投稿者「misakimichi」のアーカイブ

香焼栗ノ浦鼻山中にある不思議な土塁

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香焼栗ノ浦鼻山中にある不思議な土塁

写真のとおり、香焼栗ノ浦鼻山中に不思議な土塁を目にしている。長崎要塞地帯標が香焼島には、竹崎鼻と栗ノ浦鼻に建てられた地図があり、探した地帯標はなかったが、この土塁を見つけた。
栗ノ浦の鼻へは、現在、伊王島大橋の架橋工事中で、この工事現場からは行けない。集落の右手浜に出て、消防ホース格納庫のところから家の間の路地を上る。先の道と合い踏み跡をつめると、浜から10分もかからずこの地点に着く。
竹薮が密生し全容はわからないが、高さ3m、直径6m位の小石を積んで築いた土塁。脇岬遠見山の山頂や風車のある脇岬狼煙台で、このような造りを見ていたので、私は不思議に感じた。
しかし、香焼の遠見岳には市指定史跡のはっきりした遠見番所跡がある。戦時中は高射砲陣地が、この栗ノ浦、遠見岳近くの現中央墓地のところ、田ノ浦にあったと地元で聞いている。栗ノ浦鼻山中の土塁は、昔の狼煙台でなく、戦時中の砲台跡とも考えられる。
香焼町の郷土誌はふれてないので、参考のため紹介してみた。

為石岩崎墓地にある海難供養塔

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為石岩崎墓地にある海難供養塔

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊783〜785頁の説明は次のとおり。

三和町為石岩崎墓地入口の一画に「溺死万霊塔」「群霊塔」「女島遭難供養塔」の三基の供養塔が並列して建てられている。この漁村の被害の大きさに胸うたれるものがあり、漁民家族の悲しみが身に迫る思いがする。

一 溺死者万霊塔
蛇紋岩の切石で高さ一八七センチの供養塔
正面  「溺死万霊塔」と刻まれ
左側面 くだれる世の怖しき心を御安どの御仏の国に導きたまうにや文化十二年の春漁を業とせる此浦人一百五十余人唯ひとゆりの浪に溺れむなしくなりぬその亡(き)跡を弔らわんとこたび浦川沙童この碑を建供養せらるに予も随喜の菩提をなして
さめよさめよとても  七十四翁   御法とちるさくら  其水
裏面  文化十二年乙亥二月日  嗚呼時哉 願主  武士と思へば ゆゝし春の海 浦川沙童
右側面 
春の海に身を清めてや法の道   雨柳
亡影のしるしと塚の柳かな    可□
うかみ行く花の筏や三ッせ川   素石
むらさきの雲や迎へのはるの風  其石
七回のその先を□くみし人々の碑□□ 筆をとるも□□し日に日にて 命毛のたへてはかなき古筆かな  敲雲座一峰
台石(右)  世話人 射場 六之丞 茂 平  六軒 十五郎

二 群 霊 塔
高さ  一〇〇センチの切石の塔
正面  「群霊塔」
左側面 施主 高野屋和吉
右側面 嘉永三庚戌七月
(注)この塔の由来はわからないが、宝性寺の記録によれば、大風のため出漁中の為石村の漁夫50余人が溺死し、当寺で大追善を行ったとしてある。

三 女島遭難供養塔
高さ  一二〇センチの御影石
正面  「溺死精霊塔」
左側面 明治三十九年旧九月七日 男女島遭難者百九十七名之墓
右側面 篠原広吉 世話係 浜辺喜一

深堀赤土の海岸丘にある石塔  長崎市大籠町

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深堀赤土の海岸丘にある石塔  長崎市大籠町

長崎市南部深堀町から県道を大籠町へ行く。海の景色が良いところに三叉路となり、昭和11年の農道改修記念碑が建つ。左に上れば大籠町、真直ぐ進むと同町赤土の集落である。赤土の最初の家のかかる大カーブの道路は、現在、改修工事中である。
カーブを下りきったところにごみステーションがあり、小さな畑の奥の木立の中にすぐ石塔はある。2年前、長崎要塞地帯標を探していて、ここに不思議な石塔があると地元で聞いたためわかったのだが、行ってみるとどうも経塔のようである。

高さ60cmほどの2m四方の四角い石囲いの上に、平石の石塔が立つ。寸法は横50cm、厚さ15cm、高さは1.6m位。刻面は真中がはがれてよくわからない。上部に25cm位の「○」、下には栄誉の「誉」らしき字に続き「宗哲」とかなり大きな字がある。史跡案内書や資料に見当たらない石塔である。

地元の話では、時代がいつの頃かわからないが、この前の海で船の海難があったとか、前面の島、高島の島流しや炭鉱当時、高島からこの浜に逃げ出す者が多く、それらで溺れ死んだものの供養塔でないかという。その他、疫病の死者をまとめて葬った墓所など考えられる。
石塔刻面にある「宗哲」とはどのような人物だろうか。調べる必要がある。

為石年崎の「れき質片岩」

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為石年崎の「れき質片岩」

長崎市為石町と川原町の境となる年崎海岸の突端に見られる。三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊11〜13頁、地質の「長崎変成岩(西彼杵変成岩)」中の説明は次のとおり。

長崎半島は西彼杵半島とともに長崎変成岩が広く分布している。…三和町では緑色片岩・黒色片岩・れき質片岩の結晶片岩類がみられる。…

「れき質片岩」は、れき岩を原岩とした結晶片岩である。為石年崎、三和中学校入口付近など局所的にしか分布していない。結晶片岩の中でもれき質片岩は全国的にも珍しく、四国の大歩危のれき質片岩は天然記念物に指定され有名である。為石年崎海岸に露出しているれき質片岩は、原岩のれきも明瞭に観察できるもので地質学的に重要な露頭である。

