佐賀の風景・史跡」カテゴリーアーカイブ

菖蒲坂溜池  基山町大字小倉 ( 佐賀県 )

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菖蒲坂溜池  基山町大字小倉

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。県道300号により行き、基山町役場から基山総合公園の方へ上がる。公園の北西部に菖蒲坂溜池はある。

菖蒲坂溜池 しょうぶざか
(三養基)基山町 基山総合公園 溜池 長約50m 寛文4(1664) 町教委 公園として修景整備 2 –

田代代官所跡  鳥栖市田代上町 ( 佐賀県 )

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田代代官所跡  鳥栖市田代上町

現地説明板は、次のとおり。現在は鳥栖市立田代小学校の敷地となっている。

田代代官所跡

江戸時代、鳥栖市の東半分は対馬藩領でした。対馬藩は田代領を治めるために代官所を設置し役人を派遣しました。田代上町に所在する西清寺の記録によると元和年間(1615〜1624年)に建築されたと思われます。
「御勘定所田代覚書」には代官所の建物は田代上町にあり「御屋舗」と呼ばれていたことが書かれています。また、長崎街道に沿って南面し、表間口が四八間、奥行きは東八二間、西七七間、裏は六八間の広さであったことがわかっています。
田代代官所は嘉永4年(1851年)に改築されたことが記録に残っています。この指図はその時の設計図に当たるものと思われ、弘化4年(1847年)の作成と考えられます。指図には全部で60の部屋が記されています。また、建物の一部は2階建てになっていたようです。
指図の本家は代官が公務を行った建物で、中庭の奥は住まいとして使われていました。
この他に、享保9年(1724年)の指図も現存してあり、これらの指図は平成11年に鳥栖市重要文化財(歴史資料)に指定されました。            鳥栖市教育委員会

田代宿の追分石  鳥栖市田代昌町・田代外町 ( 佐賀県 )

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田代宿の追分石  鳥栖市田代昌町・田代外町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。所在場所は地図のとおり(「とすの文化財解説シート」から)。

田代昌町の道標(追分石) たしろ、しょう
鳥栖市 <長崎街道・田代宿東口> 石道標(自然石) 高約1m 享和2(1802)以前 市重文 WEB 原位置? (正面)「左、こくら/者加多、へ」(=博多)、(右面)「右 ひこ山道」/尾張の商人・菱屋平七の旅日記『筑紫紀行』(享和2(1802))に記載がある 1 C

田代外町の道標(追分石) たしろ、かん
鳥栖市 <長崎街道・田代宿西口> 石道標(自然石) 高約1m 享和2(1805)以前 市重文 WEB 原位置? (正面)「右 さか/左 くるめ、道」/太田蜀山人の『小春紀行』(文化2(1805))に記載がある 1 C

鳥栖市HPの市内の文化財による説明は、次のとおり。

市指定 重要文化財(石造建造物)
田代宿の追分石(2基)
【所在地】 鳥栖市田代昌町・田代外町
【指定日】 昭和49年5月13日

街道が左右に分かれる道標として建てられた石を追分石(おいわけいし)といいます。
江戸時代に田代宿は轟木宿とともに長崎街道の重要な宿場でした。その田代宿の東口(田代昌町)と西口(田代外町)にそれぞれこの追分石があります。それぞれ高さは約1mほどの自然石が利用されています。
東口のものは「右‐ひこ山、左‐こくら、はかた道」と彫られており、享和2年(1802)の尾張の商人菱屋平七(ひしやへいしち)の旅日記「筑紫紀行」にこの追分石の記述があります。 また、西口のものは東口と同じ書体で「右‐さか、左‐くるめ道」と彫られており、文化2年(1805)の太田蜀山人(大田南畝)(おおたしょくさんじん;おおたなんぽ)の「小春紀行」に記述があります。
これらの記録から、現存する追分石は1800年頃には建立されていたことがわかります。

五反三歩の堤  鳥栖市村田町五反三歩 ( 佐賀県 )

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五反三歩の堤  鳥栖市村田町五反三歩

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号西部工業団地入口交差点の少し手前から右の市道へ入る。村田公民館五反三歩分館があり、裏側に「五反三歩の堤」が見える。堰堤は佐賀競馬場西側の駐車場あたりにある。

五反三歩の堤 ごたんさんぶ
鳥栖市 溜池 元和年間(1615-24)? みやき町教育委員会 排水用の「尺八」と呼ばれる石樋管が白石神社に移設 成富兵庫茂安/佐賀藩で最初の堤(?) 2 C

中原水道  みやき町蓑原 ( 佐賀県 )

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中原水道  みやき町蓑原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号東中原交差点から南へ入る。次の通りが旧長崎街道で左へ進むと中原宿東に「祇園社」がある。神社手前西脇を道路は挟んで流れる用水路が「中原水道」である。東寒水にも「祇園神社」があるが、ここは場所が違う。

