烽火山のかま跡・番所道・南畝石」カテゴリーアーカイブ

新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」による記録はどんなものか

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新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」による記録はどんなものか

長崎史談会「長崎談叢 第九十輯」平成14年5月発行57〜79頁所収の新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」は、次のとおり。

玉林晴朗著『蜀山人の研究』
…玉林著の長崎関係の叙述は「第十四章 長崎出張と海外知識」で述べられている。そこの第五節「中村李囿と烽火山の詩」に注目してみよう。
中村李囿とは何者か。玉林の叙述によると、以下の通りである。
「長崎の人々の内で最も親しかったのは、中村作五郎であらう。この人は茂中屋と称し、長崎に於ける豪商の一人であり、朝夕岩原官舎の所用を承る者であった。李囿と号し風雅な人でもあり、特に南畝の事は何くれとなく世話をした。長崎から江戸へ帰って来て後も、屡々手紙を往復して居り、其の南畝が中村李囿へ宛た書簡は、今も長崎の同家に二十数通現存している。」
李囿中村作五郎は南畝在任当時、岩原目付屋敷御用達であった。それ故、南畝とは親しい関係にあった。何より貴重なことは、南畝帰府後の文化二年から文政元年までの十三年間に亙る南畝の李囿宛書簡が計二十六通保存されていることである。…
中村李囿宛書簡・文化八年閏二月十三日付と文化九年三月中旬頃の中では七高山詩碑のことが出ている。烽火山、七面山、金毘羅山、彦山、愛宕山などに、大田南畝の詩碑を中村李囿が建てるというのである。このうち、実現されたのは、烽火山と七面山のものであろうと推測される。そしてそれらは、今も現存している。…

大田南畝関係の石碑など
1、烽火山山頂付近の石碑
滄海春雲捲簾瀾  崎陽囂市一彈丸  西連五島東天草  烽火山頭極目看
文化二丑年  杏花園  中村李囿命工鐫焉
2、七面山への入口の石碑
披楱踰嶺踏烟雲  七面山高海色分  一自征韓傳奏捷  至今猶奉鬼将軍  大田覃
3、時津のさば腐れ石
4、蜀山人之碑
天門山斷海門開  岸上人烟擁鎮台  處々白雲飛不止  秋風一片布帆來  南畝大田覃
あらそはぬ風の柳の糸にこそ  堪忍袋ぬふべかりけれ  四方歌垣
5、蜀山人歌碑、
彦山の上から出る月はよか  こげん月はえっとなかばい  蜀山
6、南京坊の墓碑

1の石碑は『長崎市史・名勝旧跡部』五四四頁に「南畝石」として紹介されている。これが中村李囿宛書簡に記されている詩碑であろう。2はこれも李囿宛の書簡に記された詩碑のひとつであろう。現在鳴滝二丁目十四番地の川沿いの所に立っているが、以前は旧制長崎中学の上のグランドの所に立っていたそうである。石の裏面には、「石工喜助」の文字の他、二行ほどの文字の列と「文久二戌 季春」の年月が彫られているが、これは後の時代になって刻まれたものであろう。1と2はいずれも自然石に彫られたものであり、七言絶句の漢詩の文字は南畝の筆跡と推測される。
文化八年閏二月十三日付中村李囿宛書簡には次のように記されている。「七高山へ詩を御ほらせ可被下よし、何より之事と追々認メ上ゲ可申候。先出来合候烽火山、七面山上申候。…」 この時の詩碑が今に残されているわけである。
平成十四年一月十二日、私は鳴滝川沿いに七面山への道を行き、まず、2の「七面山詩碑」の前を通る。何度も来て写真に収めている石碑である。当初はまだ上の位置にあったのであろう。七面山妙光寺の境内に至る。ここから烽火山頂上へ登ろうというのである。以前、七高山巡りで、仏舎利塔の所から登ったことはあるが、七面山の方からは初めてである。道らしき道もない所を登る。所々木々に道しるべを巻き付けてくれてある。それを頼りに、広い道らしきところに来た。七高山巡りのコースである。烽火山頂上に達して、かま跡の所を見る。午後二時頃であった。その周囲に日差しが降り注いでいる。南畝が登った時代は、見晴らしがよかったのだろうが、今は木々が遮って、眺望はきかない。かま跡の所だけが広場になっているのである。頂上の外れの木々が生い茂った所に自然石が数個散らばっている。その中の大きな一つには、お神酒などが供えられている。それが南畝石であった。かま跡の日差しの所から見ると裏側に文字が彫られている。暗くてはっきり見えない。以前、竹内光美氏に連れられて、墓碑や石碑の調査をしていた時のことを思い出した。竹内氏は手鏡の反射を利用して文字を判読されていた。私は手鏡を携行していた。手鏡を取り出して、木漏れ日を利用する。ありがたいことに、反射光は碑面の文字を浮かび上がらせてくれた。「文化二丑年   杏花園 / 中村李囿命工鐫焉 」と読み取れる。『長崎市史』には記されていない文字である。しかし、肝心の七言絶句の漢詩の部分が薄れて読みづらくなっている。竹内光美氏は他の光の影響を受けない真夜中に、懐中電灯で碑面を照らすのが一番よいと言われていた。また、宮田安氏や竹内氏に碑面の写真撮影で協力されていた城田征義氏は、日時や天候によって文字が見えなくなったりすることを語られていた。金石文の採取にはひとかたならぬ苦労があるわけである。…

