投稿者「misakimichi」のアーカイブ

雲仙・普賢岳新登山道の初歩き  2012年6月

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雲仙・普賢岳新登山道の初歩き  2012年6月

2012年6月3日(日)快晴。雲仙・普賢岳(標高1359.3m)新登山道の初歩き。参加15人。みさき道歩会の例会。
池の原9:00—仁田峠9:57—あざみ谷—鬼人谷入口11:09—西の風穴—北の風穴—鳩穴分かれ12:18—立岩の峰13:09(昼食)13:25—霧氷沢−普賢岳14:30−妙見岳−仁田峠15:43—池の原16:15(徒歩距離 約10km)

平成新山を間近かに望む新たな登山道が、5月9日開通した。コースの概要・地図は、雲仙国立公園オフィシャルサイトを参照。  http://www.unzen.org/japanese/fugennew/index.htm
6月となり快晴の日曜だったが、福岡からのツアーなどの登山者でまだ混雑していた。仁田峠は規制があり、池の原に駐車して登ったため、かなり疲れた。記録の時間は、私の落伍タイム。
宮さんの参加ブログ記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29701251.html

長崎外の古写真考 放送大学古写真 日本残像「神戸港」

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長崎外の幕末・明治期古写真考 放送大学古写真 日本残像「神戸港」

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

放送大学古写真 日本残像「神戸港」
〔画像解説〕
神戸港の開港は明治元年(1868年)。この写真は沖合いから海岸通を捕えている。居留地の商館は居住することが条約で取り決められており、二階が住居になっていた。山の手に移り住むようになったのは明治20年代に入ってからのことである。この写真は明治10年代の撮影で、まだ山の手に洋館が建っていない。 着色 21×28cm

目録番号:5668 神戸居留地海岸通り(2)

■ 確認結果

放送大学附属図書館所蔵古写真展HP「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」大坂・神戸の中に、「神戸港」が掲載されている。
画像解説には、「この写真は沖合いから海岸通を捕えている」とあるが、撮影した場所が「沖合い」、すなわち「船上」からなのか。居留地背景の山の稜線にも少し疑問を感じる。

この作品を反転させると、長崎大学データベースに、ベアトアルバム?からとされる目録番号:
5668「神戸居留地海岸通り(2)」など数作品が、似たような山の稜線となる。
誤って反転された作品は、和船でも見た。https://misakimichi.com/archives/2843
神戸港の同じような古写真は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/2578

六甲の山並みを写しているが、最も高い山は、「高取山」(標高328m)と思われる。
「明治二年兵庫津細見全圖 1868」など見る限り、撮影場所は神戸港の「沖合い」からではなく、反転していたら東方の神戸港に築かれた突堤あたりから、反転していなかったら西方の「和田岬」方面から、停泊する船と居留地を撮影できた作品ではないだろうか。
背景の山の稜線がポイントとなるから、地元の検証をお願いしたい。 

長崎の西空の夕日  12− 5

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長崎の西空の夕日  12− 5

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1      2012年 5月 3日の18時06分頃
写真  2〜 4  2012年 5月 6日の18時56分頃
写真  5      2012年 5月17日の19時03分頃
写真  6      2012年 5月18日の19時02分頃
写真  7〜10  2012年 5月25日の18時58分頃
写真 11      2012年 5月27日の17時39分頃 ダイヤランドから三菱香焼ドック

LEDセンサーライトとヘッドクール

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LEDセンサーライトとヘッドクール

ホームワイドに売っていたすぐれ商品。自宅は夜、玄関の段差、鍵穴、チャイムが見えにくかった。Kazuさん、庭の坂段にどうですか。
「LEDセンサーライト」は、配線不用。単3電池3本で、約10ヶ月持つ。取り付けまたは専用スタンドに置く。977円だったと思う。黒1色だが、きれいな色がほしい。
「ヘッドクール」は、水を含ませまたは凍らせて、帽子・ヘルメットに入れると、ひんやり冷感。熱中症対策。これは797円だった。

早坂の矢岳から田手原・蛍茶屋へ  2012年5月

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早坂の矢岳から田手原・蛍茶屋へ  2012年5月

2012年5月27日(日)快晴。早坂の矢岳(標高284m)から田手原・蛍茶屋へ。参加10人。みさき道歩会の例会。
田上9:30—早坂高架橋10:10—田上に戻り再出発11:20—弥生町—長崎出島道路分岐下(11:55 昼食 12:30)—展望岩13:41—矢岳山頂13:58—瓊浦高グランド14:49—田手原—豊前坊飯盛神社15:19—番所バス停15:57—蛍茶屋(徒歩距離 約12km)