中原水道 なかばる
(三養基)みやき町 寒水川 上水路 寛永11(1634)以前 町教委 堰の付近は当時の石組が残る/大部分がC改修 一の瀬井堰から取水し、宿場の飲用と灌漑用に用いた/成富兵庫茂安 2 C

お茶屋の堤と象の鼻  みやき町白壁 ( 佐賀県 )

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お茶屋の堤と象の鼻  みやき町白壁

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号白石東交差点から南の茂安通りに入る。白石神社分岐は上がらずそのまま市道を進むと、すぐ右手上に「お茶屋の堤」の堰堤がある。ここの左は白石神社参道口鳥居があるところである。

お茶屋の堤の「象の鼻」は、2枚目写真の堤対岸に見える石垣部分。接近できる林間の道がある。象の鼻は、写真6枚目以降。

お茶屋の堤 おちゃや
(三養基)みやき町 <通瀬川> 溜池 堤長約150m 寛永11(1634)前後 町教委 保存状態良好/締切堤中央にあった石樋管は残存していない 白石鍋島藩の成立(1633)後に茶屋が造られたため、成富兵庫茂安(1634没)の関与の可能性は不明 1 C

お茶屋の堤の「象の鼻」 おちゃや
(三養基)みやき町 <通瀬川> 水制(取水用) 長約50m 寛永11(1634)前後 町教委 先端部を除き用水はC化 用水の取水部は溜池東部にあり、嘉瀬川の石井樋にある「象の鼻」と同じ構造をしている→こちらの方が時代が後のため、何らかの理由で真似たとされている 2 B

白石神社と宝物展示館  みやき町白壁 ( 佐賀県 )

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白石神社と宝物展示館  みやき町白壁

国道34号白石東交差点から南の茂安通り市道を山手へ上がって行くと、白石神社がある。みやき町観光情報サイト「みやき」による説明は、次のとおり。

白石神社

佐賀藩の歴史を彩る、白石鍋島家ゆかりの神社
白石神社は北茂安校区・白石地区にある歴史ある神社です。文政6年(1823年)白石鍋島家第6代鍋島直章公により創建され、祭神は白石初代邑主鍋島直弘公、白石焼の先覚者である鍋島直暠公、土木治水の神・成富兵庫茂安公の御三体が合祀されています。
神社の境内へ続く参道の石段は、広い横幅に比べ、一段の高さは15cm程度で、警護の侍が馬に乗ったままで参拝できるよう、馬の脚に合わせて造られています。

由来
佐賀藩は肥前国の佐嘉・神埼・小城・杵島・藤津・三根全域と養父・松浦、高来、彼杵の一部を合わせ持った
(35万7千石を領有していた)外様大藩でした。
この領地を3支藩(蓮池、小城、鹿島)と鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)、龍造寺4家で守っていました。

この白石神社に祀られている鍋島直弘公は、初代佐賀藩主・鍋島勝茂の四男で、初代白石邑主(ゆうしゅ)です。父、勝茂の信頼厚かった家臣の成富兵庫茂安は、直弘の教育係として見込まれ、直弘は幼少の頃に養子として成富家で育てられました。
寛永11年(1634)茂安が75歳で没すると翌年白石邑(現在の北茂安校区・白石地区)に居をかまえ、のちに鍋島姓に戻った直弘はこれよりのちを白石鍋島家と称しました。(ちなみに「白石」という地名は成富兵庫茂安がかつて杵島郡白石(現在の杵島郡白石町)に知行地をもっていた事に由来するそうです。)
文政6(1823)白石鍋島家6代目邑主、直章公はこの地に邑祖直弘公を祭神とした社殿を建立し、その後、筑後川の治水土木事業に功績を残した成富兵庫茂安公を合祀しました。

成富兵庫茂安公とは…
白石神社は、治水事業に多大な功績を残した成富兵庫茂安公を合祀しています。茂安公は龍造寺家家臣、成富信種の次男として現在の佐賀市鍋島町増田で生まれました。
若い頃は勇猛果敢な肥前武者として広く名が知られており、豊臣秀吉、福島正則、浅野長政、藤堂高虎、黒田如水らそうそうたる戦国武将が文献の中で茂安公を褒め称えています。

白石神社宝物館
白石神社宝物館にある、走破焼の流れを汲んだ一対の三月堂形の磁製灯ろうは、高さ225cm、幅60cmの巨大なものです。明治18年(1885年)、「五十崎芳太郎作」と銘記されていて、宝珠、宝珠台、笠、火袋中台、台座、基礎台からなり、生きているように灯篭にまつわりつく龍の象がんなど、美術的に焼成された逸品で、町の重要文化財に指定されています。