烽火山などの「長崎市史 地誌編」による記録はどんなものか

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烽火山などの「長崎市史 地誌編」による記録はどんなものか

著作権者長崎市役所「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」昭和13年発行 昭和42年再刊 清文堂出版による記録は、次のとおり。
烽火山図は、長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」から。大田南畝の肖像は、(谷文晁筆、『近世名家肖像図巻』/東京国立博物館蔵)から。

第三章 舊 蹟 四、国防に関する史跡 一、烽火山御番所の項   534〜545頁
烽火山十景 延宝六年時の長崎奉行牛込忠左衛門は好学の士で南部艸壽、彭城宣義、林道榮等の碩儒を延ひて廔佳筵を開き議して烽火山十景を定めた。即ち
染筆狐松  飲澗龜石  廻麓鳴瀧  積谷清風  罨畫奇巒
潮汐飛颿  漁樵交市  崎江湧月  碧峰夕照  高臺雪鑑
此の内で龜石の所在が判らない。染筆狐松は俗にフデソノマツと稱し十四五年前迄は老松鬱として存して居たが今は枯れ朽ち其處より弐丈許りの若松数株が老樹を継いで居る。而して樹下に建てられたる染筆松と書せる碑石は淋しげにその位置を守り若樹の成長を待ち顔である。(略)

現  状  烽火台廃止後既に六拾壱年、勤番廃止後百四年を経過せる事とて新旧番所跡は共に雑木林と化し去り、唯その石壁が斯る山中にしては不似合なると時に茶碗土瓶等の破片を掘り出す事ありてその旧址たる事を知ることが出来るのみである。又山頂の烽火台は其の儘旧態を存して依然たれども竈の縁邊の崩れや竈中埋没物にてその深さを滅ぜる等は流石に年月の流れ深きを思はしむるものがある。周囲の竹矢来や水溜や小屋などは元より其の遺址すら判明していない。

