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矢上普賢岳・多良見経ヶ岳  平成19年1月

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矢上普賢岳・多良見経ヶ岳  平成19年1月

矢上普賢岳は標高439m。普賢神社と不動明王・白衣観音像が山頂すぐ下の岩場にあり、1,800はある石段登りは有名である。少々覚悟して行った方がよい。参道入口は、矢上交差点から入った侍石に鳥居がある。情緒残る坂道をしばらく歩き、矢上霊園脇からいよいよ石段登りにかかる。この左手に小さな「普賢山道」標石が写真上のとおりある。

中腹の稲荷社までは車道が上がり、車道に出入りしながら、山頂をめざす。石段のすべては昭和12年頃寄進して造られ、数段ごとに遠く高浜村も名のある信者の寄進碑が傍らに建っていた。普賢岳頂上は橘湾の展望を楽しめる。

行仙岳から北西に尾根をとると、1時間ほどでNTTアンテナ塔のあるところで車道に出る。普通はここから東町彩が丘団地へ車道をそのまま下るが、山道が続かないかとNTTアンテナ塔裏手のピークに登ってみた。古い地蔵が大きな樅の木の根元にあって、広場にはあゆみハイキングが2001年設置した「多良見経ヶ岳」の山頂標識があった。彩が丘団地へは、尾根を下る山道が途中まではまだ判然としていた。

江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルートとその図

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江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルートとその図

これは、「長崎の空」277号(平成17年8月)長崎歴史文化協会短信の掲載稿である。
なお、『長崎談叢19輯』の引用文は、関寛斎『長崎在学日記』の原本と相違する字句があり、北海道陸別町同資料館にある原本の写しを、みさき道歩会の研究レポート第1,2集に収録している。

現在までの調査で判明した「みさき道」に関する諸事項

1 「みさき道」は特別なルートの道ではなく、旧来からあった長崎からの深堀道と御崎道ないし野母道をつないだ道である。これに分岐合流する長崎往還・岳路道・川原道等も考慮する。
2 近隣の集落で戦後もしばらく「脇岬参り」や「オカンノン様参り」という、正月や月毎に観音寺参りが行われていた。川原方面から半島東回りコースもあり、明治32年の道標石柱が現存していた。
3 脇岬沖が唐船の入出港経路であったため、「みさき道」や脇岬観音寺の密貿易(抜荷)との関連を言われるが、そういったことを推定できる文献はあまり見られない。
4 道塚を建立した今魚町も同じである。なぜこの町が道塚を建立したか。そして道塚が五拾本あったかは、依然として推測の域を出ない。
5 関寛斎日記に記した道中の「大きなる石」は弁慶岩、「笠山岳」は大久保山、「南岸の砲台」は小ヶ倉千本山にあったとされる砲台と考えられる。「加能峠」やいわゆる「古道」は不明である。
6 貴重な史料となる明治29年2月「深堀森家記録」が見つかり、源右衛門茶屋・鹿尾川渡り・深堀入口の鳥越険坂の状況が判明した。
7 ダイヤランド団地内には、開発前に道塚3本があった記憶談を得た。当時、測量に当られた方に聞くが所在はわからなかった。しかし、「みさき道」は確かにこの団地内を通ったと考えられる。
8 鹿尾川は、現土井首大山祗神社鳥居前で、「渡瀬」(飛び石)であった文献と地図類を確認できた。角川書店「日本地名大辞典」による「渡し場」は表現上の不足を感じ、後コースも疑問がある。
9 これより先、前記辞典の記した土井首村内のコースと、江川までどこを通ったかはまだ確定できないが、ある程度の考証ができる関係資料があり、現在も調査中である。
10 深堀までは、江川河口で二本の小橋渡り、鳥越峠越えして深堀に入った。そして深堀からは伝承がある地蔵が残る「女の坂」古道が街道であり、八幡山峠は大籠新田神社と推測できた。
11 平山台上配水タンク地点が関寛斎日記の長崎道分れ(帰路)となり、蚊焼茶屋は清水が今も流れていることがわかり、蚊焼峠とともに従来言われた地点と違うことが推定できた。
12 一永尾を通り徳道からゴルフ場裏門の道塚に出て、喪失した旧町道沿いに高浜毛首の延命水に下る。これが「みさき道」の本道であり、「岳路みさき道」また川原道との合流地点と思われる。
13 蚊焼から岳路を経由するもう1本の「岳路みさき道」があったと推定された。高浜の町中また古里までの道もほぼ確定でき、堂山峠までも街道の山道を草木を払って復元することができた。
14 これまで他資料による「みさき道」の説明は、観音寺で終わっていたが、関寛斎日記により帰路まで調査を行った。この結果、脇津の蒟蒻屋・観音道・堂山西の野母道などが明らかになった。
15 脇岬海岸にある「従是観音道」の道塚は、元禄十年(1697)建立。ひと昔前の古い道であるが、脇津村古地図にきちんと描かれており、字図調査と現地踏査によりこの喪失ルートを確認した。
16 関寛斎一行が、野母の船場に行き風強く出船なく、この後「野母権現山」に行った(野母崎町史年表)であろうか。漁家喫茶の前に「只一望のみ」とあり、時間的に無理であったと考えられる。
17 堂山西を通り高浜へ出る。これも「みさき道」形成の一つの要路である。今まで不明であった「野母道」を明らかにすることとなる。必ずしも海沿いでないことが判明した。
18 徳道から岬木場を通り、殿隠山・遠見山の尾根道を行く「みさき道」があったか。考えられなくはないが、道の連続がない。字長迫より井上(いかみ)集落などを通り脇岬へ下るようである。
19 国土地理院に明治34年測図旧版地図、県立図書館に明治18年「西彼杵郡村誌」があり、判断の基準となった。また天明七年の大久保山から戸町岳に残る藩境塚を新たに確認した。