江口地先の荒籠1〜5  みやき町江口 ( 佐賀県 )

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江口地先の荒籠1〜5  みやき町江口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道264号沿い筑後大堰の下流側がみやき町江口となるが、荒籠らしいのは詳しく調査しなく不明だった。付近の状況写真のみ載せる。筑後川河川事務所の文献・写真で位置確認が必要だろう。

江口地先の荒籠1 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約35m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠2 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約19m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠3 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約25m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠4 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約19m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(小型) 2 –

江口地先の荒籠5 えぐち
(三養基)みやき町 筑後川(右岸) 石水制 長約90m(うち、70mが堤防上) 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(中型) 2 C

なお、HP「筑後川 治水事業の歴史1(明治維新前)」には、次の説明がある。
http://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/kizon/chikugo/histry1.html

江戸時代においても筑後川の舟運は盛んであり、干満を利用してかなりの舟が江口(現北茂安町、河口より20km)まで遡航し貿易を行なっていた。そこで、舟運の水深を維持するために、慶長年間、徳川幕府の中期(1700年)頃、両岸から河心におよぶ荒籠(長大なT型の透過水制)が随所につくられ、その一部は今なお当時の姿を残している。

当時の築堤概要について「石原家記」に「大川筋御領分村々で、荒籠23ヶ所、水刎3ヶ所ご座候」と、久留米領の荒籠の数が記され、享保元年(1716年)6月、小森野荒籠竣功の記事がある。また、久留米から河口に至る「肥前の荒籠数は15ヶ所」であったこともあわせて明記されている。

大詫間地先の荒籠1・2・3  佐賀市川副町大詫間 ( 佐賀県 )

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大詫間地先の荒籠1・2・3  佐賀市川副町大詫間

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。県道18号新田大橋手前から筑後川河口の三角州に入る。南半分が佐賀市川副町大詫間である。大詫間も江戸時代から350年間・50回もの干拓によって作られた。なお、三角州の北半分は福岡県大川市大野島地区。
大詫間の筑後川側には、地元民の話によると5つの荒籠がある。上流から順に河口まで1〜5と言うらしい。私の写真は、上流からそれらしきものを写してきた。リストデータがどれを指すのか、わからないので、筑後川河川事務所の文献・写真と照合をお願いしたい。

大詫間地先の荒籠1 おおだくま
佐賀市 筑後川・最下流(右岸) 石水制 長約100m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(中型) 2 B

大詫間地先の荒籠2 おおだくま
佐賀市 筑後川・最下流(右岸) 石水制 長約110m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(中型) 2 B

大詫間地先の荒籠3 おおだくま
佐賀市 筑後川・最下流(右岸) 石水制 長約160m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(大型)/最下流に位置 2 B

7〜15枚目は、2015年3月25日に大詫間を再訪した荒籠の写真。上記に対応する3つの大型荒籠があるので、これだろう。所在図参照。

神埼町姉川城跡のクリーク  神埼市神埼町姉川 ( 佐賀県 )

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神埼町姉川城跡のクリーク  神埼市神埼町姉川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道34号姉川バス停から北へ入ると、案内標識がある。
後ろの新しい史跡説明板は、ここの農村公園にも反対向きに建っていたので気付かなかった。

神埼町姉川城跡のクリーク かんざき、あねがわ
神埼市 姉川上分 クリーク 江戸期 国史跡 WEB

佐賀県教育委員会HP「佐賀県の文化財」による説明は、次のとおり。 

国指定(史跡の部)03  史跡 姉川城跡(あねがわじょうあと)
平成22年2月22日指定(一部に県史跡を含む)
神埼市神埼町姉川
中世の城館跡と周囲の集落跡
南北朝期にこの地に土着した、菊池氏の分族を称する姉川氏が構えた城とされ、戦国末期までその居城となっていた。
1570〜80年代頃、龍造寺隆信が姉川氏を服属させた後は、龍造寺氏の神埼郡支配の要衝とされた。天正15年(1587)の豊臣秀吉による九州統一後は、国内の城郭の統廃合政策に伴い廃城となったと推察される。
遺跡規模は東西最長600m、南北最長800mに及び、その中核となる姉川城本体が遺跡全体の東半域を占めている。城の中心部は平面台形状の半町ほどの曲輪(くるわ)で、内部に大型建物や門を備えていたことが過去の試掘調査で判明している。
その周囲には小規模な曲輪群や家臣屋敷跡、寺社跡などが付属し、さらにその西側外縁の中地江川沿いに、一般住人や下級武士層の小規模な屋敷群が並んでいる。各空間は大型の濠で細分され浮島状をなしており、中世以来の「水辺」の村落景観が広範かつ良質な状態で、現在もなお保たれている。