登攀道路  登攀路は是又昔時に比して路面著しく劣悪となつて居る。古老談 往時は三ヶ村百姓等毎年二回づゞ道路改修に当つて居たが維新後この事亦絶えし為め劣悪に向ひしは蓋し当然であらう。
烽火山に登るに数線がある。その一は旧時の正道で桜馬場よりするものである。即ち今の長崎県師範学校の東側桜馬場町七拾四番地旧二本杉の地より左折す。此処より絶頂まで約十五丁昔も今も変ることはない。一丁余にして右に鳴滝あり、県立長崎中学校寄宿舎がある。これより右武功山左城ノ越では道は其の谷間を北にシーボルト宅址や長崎中学校体操場を過ぎ 此処まで人家蜜なり 七面山妙光寺の下手に居たりて岐路に入る。此処より苔の細道次第に急に、次第に嶮に岐路より二丁許文化年度新開の道路辿るに至れば左右雑木鬱乎として嶮坂愈加ふ。番所谷と云ふのは此の邊である。登ること更に二丁許で稍平坦の地に達す。此所に、右に高サ四尺位刀の如き石が立てられ染筆松(ソメフデマツ)の三字を題す。長崎奉行牛込忠左衛門の筆である。碑の前面上手が新番所の地で長崎港を正面に見下す位置である。更に二丁余右上手に竹と雑木の繁れる一区画が旧番所址である。旧番所跡を過ぐれば市有林の原野で近時松杉等が植え付けられて居る。大荷床に近く右手路傍藪間に清泉あり。水浅けれども清冷掏すべし。如何なる旱天にも源涸れざれば遊客は元より峯通る杣も牧草刈る賤の男女も常に掏して渇を醫す。旧番所に用いた泉である。泉を過ぐる数十歩の地が大荷床で昔放火用薪が茲に積まれて居た。巡見の長崎奉行はこゝに床几を置き小憩の場とした。此処を東に下れば秋葉山南に進めば狗走で一ノ瀬に到る。大荷床より頂上まで三丁余、その長崎を正面に俯瞰する部に設けられたる九十九折なる道路は文化五年に新開したるもので迂回数節之を辿れば登攀の難苦大に和げらる。大荷床より頂上に通ぜる道は旧道で一時廃せられて居たが近時青年輩の登山者により却つて復活せられて居る。
以上記載の道程は松浦陶渓が実測せし順路で当山の大手である。
二は片淵町三丁目八番地角より又は春徳寺より城ノ越、八気山を越えて 或は三丁目御城の谷より字大久保を過ぎて 健山に到り峯伝ひに山頂に到るもので四道中眺望最も佳良であるけれども路程稍遠く而して最も嶮阻である。三は中川町高林寺の側より一ノ瀬山を峯伝ひに本河内低部貯水池を右麓に見下ろしながら進んで狗走より大荷床に達するもの、四は本河内町妙相寺より登り秋葉山を経て大荷床に到るものである。右の外に木場町より健山に或は頂上に登る途があるけれども裏道で何れも嶮阻である。

南 畝 石 文化元年九月長崎奉行肥田豊後守手附勘定役として来崎した南畝太田直次郎は翌年此の峯に昇り絶景を賞して一詩を賦した。
滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看
此の詩は後年山頂西側の巨石に鐫刻せられ今に嚴存す。此の石は何時の頃よりか當地詩客の間に南畝石と名づけられて居る。此の他人面巖 山の東に在り人の顔に似たりとて名を得たり 傴僂巖(カウコウイハ) 山の下にあり などがある。
太 田 直 次 郎
春日野にあらねと高き山の名の飛火もたつてうこきなき御世
此の詩は岳麓七面山に詣でし詩であろうが当山の風光を詠ぜしものであるから茲に掲げた。

同 第二章 名 勝  中央部  二、諏訪公園 の項     167頁
12 蜀山人天門山碑
元日桜碑の背後茶店の側にあり、此の碑は元蛍茶屋一ノ瀬橋の右側巨石の上に建てゝあつたのを何時の頃か此処に移したものである。
天門山斷海門開岸上人烟擁鎭臺處々白雲飛不止秋風一片布帆來
南 畝 太 田 覃
あらそはぬ風の柳の糸にこそ堪忍袋ぬふべかりけれ
四 方  歌 垣

同 第二章 名 勝  東 部  六、英 彦 山 の項    260〜261頁
英彦山は中秋の候名月其の頂より現はるゝ時山容豊艶相映じ形容辞すべきものがないので古来「彦山の月」と称して市民諏訪神社より坂上神社より或は西山よりその好景に憧憬し詩に歌に人口に膾炙せるもの少からず。題して眉嶽秋月と言ふ。
眉が岳の月をみて長崎の方言を綴る  四 方  赤 良
わりたちもみんな出て見ろ今夜こそ彦山やまの月はよかばい
長崎の山から出てた月はよかこんげん秋はえつとなかばい

同 第二章 名 勝  西 部  二、天 門 峯 の項    289頁
瓊 浦 秋 望           南 畝 太 田 覃
天門山斷海門開、岸上人烟擁鎭臺、處々白雲飛不止、秋風一片布帆來
此の詩は唐人錢了山なるものゝ請により和韻せしものなりと云ふ。

同 第三章 舊 蹟  経済貿易  七、唐人屋敷 の項   721〜722頁
詩 歌  唐人屋敷に関する詩歌は随分に多く四方に伝播されて居る。左に長崎名勝図絵や文人名士の見聞私記等より二三を摘録することゝする。
唐     舘           太 田 覃
天后土神關帝祠、幾番船主賽崎陽、門聯扁額多相似、疑入蘇州桂海涯