れきの主体は優黒質岩(はんれい岩・せん緑岩など)であるが、優白質岩も含まれている。優黒質岩のれきの大きさはおおむね五〜一五センチで、はんれい岩のほかに角せん石の集まった岩石もある。優白質岩は中〜細粒の角せん石せん緑岩を主とする。原岩としてのれき岩の構造が保存されており、成層状態や、扁平なれきが層理面に平行に重なっているのなどが観察できる。細粒れきによる成層部分では、原岩の斜層理を示す岩相も見られる。

全体的には緑色を帯びた層厚二〇メートル以上のれき質片岩で、年崎から三和中学校方面へ分布がのびていると考えられる。本岩中のはんれい岩れきを構成している角せん石の巨晶を使って測定された放射年代は九一〇〇万年の値がでている。このように様々な意味で年崎のれき質片岩は学術的にも貴重なものであって、護岸工事などで今後埋めたり破壊されたりしてはならないものである。

香焼島遠見岳の遠見番所跡  長崎市香焼町

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香焼島遠見岳の遠見番所跡  長崎市香焼町

長崎市香焼町の字丹馬先に登り口の案内板がある。現地説明板は次のとおり。

市指定史跡 遠 見 番 所 跡
指定年月日 平成8年5月23日  所有者 長崎市
この番所は、寛永20年(1643)に佐賀藩によって遠見岳頂上に設置されたもので、遠見番と呼ばれた番人が常駐、異国船を発見すると、直ちに深堀領主で佐賀藩家老の鍋島家に連絡、同家を通じて長崎奉行所に報告された。その連絡は、野母崎町脇岬の遠見山に設置されていた遠見番所からの連絡を受けると、この番所から注進道と呼ばれた小道を通って深堀の鍋島家に連絡された。
なお、この跡地は香焼町出身の大久保喜市氏によって寄贈されたもので、現在でも、当時の番所の石垣の一部と、注進道が残っている。また、遠見岳は、町内の最高峰でもあり、眺望も非常に良い。
長崎市教育委員会

豊前坊神社のエノキ  長崎市香焼町

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豊前坊神社のエノキ  長崎市香焼町

長崎市香焼町字丹馬の豊前坊神社の鳥居左にある。現地説明板は次のとおり。

天然記念物 榎(字丹馬・豊前坊神社)   指定年月日 平成8年5月23日  管理者 長崎市

榎のように長生きし、ますます栄えるようにと、平成元年、町民の公募で香焼町の木」に決まった「モデル」木である。
樹齢推定200年前後、高さ約20m、太さ約4m。
大正7年(1918)「香焼町郷土誌」に、「豊前坊は丹馬郷にあり、境内は古木繁茂し中には周囲一丈二尺の榎の木あり、けだし本村中、榎の最古木たるべし」とある。神木のように大切にされ、集落の変遷を見守ってきたといえよう。
長崎市教育委員会 

蚊焼波戸の桜並木道と桜御前の石祠

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蚊焼波戸の桜並木道と桜御前の石祠

三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊の749頁、その他の信仰「蚊焼の石仏」において、高崎一郎先生は「桜御前」の石祠について、次のようにふれられている。

蚊焼には、石仏が数多く点在する。年代を見ると余り古いものは見当らず、年代不詳のものが多いが、どうしてこうも多いのか、江戸末期近く一つのブームにのって盛んになったものであろうと思われる。…
石仏の種類も様々で地蔵菩薩・観世音菩薩・阿弥陀仏の外に水神としての守り神や、恵比須様、摩利支天、天神様、それに何々家先祖神など数えるにいとまがない。中には桜御前と称するものも数か所にあり、応仁御前と呼ばれる碑石もある。

石祠一覧には、波戸にある明治二四年一一月、桑原幸松建立のものと、小家にある昭和八年七月、桑原弥太郎建立のものの2基が載せられている。小家のはまだ訪ねたことはないが、波戸のは最初見たときから、気が惹かれた。まず「桜御前」という碑名とその建っている場所である。

蚊焼から岳路へ今の国道は、蚊焼大川沿いに行く。「岳路みさき道」もほぼ同じである。しかし、波戸から南百合崎を越し、海岸沿いの丘陵を岳路へ行く道もあった。春は桜並木が美しい。カーブの多い道。今は町道折山線となり、昭和40年認定である。
この入口に「桜御前」の石祠は建つ。「桜御前」の名も桜並木と何か関係はないだろうか。高崎先生に聞いたが、由緒はよくわからなかった。

HPでは興味深い話があった。静岡県森町には「桜姫」の石碑がある。桜姫は藤原中納言の奥方となったが、保元の乱に敗れ中納言は島流しされ、姫は都に子を残し尼となって旅に出た。最後は森町に庵を結び亡くなった遺徳を偲ぶ。
福島県郡山市には赤津「御前桜」の伝説がある。京の公家の姫が人買いにさらわれ、この地に連れて来られた。慣れない下女仕事に耐えかね、望郷のあまり、桜を手折り挿し木して「帰ることが叶わぬならば根付くな!」と我が運命を占ったところ、春には花が咲き、姫は京から迎えの人たちと無事帰ることができたという。
蚊焼の「桜御前」石祠も、いずれに関係するのか。調べればおもしろい話となりそうである。