(注)この稿は、当会の研究レポート第1集26頁に掲載している。

千々川納手岩三段滑滝  長崎の隠れた名滝

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千々川納手岩三段滑滝  長崎の隠れた名滝

長崎のギネスブック「長崎なんでもNo.1」が昭和63年刊行されている。地形編で、大きい滝は「平間町 滝の観音 落差30m」しか紹介されていない。滝・巨樹・石・景観・古道等の調査が本にはあまりなく、ランクがないので物足りなく感じる。若い人が今後、ぜひこの方面の調査に挑戦してほしい。

「滝」の厳密な定義は知らない。長崎山岳会故臼木寅雄氏は「只見た時の感じに過ぎないので、たとえ二米そこそこのものでも落水有壺で遡行を妨げる崖を拾い上げたまでである」と注釈されている。
氏を取り上げたのは、千々川に関する貴重な記録を私が手元に持っているからである。
長崎山岳会会報「足 跡」No.13/1969.12。「特集…千々川」。

千々川は八郎山系の裏側にあり、橘湾にそそぐ。長崎半島で最大の流域と豊富な水量を有したが、当時は至って交通不便、辺ぴな地域で、遡行を試みる人は稀であった。
長崎山岳会がここに最初に足を入れたのは、昭和32年。それから10年をかけた踏査結果が、会報に「千々川遡行 臼木寅雄 昭和42.10記」として掲載されている。核心部分の記述は、次のとおり。

「八郎川の合流を左に見送り尚も遡行を続けると両岸から支稜が押迫り川筋を扼するようになると突如として一大岩壁が立塞がり滔々として落下する高三十米位の大滑滝が現われる。納手(のうて)岩と云う。右岸を注意して登ればザイルなしでよいが初心者には安全を期してザイルを用いる必要がある」

同会山崎氏撮影の「納手岩滑滝」当時の写真は、上のとおり。普段は水量がなく大雨の後しか出かけられないが、この記録と見事な写真を見て、千々川遡行を若い頃に3度ほど試みた。
現在の千々川は、長崎大水害後、大きく変貌した。川にはコンクリート堤防が何箇所も築かれ、上部宗津地区は地すべり防止工事があって山道が寸断されている。八郎岳を越す大崎林道もできた。

現在は川の遡行はできないが、この滝へかえって行きやすくなっている。滝の上部には前から部落の上水道取水口があったが、千々バス停から農道が奥まで上がり、農道終点手前からパイプを敷設している山道を20分ほど歩くと、取水口の淵に着く。この下流に10分ほど急斜面の山道を下ると滝下に出る。
最近の写真は、梅雨の合間を見計らい、増水した平成19年7月8日、現地へ行って撮ってきた。

私の印象から言えば、長崎市内第一の名滝は、この写真のとおり千々川の落差30mある「納手岩三段滑滝」、次に藤田尾「津々谷の滝」がランクされるのである。

14 茂木砲台

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[所在地:長崎市北浦町]
・海軍海面砲台十二糎砲1門を配置
・赤崎鼻側のダトママ(現在長崎南商高グランド)に2門あったと地元証言あり、調査中
・第一〇二分隊片淵敏夫兵曹長部隊
(一部高谷氏資料から)