同 第五章 詩 歌                     1007頁
瓊 浦 秋 望            太 田 南 畝
天門山斷海門開、岸上人烟擁鎭臺、處々白雲飛不止、秋風一片布帆來

そのほか、次があるようだ。
故郷に飾る錦は一と年をヘルへトワンの羽織一枚    蜀山人 大田直次郎
披楱踰嶺踏烟雲 七面山高海色分 一自征韓傳奏捷 至今猶奉鬼将軍     大田  覃

烽火山のかま跡と烽火山  長崎市鳴滝3丁目・木場町

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烽火山のかま跡と烽火山  長崎市鳴滝3丁目・木場町

長崎市東部の山、烽火山(標高426.0m)山頂にある県指定史跡「烽火山のかま跡」説明板と、長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」による説明は、次のとおり。

県指定史跡「烽火山のかま跡」説明板

指定年月日 昭和43年4月23日
所在地 長崎市鳴滝町447
所有者 長崎市
この烽火台は、異国船の侵攻を近国に知らせるため寛永15年(1638)に造られ、その後文化12年(1815)改築された。この円堤の中に薪を入れて火をつけ、昼は煙、夜は火をあげて急を知らせるもので、正保4年(1647)ポルトガル軍艦2隻が来港したときに初めてここに点火された。近くに用水池や薪小屋などの遺構がある。    長崎市教育委員会

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年

165烽火山(所在地:鳴滝3丁目・木場町)          15頁
烽火山は、一名を斧山、または遠見岳とも称された。寛永15年(1638)島原の乱を平定した老中松平伊豆守信綱は、長崎港の警備を強化、野母崎町の日野山(権現山)に遠見番所を設置するとともに、この斧山にも番所と烽火台を設置した。野母の遠見番所で異船を発見すると、その合図の信号は小瀬戸から十人町、永昌寺と各遠見番所をリレーされ、長崎奉行に報告された。さらに、近隣の諸藩に応援を求める際は、烽火台から烽火を揚げたが、烽火は琴尾岳(長与町・多良見町)、烽火山(高来町)とリレーされた。番所は山頂付近にあり、烽火詰と呼ばれた遠見番が詰めた他、人夫の徴発や薪等の保管等は長崎村庄屋森田家が当たった。烽火台(県・史跡)は円形で、外壁は高さ2間、深さ3間で、杭の直径は2間4尺、その縁は石灰で塗り固められ、外壁の下部には3ヶ所の火入口があった。烽火台の周囲は矢竹来で囲まれ、内部への一般人の立入は厳しく禁止されていた。
関係史跡
49烽火山かま跡、182長崎村庄屋森田家宅跡、107観善寺、102永昌寺、159小瀬戸遠見番所跡、71長崎奉行所立山役所跡

大田南畝(蜀山人)の茂木北浦紀行 (2)  文化2年(1805)

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大田南畝(蜀山人)の茂木北浦紀行 (2)  文化2年(1805)

本ブログ前の記事「大田南畝(蜀山人)の烽火山歌碑と従者増田長蔵の墓碑銘」に続き、森岡久元氏の小説『崎陽忘じがたく—長崎の大田南畝』(1999年澪標発行)から、大田南畝(蜀山人)の茂木北浦への珍しい紀行の部分を紹介する。138〜142頁の記述は次のとおり。
もぎ歴史懇談会の参考としてほしい。

大田南畝は、長崎奉行支配勘定役として、江戸から赴任していた。茂木北浦の道筋や状景がのどかに描かれている。紀行は、文化2年(1805)4月のことである。
(2)に記す「にぎたづの浦」は、「北浦」にかけて詠じているようなおもしろい歌であろう。
写真は、現在の茂木港航空写真(左が茂木、右が北浦海岸)。茂木玉台寺上からの遠望(北浦は弁天崎左奥の入江となるが、全体は写っていない)。茂木観音崎(注連が崎)の月見台。裳着(茂木)神社の由緒と石段。