唐八景トンネル県道がまだ工事中、転石から工事道路を通って長崎ICと長崎出島道路料金徴収所まで行ったことがあり出かけたが、早坂高架橋まで行って先に道がなかった。最近の地図を忘れたため2時間4kmをロスしたが、矢岳の姿の良い写真が撮れた。
田上に戻り再出発。三景台の方へ上り、弥生町から旧道を長崎出島道路分岐下まで下る。ガード下で昼食。

矢岳へ足場の悪い急斜面を1時間ほど登る。ロープ上に展望岩がある。快晴だが市街は少し霞んでいた。山頂基準点は尾根のすぐ先にある。下りの途中、矢岳東面のクライミング岩を見学。
田手原へ向かって平らな尾根道を進むと、甑岩や彦山が間近かに見え、瓊浦高グランドから田手原に出る。あとは、豊前坊飯盛神社や下の不動堂岩場を通り番所バス停へ下った。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29675682.html

長崎外の古写真考 目録番号: 5680 池を取り巻く家並み

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5680 池を取り巻く家並み

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 5680 池を取り巻く家並み

■ 確認結果

目録番号: 5680「池を取り巻く家並み」は、「撮影地域:京都」となっているが、奈良の「猿沢池」と思われる。
放送大学附属図書館所蔵古写真展HP「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」の、「奈良二十景(その一)」の中に、撮影年代は違うが同じような「猿沢池」の風景が掲載されている。

「猿沢池」は、本ブログ次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2224

長崎外の古写真考 目録番号: 5694 海岸(岩場に松)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5694 海岸(岩場に松)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 5694 海岸(岩場に松)

■ 確認結果

目録番号: 5694「海岸(岩場に松)」は、写りが悪くこれまで気付かなかったが、海岸高台に白い木造灯台が立つ。
放送大学附属図書館所蔵古写真展HP「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」に、同じ古写真が掲載され、同解説は次のとおり。
http://lib.ouj.ac.jp/koshashin/anoritodai.html

日本ところどころ  安乗崎灯台
伊勢志摩国立公園、的矢湾の安乗崎にある灯台。1868年8月横浜にやってきたR. H. プラントンは9年間の滞在の間に30もの灯台を建設し、「日本の灯台の父」と呼ばれる。この灯台もその一つ。彼は鉄道建設にも詳しく、官営鉄道の敷設を勧告した鉄道の恩人でもある。 着色 21×28cm

初代の安乗崎(あのりさき)灯台は、1873年に建てられた日本最古の洋式木造灯台。東京都江東区・お台場にある「船の科学館」に復元、屋外展示され、今も光を灯している。
現在の安乗崎灯台写真は、伊勢志摩国立公園「横山ビジターセンター」(三重県志摩市阿児町)HPの旬の自然情報2007年9月記事から。

長崎外の古写真考 目録番号: 3943 皇居吹上御苑(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 3943 皇居吹上御苑(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 3943 皇居吹上御苑(4)
〔画像解説〕
かつては江戸城の西の備えとして大名屋敷があったが、明暦の大火(1657)以後庭園化された。庭園内には木石の配置まで人工の妙を尽くしていた。滝は中央大池の南岸と瀧見御茶屋の近くに2ヶ所あったらしい。本写真は樹木が生い茂っているので瀧見御茶屋近くの滝ではないかと推察される。明治10年代か。

目録番号: 5709 皇居吹上御苑(5)

■ 確認結果

目録番号: 3943「皇居吹上御苑(4)」と、目録番号: 5709「皇居吹上御苑(5)」は、同じ庭園を写している。目録番号: 3943「皇居吹上御苑(4)」には、「本写真は樹木が生い茂っているので瀧見御茶屋近くの滝ではないかと推察される」と画像解説している。
撮影者・撮影年代はさておき、皇居吹上御苑内庭園の推察した撮影場所は正しいのだろう。

HP「囂庵の幕末明治の古写真」の次の記事に、この古写真を調査した撮影場所の考察があり、「キャプションが正しいとしてと(?)強調しておく」と述べている。
http://www.gouann.org/new_box/fukiage/fukiage.html

●吹上御苑の古写真について

内田九一が明治天皇の肖像写真を撮影したことは有名である。撮影は明治五年と六年の二度にわたって行われるが、撮影の場所は何れも現在の吹上御苑内の写場である。ここで撮られた肖像写真については様々な方々が書籍・論文で発表なされているのでここでは述べない。…
今回庵主がレポートするのは、明治天皇肖像写真の「写場についての謎解き」である。
内田九一が庭先でひれ伏しているとされる写真がある。初見は分からないが、それにはたいてい、「吹上御苑瀧見茶屋」のキャプションが附いている。そして「畏まるは写真師内田九一」とある。