13 野母崎権現山砲台・電探基地

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[所在地:長崎市野母町権現山]
・七糎砲を2門配置
・陸軍船舶艇の運航記録に所在あり
・野母崎見張所には、第一〇分隊柏原智少尉の部隊が担当
・横穴壕2基、海軍標柱を確認
・駐車場側は、明治期からの海軍望楼跡。現在は自衛隊レーダ基地あり
(高谷氏資料から)

(追 記 平成20年1月23日)
野母権現山は日山神社北側遊歩道の道脇土斜面に横穴壕2基を見つける。最後の写真のとおり。入口は土嚢により塞がれている。

12 有喜砲台

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[所在地:諫早市有喜町]
・平射砲台短十二糎砲
・地元歴史研究会「宇木会」調査によると、3箇所に分散配置
・日下に砲台跡、七曲に機関砲陣地、小豆畑に機関砲陣地あり
・木下重則氏稿「沈黙の砲台」平成19年5月記録(別項にあり)
(宇木会資料・画像から)

明治32年陸軍省建立「長崎要塞地帯(区域)標」の調査結果

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明治32年陸軍省建立「長崎要塞地帯(区域)標」の調査結果

平成17年12月から佐世保市の高橋輝吉氏と合同調査を行い、現在までの次のとおり標石の現存を確認している。
第一地帯標 確認 6本  第二地帯標 確認 7本  区 域 標 確認 10本 計 23本

この標石の「所在地一覧表」と、調査の資料となった「長崎要塞地帯略図」は上記のとおり。
写真は、四郎ヶ島北側海岸に建つ「陸軍省」「長崎要塞第一地帯標」「第一号」「明治三十二年六月十日」

「長崎要塞地帯(区域)標」の標石が新たに2本見つかる

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今回新たに見つかった「長崎要塞地帯(区域)標」2本の標石

(1)1—A—2  四郎ヶ島小島の小ピーク上  (確認 長崎要塞第一地帯標 第二号)
魚見岳と天門峰に残る明治9年「地理局測点」と同じ測点が、四郎ヶ島東の小島を埋め立てた小島台場跡にも設置された長崎歴史文化博物館の史料があり、平成18年12月にこの現地調査をした。台場跡とこの小さな島の海岸・島内を探した。「地理局測点」の形跡はなかったが、小島には2つのピークがあり、東側突端の低いピークの岩場上に要塞地帯標があった。神の島側内海の釣り人がよくいるコンクリート堤防の上手である。
「長崎要塞第一地帯標 第二号」である。同「第一号」は四郎ヶ島の北側海岸、海道を渡った右手にある。第一地帯標は「長崎要塞地帯略図」に表われず、探してまわるしかない。海道に戻ってこの小島小ピークを眺めてみると、標石の姿は見えて識別できた。何で第一号のすぐ近くにありながら、今までわからなかったか。佐世保高橋輝吉氏も気づいていなく、後日佐世保から来て確認した。

(2)区—特—2 日見配水タンク場上の道脇  (確認 長崎要塞区域標 第二十九号)
山名は「日見山」と思われるが、日見小学校背後の山。上方に水道局配水タンク場が見え、コンクリート坂段が長い直線で上がっている。この取り付きまで日見霊園前から急な車道を登る。びわをレールで下ろす作業小屋があり、中を通って坂段を327段ほど登ると配水タンク場。フェンス左を周回する山道があり、上のピークへ急な尾根道は続き、約5分ほど登った竹林道脇に標石はある。
「長崎要塞区域標 第二十九号」である。「長崎要塞地帯略図」に○印のあった区—1は旧矢上と日見の村界中尾尾根で「第三十二号」、同区—Jは網場金比羅岳山頂で「第二十八号」が現存。双方の線上となり号数も合うが、地図に○印のない地点で探すのは困難だったろう。
この標石の存在を教えてくれたのは、田中町織田武人先生。上の山一帯は日見城址。以前この調査で山に入り知っておられた。タンク場が出丸跡となる。

長崎の標石

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長崎の標石

「長崎の標石」と検索すると、標石関連のHP情報が多く出てきますが、ブログ情報がなかなか表われません。検索を早くするため、記事タイトルを作りました。
「ブログ」検索し、「みさき道人”長崎風来紀行”」をクリックし、このブログの中で「長崎の珍しい標石・石」などの書庫に内容を収録していますから、これで見るようにしてください。

八郎岳の鹿と鰻  熊部 茂男氏稿 (昭和43年記)

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八郎岳の鹿と鰻  隈部 茂男氏稿(昭和43年記)