文化2年(1805)
四月五日  前の記事(1)の続き

先日は蘭館のカピタンが茂木で海中に入って遊んだと聞いたが、いまも子供らが素裸で岩場のあたりで遊んでいる。
「暖国だけに水遊びの時季も早いことだ。李囿さんは泳ぎは出来るかな。わしも子供の時分は水練をしたよ」
「それは意外なことです」
「御徒づとめの頃は城のお堀で水練の披露もあってな…」
石の鳥居があった。その社について、南畝の記録には、
「石の鳥居の額をあおぐに、八武者大権現とあり。石磴(石段)を上りて社の前にぬかづく。いかなる神という事をしらず」とある。
ものゝ本によると神功皇后が三韓征伐から凱旋の途次、この浦に仮泊せられたとき、この場所で武者たちと夜着を共にして臥せられたので「群着の浦」と呼ばれたという。後にその音が転訛し、文字を変えて茂木の浦となったとある。

まだ日は長くいまだ黄昏にも及ばぬながら、ゆるゆるともとの道を長崎へ帰ることにした。帰り道は上り坂がいくつもあり、三人は時々足をとめては汗をふいた。
「あの天草灘の海の色を眺めたら、鰹が食べたくなったよ。東都にあれば初鰹のころだ」
「今朝、市で鰹ば見ましたよ。あれを一尾もとめ南畝先生のもとで鱠につくって酒ばくむとすべし。な、どがんな李囿さん」と柳屋。
「そーりゃ、けっこなことで」と李囿が云う。
三人は石の多い山道を田上村へと曲って行った。その時、後から駕籠が五挺、南畝たちに追いついた。女中や下僕が五、六人従っている。南畝たちより足が早く、軽く会釈しながら追いこしてゆく。
「北浦遊山の一行だな」
と思ったところで、最後にゆく駕籠が、中の女客の声でとめられた。駕籠かきが巻きあげた垂れの内側に座っている女は薬師寺百合であった。

中間の平助が鰹を鱠につくった。柳屋新兵衛、中村李囿と岩原官舎の部屋で初鰹を食う。
にぎたづの浦よりをちをつるかつほ
またの卯月のいつかいふべき
鰹を食いながら歌を詠んでみたが、もの足りぬ気分がある。
南畝先生がご一緒なら、いっそたのしか女の酒盛りになったとに、艶然と笑ったお百合の顔を思い出す。
狂歌を詠んだ。
鍋のふた明けてくやしく酔ぬるは
浦嶋が子がつるかつほかな
南畝はこの狂歌の通り鰹を鍋にして食べたのであろうか。くやしい気分で酔ぬるとは何の故にか。 (第二章 終)

大田南畝(蜀山人)の茂木北浦紀行 (1)  文化2年(1805)

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大田南畝(蜀山人)の茂木北浦紀行 (1)  文化2年(1805)

本ブログ前の記事「大田南畝(蜀山人)の烽火山歌碑と従者増田長蔵の墓碑銘」に続き、森岡久元氏の小説『崎陽忘じがたく—長崎の大田南畝』(1999年澪標発行)から、大田南畝(蜀山人)の茂木北浦への珍しい紀行の部分を紹介する。138〜142頁の記述は次のとおり。
もぎ歴史懇談会の参考としてほしい。

大田南畝は、長崎奉行支配勘定役として、江戸から赴任していた。茂木北浦の道筋や状景がのどかに描かれている。紀行は、文化2年(1805)4月のことである。
(2)に記す「にぎたづの浦」は、「北浦」にかけて詠じているようなおもしろい歌であろう。
茂木街道変遷図は、小島町正覚寺前の説明板から。柳山石橋の長崎大水害流失前写真はもぎ歴史懇談会資料から。遠望は茂木若菜川河口付近。北浦は弁天崎左奥の入江となるが、全体は写っていない。

文化2年(1805)

四月五日、俵物庫の立会を終えてから、用達方の中村李囿、唐通詞柳屋新兵衛とつれだって、かねて約束の北浦の藤を見物にでかけた。
道は鍛冶屋町崇福寺の下を南に下り、愛宕山の山すそをめぐって茂木へと向う。途中の谷川沿いの道を行くと、水の音、山のたゝずまいは木曽路を行く心地がした。やがて田上という村へ入る。右に古寺がある。葷酒山門に入るを許さずと石表があるので禅刹なるべし。桜の古木があり、「古木は朽て、根より六ツ七ツばかり出し枝のかげ多くさしかわし、青葉しげれる枝に余花の二ふさ三ふさ残りたる、さすがに春の名残りなるべし」
書院の庭によど川つゝじ、紅紫椿などが咲き乱れている。
「神傷山行深、愁破崖寺古の漢詩のふぜいがあるな」と南畝が云った。
この禅寺の裏に百六歳になる老女が住んでいると柳屋が云うので、その農家をたずねてみた。しかし家人から、その媼は近頃亡くなったと聞いた。