ところが、明治十年代に測量された地図によると、瀧見茶屋の前庭は池の端まで数十メートルの距離がある。その様子は長崎大学附属図書館蔵の着色された「吹上園」のロングショットの写真で確認できる。さらに、同館蔵のもう一枚の「吹上園」というキャプションの着色写真も、瀧見茶屋前の庭園をロングショットでとらえている。これらの写真によって瀧見茶屋の前方は、廣い芝庭の平地があり、その先に、鬱蒼とした樹木に囲まれた瀧のある池水庭園の様子が見て取れる。「図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京 決定版 (歴史群像シリーズ):絶版 」

庵主は、この二枚の「吹上園」写真と地図のおかげで、瀧見茶屋付近の状況を容易に知ることができたわけだ。むろん長崎大学附属図書館蔵の写真のキャプションが正しいとしてと強調しておく。

陸軍省標石探しの裏話  その2

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陸軍省標石探しの裏話  その2

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
最近の新規発見は少なくなり、本文はこれまでの所感をまとめられている。写真は、佐世保市山ノ田水源地上方面にあったという「第十一号」と、長崎市飽の浦峠手前道の「第十六九号」

高橋 輝吉氏稿   陸軍省標石探しの裏話  その2

昭和11年頃になると、軍縮の波が。艦の大砲が陸に。標石にも改刻があった。佐世保では4本(日付は同じ)。対馬では、明治三十六年、明治四十年、大正十三年、昭和十二年とバラバラです。最近、対馬でまた3本、新しく発見されたようです。「第〇〇号」と無号1本あり。後で知らせます。

長崎は、標石がバラバラです。飽の浦峠手前のが、「第十六九号」と謎?。壱岐の要塞標石は4本廃止と、石はコンクリートと丸石交じり。まずい標石だ。軍縮か。
大分佐賀関は、1号廃止と?。F.Z.標石、620mの山の上に。下関は、要塞地帯図から見ると、広い広い要塞地帯となるので、何千個の標石の数となるのかなー。

佐世保での標石は、日付は同じ「第一号」2本有り。地域によるのかなー。3本となると何と第一地帯標でも「第十一号」3本有り。区域標も3本有り。何とも?。
要塞地帯の資料、昭和十一年の通達によると、別紙を見てください。(掲載略)
山の上に海軍省の標石が6本。昔の艦船は石炭を使用した。ただし、陸、海に標石が多い。軍道200本、入江50本。

陸軍省標石探しの裏話  その1

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陸軍省標石探しの裏話  その1

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
最近の新規発見は少なくなり、本文はこれまでの所感をまとめられているようである。その2は次へ。「歴史散歩」の記事は、佐世保市広報資料と思われる。

高橋 輝吉氏稿   陸軍省標石探しの裏話  その1

佐世保市小佐世保町で、初めて陸軍省標石を発見する。みんな〇秘、〇諜、〇耳の話ばかりで、何か証拠らしき物はないかなーと思っていたとき、標石発見。
良く見ると「陸軍省」「長崎要塞第二地帯標」「第五号」で、日付は「明治三十二年七月十四日」(個人所有)。
友に話す。「イヤ、長坂町にも有るよ」と。「第一地帯標」「第三号」だった(個人所有)。このとき、第二地帯標の話もする。最初の標石を絵具で撫で、洗い流す。

標石発見のことを、市の広報課(Tさんという方)へ知らせた。「後で行きます」と。「どうでしたか」?…「そんな標石は有りません」と。彼はその後、標石を写真に撮り、〇〇に出す。
後で「日付が違います」と言うと、「イヤ…正しい」と言うので、私の写真を見せると、”シマッタ”たと思ったでしょう。役所の手口かなー。それっきり、〇〇は流さず、今日まで。
歴史散歩の2回目は、日付が「明治三十二年七月十四日」となりましたが、要塞法を「条例」、「S. M. シーレベル メーター(海抜)」の解説は、今日までそのままです。〇〇さんに言ったけれど、本人が直さないのは、時を待つしかないと。

そんなこんなしているときに、下関要塞地帯標の資料で「S.M. F.Z」が手に入る。これだなー。私はこのときまで「S.M.」は、「シークレット ミリタリー(戦略上重要な要塞化された地帯・区域)」が正しいと考えていた。佐世保に資料なし。標石探しに弾みが付きましたなー、今日まで。
下関では、「昔の大砲は役に立たない」と言ったら…大目玉。潜水艦の時代と、B29の時代になる。移動できる小型大砲と弾丸が多く有るのかなー。