山の男達の読みものに、何か書いてくれないか、との相談があったが、ご存じの通り、口べた、書くとなると、尚さらの事、しかし山男の皆さんに親しい八郎岳の出来事を、書いてみましょう。

八郎岳は県下でも、有名な野生鹿の生息地である。私は昭和の初期2年間、今は廃校になっている千藤小学校に勤めたことがある。ここでは鹿を毎日見たとは申しませんが、私は狩人さんが取ったもの、百姓さんが、落し穴や、針金わなで、取ったもの、犬に追はれ、山から海に、跳び込み泳いでいるのを舟からいって、つかまえる様子をよく見た。遠足はいつも八郎岳にきまっていたが、ある秋の遠足で輪になって弁当を食べていると、10m位近くの藪から、2匹の鹿が、跳び出して、悠々と、あとをふりむきふりむき、逃げる様子は、人間を馬鹿にしたような気さえおこった。

生徒が下校途中、狭い山道で鹿に会ったと、泣いて学校に引き返した事もあった。冬に雪が降ると、運動場には、鹿の足跡が、点々と残っていたこともあった。肉は時々貰って食べたが、山の中では、他の肉を食べないので、比べるものがないせいか、非常においしかった事を、覚えている。

私はこの学校にいるうちに、鹿の角を手に入れて、記念にしょうと、思うようになった。しかし、誰でも、簡単に気易すく、くれる者はいない。丁度その頃、ある老人が、つづやの滝の滝壺で角を拾った人がいると話してくれた。そこで私も、つづやの滝に一度行って見ることにした。

或る日、4,5人の元気のよい男生徒に、案内してもらった。道は山道と言うより、人が1人、やっと通れる藪道である。正面向いて行くと、草の葉や、木の枝、くもの巣が顔にかかって、はねのけるのに大変だ。滝の近くにかなると、ごうごうと音がする。周囲は大木の杉山で、うす暗いというよりは、相当暗い。水しぶきが、顔にあたる頃になると、滝が見える。30mもあろうか。頂上からの谷間が、野原と山の接点のところで崖になって、そこから弓なりの弧を描いて落ちている見事な滝である。落ちる水は岩にあたって、しぶきになり、飛び散る。その下は青々とした滝壺で、うす気味が悪い。こんな所に1人で来るのは、ぶっそうである。一応これで場所がわかったので、引きあげる事にした。
帰りながら、こう思った。時々来てみよう。そうしていると、何時かは、必ず目的を達する事が出来るであろうと。

4,5日たった。今日は土曜日。学校には生徒は1人もいない。しかし、鹿の角のことを思い出した。自分1人は何だかおそろしいので、若い教頭をさそった。彼は仕事をしていたが、すぐ私の計画に賛成してくれた。角が一対見つかったら、どうしょう。半分に分けたら値打ちがなくなる。よし今度の分は彼にやり、次の分を自分が取ろうと、心に言いきかせて、滝に行くことにした。2人共、頭の中は鹿の角の事ばかりである。元気のよい若い2人だからおそろしくはない。滝に着くや、用意してきた竹竿で滝の中をかきまぜた。何回もかきまぜたが、手ごたえはない。がっかりしたが、つめたい気持ちのよいしぶきに、涼味を満喫した。

長居は無用と、たのしみを後に残して、帰ることにした。滝を下ると横道までの中間は大木の杉山があり、少々暗い。道に近づくと明るくなって、石ころの間から、水が流れているのが見える。一足先に下っていた教頭が、あら鰻だと、びっくりした顔で叫びます。指さす方を見ると、元気のない鰻が、のろのろと草の上をはい廻っている。鰻は水さえあれば山の上にも、のぼって来ると聞いた事があるが、こんな所にいるのは始めて見た。鰻を見るや否や、反射的につかまえた。それを私がつる草で、えらぶたから口に通して獲物にした。大変うれしい。すこし下ると、今度は又、何匹かが草の上、石ころの上を、のたうちまわっている。2人は考えるひまもない。
ただ本能的に手足を動かし、10匹以上もつかまえた。次々とかづらに通して、この重い獲物にがい歌をあげて、学校に引きあげた。早く帰って食べる事だけを考えて、足も軽く走り下った。

早速2人で、料理に取りかかる。子供の時に、川で釣った鰻を料理した経験があるので、まな板に鰻の背を上にしてのせ、頭を錐でさし押さえ、包丁を背骨に沿って走らすと、尾までさける。
こう申すと、易しいようであるが、鰻はあばれる、包丁は錆ついて切れぬ。何度も磨いだが、鰻はべとつく。なかなか口のようには、さばけぬ。しかしだんだん慣れてきたのと、鰻が死んで動かぬようになったので、あとは楽に料理が出来た。
これからが、かば焼きである。部屋の中では暑い。学校の裏の山から枯小枝を拾って、運動場の真中で、燃やして金網をかけ、その上で何回か裏返しながら、砂糖醤油をつけて焼いた。即ち之が鰻のかば焼きである。