「この田上村のとなりに十料村というところばあるとです。今は茂木村も天領になっちょるばってん、以前は島原の御領所にて、その村が天領と島原御領所の境にあたって、つまり御料と御料、五料と五料で十料と名のついたとですよ」と柳屋が話す。
「面白いな。江戸にも後藤と後藤の間にある橋を五斗と五斗の音をかりて、一石橋と呼ぶのがあるが、それと同日の談だな」と南畝が応じた。
田上村を出て、再び谷川を右に見ながら南へ行く。やがてその川にかゝる石橋を東へ進むと天草灘の海面がひらけてきた。海岸へと下れば入海となったあたりは潮の干潟が広がって、マテという貝を拾う人達の姿がみえた。北浦である。南畝の足で半とき足らずで着いた。
その藤の棚は海岸沿いの農家の庭先にあり、根は岸辺から生え出ている。樹齢はかなりのものに見えた。花の藤色はもはや色あせて、盛り時は過ぎたらしい。藤棚の岸から干潟に下りて潮干狩の人影にまじって、めずらしい小石や貝を拾った。
「孫の鎌太郎が居れば喜んではしゃいだことであろう」と云うと、
「大田様は四人のお孫のじじ様でおられたとですね」と中村李囿が云った。

「向うの岸が茂木の浦かな」
「はい。あの高台が注連が崎で、上に月見の台ばあって、八月十六日の月はひとしおの観月の勝地ですばい。あれに登りますとな天草列島から遠く東に島原半島の望めるとです」
藤棚の陰に戻って農家で水をもとめていると、その横の樹陰に毛氈を敷いて、「女あまた酔しれて、三線のことかきならし、かしがましきまで、歌うたう」一団がある。中村李囿が、あれは長崎の富裕な商家の妻女たちの遊山だと云った。みれば数挺の駕籠もあり、下僕や婢がかいがいしく酒肴の世話をしている。
「長崎の女達ののびやかなる遊びっぷりを見れば江戸の妻女どもの羨むことうけあいだ」
と云ってから、ふとあの女達の中に艶に酔を発した薬師寺百合の顔があるのではないかと思って、何をわしは考えていることかと、柳屋と李囿のあとについて岸伝いに茂木の浦へと向う。

以下、(2)へ続く。

大田南畝(蜀山人)の烽火山歌碑と従者増田長蔵の墓

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大田南畝(蜀山人)の烽火山歌碑と従者増田長蔵の墓碑銘

「わくわく亭雑記」は、昭和30年代の少年たちの生活ぶりを書いた尾道小説から、江戸時代の狂歌師や文人たちの伝記小説までを書いている著名な小説家・森岡久元氏のブログである。
森岡氏は、昭和15年(1940)生まれ。4歳から18歳まで尾道で生活した。現在は東京都練馬区在住。「姫路文学」「別冊関学文芸」「酩酊船」各同人。
大田南畝(蜀山人)の研究もされている。長崎関係では、小説『崎陽忘じがたく—長崎の大田南畝』を1999年澪標から発行された。

大田南畝は、文化元年(1804)年9月、56歳のとき、長崎奉行支配勘定役へ1年間の出役を命じられ、江戸から赴任した。南畝はその号で、本名は大田覃、通称を直次郎。狂歌名の四方赤良、蜀山人として知られる。
江戸期の超一流文人であり、長崎でもさまざまな足跡を残されている。長崎市東部の山、烽火山(標高426.0m)山頂の長崎県指定史跡かま跡近くに、山頂からの雄大な景色を詠んだ「南畝石」と呼ばれる大田南畝の漢詩の石碑がある。
山頂広場の登山道に対し、石碑は後ろ向きに立っているため、これまでほとんど人に知られていなかったが、私は長崎市史の記録から、平成19年1月に見つけたいきさつがあった。

