、満願寺の北に聳える山は、権現山と呼ばれるようになった。権現山中腹のこのスギも、周囲に知られる巨木となるに至って、金比羅杉と名付けられたのだろうと思われる。

集落のほぼ中央に、来訪者のための無料駐車場があり、そこに簡単な観光案内図が掲示されている。金比羅スギの位置も記されている。駐車場から川の対岸に渡り、県史跡の「満願寺石塔群付杉群」の前を通って山道に入る。3基の石塔は、満願寺開基の北條時定(執権北条時頼の弟)と、その弟定宗、及び嫡子随時の墓である。かつてはここも満願寺の境内だったのだ。墓の周囲に立つ大杉も史跡の一部として保護されている。

頭に入れた概略ルートと、ところどころに設置された案内表示(朽ちかけていた)を頼りに登ってゆく。途中、青龍権現社の前を通り(ここにも大杉がある)、息が切れかかる頃、金比羅スギに着く。途中休憩もせず、道を間違えなければ、下から15分くらいだろうか。目通り10mを超す体躯はさすがに大きい。が、樹勢の衰えが目立つようだ。
元禄年間(1688〜1704)の落雷で幹が裂けた。さらに昭和4年(1929)7月15日にも被雷した。このときは火災が発生、地元消防団などが消火にあたったが、鎮火までに19時間もかかったという。平成3年(1992)には、台風により、多くの元気な枝を失った。

長い時間を平穏無事のまま過ごすことは難しい。満身創痍は巨木の勲章なのかも知れない。しかし、過去の写真と比べて、ちょっと寂しい現況である。平成4年(1992)には腐食防止措置などもとられ、樹勢回復が期待されていたのだが。