学生時代、街を歩いていると、かば焼きの香を、空腹の時、よく嗅がされたものだ。こんな事を思い出しながら、次々と焼けるのをがぶがぶ食べた。腹一杯食べる事を茂木ではあわぬものにおうたようにと言うが、正にその通り。しかしまだ半分以上も残っている。もったいないなあと、眺めていると、ごぞごぞと、足音がする。見ると、いつもの顔なじみの百姓さんが、5人程やって来た。先生何事ですか、よか香のするけん上って来たと、申します。えらいもんだ、あんな所まで鰻のかば焼きの香がするのか、丁度よかった。鰻のかば焼きですばい、さあさあ、食べまっせと、差し出すと、大変よろこんで、無我夢中で食べた。

一息つくと、こんな話をしたのである。畑仕事をしていると、山の中から鰻のかば焼きの香がする。始めは山の炭焼さんが、為石からハモでも買って来て、焼いて一杯やっているのだろうと、よか香で腹がぐうぐう鳴った。いつまでもとまらぬ。そのうち学校の方向から煙があがっている。これは何事かある。火事じゃないが、土曜日の午後2人の仲のよい若い先生が、何かごちそうを作っている。行って一緒に一杯やろうと、相談してやって来た。これは珍らしい。やって来てよかった。これはうまか、これはうまかと、次々にたいらげて、満腹すると、これはどうした鰻かと申しますので、一部始終を話しました。

すると、何事もないのに、鰻が露地に出てくる事はない。そう言われると、ふにおちない事ばかりである。ちょっと考えていたが、1人がそんなら毒流しだと申します。しかし誰もいない。いや丁度毒流したところに、2人が、ばさばさと音をたてて来たので、逃げたのさ。今度はこちらが恐ろしくなった。2人は毒流しはしない。毒流しの鰻を食べて体にあたらぬか。教師が毒流しだと知らなかったか、何だか心配である。この人々の話を総合すると、どうも毒流しである。食べた7人の腹は未だ変調はない。そこで、現場にもう一度行って、確かめる必要がある。駐在所もあるので、報告しなければ。若い2人の百姓さんと4人で現場にかけ上った。

鰻を食べた元気もあって、思ったより早く滝の下の鰻のいた場所についた。あの時は目につかなかったスボ鰻(赤ちゃん鰻)や川えびが白くなって死んでいた。確かに毒流しであった事がわかった。
それにしても犯人は誰か、わからない。結論はこうである。誰かが毒流しをした時に、私達2人が来た事に気付いて、いち早く逃げた。それで獲物は私達のものになった。これは駐在所に知らせておくべきだと、申しますので、百姓さんに引受けてもらった。しかし、心配は腹だ。毒がまわって、死ぬような事はなかろうか。教頭さんも下宿に帰らず、2人で宿直することにした。ねむれぬ。

夜が明けるのが遅い。…夜が明けた。日が照った。10時頃であったか、おなじみの巡査さんが、にこりとしながら、先生、おりますかと、挨拶して宿直室に入って来られた。昨日はごちそうでしたげな、…腹はどうもありませんか。ええ、どうもありません。毒流しの方はどうなりますかと、おそるおそる尋ねると、山の中には、よく他所から悪い奴が、やって来て毒流しをしますが、なかなか、つかまりません。今度も、そうですたい。よかよか、先生方は、うまかっただけ、もうけでしたい。あっあっはぁ、…心配せんでよかですばいと、申されましたが、ほんとうに、あと口の悪い事でした。
ついに鹿の角の記念品は、手に入らぬまま、茂木小学校に転任した。

(くまべしげお氏)
茂木北浦名生れ。初代小島中学校など経て記の当時長崎市中央公民館長。37年の教職生活では、茂木・福田など市周辺の学校もくまなくまわられ、地元民や生徒との暖かい交流の話の数々は、ほほえましい。これは干藤小(現在廃校。今の干藤トンネル近くにあった)勤務時代の思い出で、昭和初期の頃の八郎岳と滝の様子を知れて面白い。
画像は、津々谷の滝とその滝壺。増水していた平成19年7月11日撮影。

(昭和43年8月発行 部報「よちよち」No.14掲載)