私と森岡氏との関係は、森岡氏へこのとき烽火山の歌碑資料を何かお持ちではないかと照会したのに始まり、現在もブログ上で交流している。最近、同氏から自著名入りの本『崎陽忘じがたく—長崎の大田南畝』を「恵存」として寄贈を受けた。
74頁の記述は次のとおり。文化2年(1805)大田南畝は57歳の元旦を長崎奉行所の岩原官舎で迎えた。

「五日は奉行所役人の新年会があった。六日は舟で飽之浦へゆき、山越えして福田浦へ出て岩洞を見物した。翌七日は烽火山へ登った。寛永年間まで山頂に烽火台が築かれていて、その遺址があった。そこから長崎の市街が眼下に一望された。
滄海の春雲紫瀾を捲く、崎陽の囂市一彈丸、西のかた五島に連なり南(東?)は天草、烽火山頭目を極めて見る。(囂市はさわがしい市街)
山をくだり高岳院にて酒食。「薄暮帰酔いたし候」と日記にある」

私にとっては、大田南畝が烽火山に登頂した正しい日がわかり、本ブログ名勝図絵の風景や古写真考で紹介した福田の岩洞まで見物していたとは、うれしい記述があった貴重な本となった。

さて次は、同じ本において別に目新しい記述を見つけた。145〜146頁の記述は次のとおり。大田南畝の従者の一人、増田長蔵の墓碑銘についてである。

「文化二(1805)年の陰暦四月十日、大田南畝の従者増田長蔵が病死した。…行年三十歳、伊豆の人であった。当時多かった脚気によるものではなかったか。…
南畝は自分が長崎着任時に重篤な病気にかかり、なんとか命びろいをしたが、いま長蔵が身がわりに立ったのではないかと、ひとしお哀れに思われて、彼の葬儀に出費を惜しまなかった。
葬儀は立山奉行所と岩原川をはさんで隣接する禅寺永昌寺でとり行った。奉行所からは勘定方、普請役、用達方、筆者たちが裃を着して参列した。墓地は寺の後背の山中にあり、崩れるおそれのないよろしき所を選んで埋葬した。墓石の背面に行書で南畝が書いた墓碑銘がいれられた」

永昌寺後背の山中の墓地に、増田長蔵の墓が残ってないか。「墓石の背面に行書で南畝が書いた墓碑銘がいれられた」とあるから、墓碑銘の存在を確かめたかった。
長崎市玉園町の永昌寺は、正保3年(1646)、晧臺寺伝法一祖一庭融頓が、法嗣の洲山泉益と共に創立した寺院。寺地は平戸道喜の別荘だったが、その妻が喜捨した。鎖国時代、長崎奉行所の遠見番所が置かれた。
そんな広い墓地ではない。本堂左の下段からあるが、中段部分に聖福寺領を一部挟み、上段の山近くも永昌寺の墓地である。

原爆の被害はここまで及ばなかったので、山中すなわち上段墓地あたりに、増田長蔵の墓が残っていて良さそうなものだが、見当たらなかった。古い「増田家」の墓が、状況に似た高台の場所に1区画あった。上段の方の阿蘭陀通詞西家墓地のまだ上となる。
ただ、刻まれた氏名は、明治36年4月没の完全な別人の墓。明治44年作成の寺墓地図で確かめたが、番地では142番2。所有者は大村の人。戦後に142番の荒木家から分筆された墓地だった。付近は新旧の墓が混ざった場所となっている。

寺の先代住職が2年前亡くなり、墓地の事情がわからなくなっている。せっかく南畝が書いた墓碑銘があった墓なのに、従者増田長蔵自身はそれほど有名人ではなかったため、墓が撤去された可能性がある。出身地伊豆へ移されたこともあるかも知れない。
まことに惜しい墓碑銘の結末となった。どなたか事情を知る人、または別の記録がないものだろうか。

最後は、森岡久元氏の新刊本『尾道物語・旅愁編』の案内。尾道は純情編、幻想編から3編目。人生というドラマの深淵を探る集玉6作品の短編集。紀伊国屋書店などで発売している。

(弁 解)
2012年9月13日、きょうパソコン操作を誤り、書庫「烽火山のかま跡・番所道・南畝石」を削除してしまった。全ての記事や画像が消えたため、これから数日、主な記事の復元作業に入る。
記事の再掲となって見苦しいが、しばらく付き合いください。