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仁田木場にある円形コロシアムの畑地

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仁田木場にある円形コロシアムの畑地

西山台から仁田木場へ行く。集落の中心に来ると右手へ西山木場に下る市道があり、ここから500mほど下ると、道路下にこの畑地が写真のとおり見える。
直径50mくらいのやや楕円形。真ん中が低い。ギリシャの円形コロシアムか高知や徳之島で盛んな闘牛場のような姿をしている。長崎で言うならお宮日の踊り場にまるでそっくりであろう。中が舞台、周りは高く取り囲んだ観客席だ。

ここを車で通るたびに、前からいつも感心していた。中のハウスは前はなく、平地となっていたのでなおさらである。自然の地形が単になせたものか。あるいは集落が昔なにかそれらしき行事をしていて築いたものか。さまざまに思いがふくらむ長崎の山上にある風景である。

多角点・・・大草高岩神社上の農道

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多角点・・・大草高岩神社上の農道

最近の新しいコンクリート石柱。「多角点」とあった。多良見普賢岳から大草へ下る。山道が切れ急なコンクリート舗装の農道を下っていたら、その大カーブ地点にあった。この下は高岩神社で、神社へ下る坂段道が直進していた。

上西勝也氏インターネットサイト「三角点の探訪」によれば、「地方自治体などが行う公共測量では多角測量のほうが三角点測量よりも普及しています」とあり、地元の簡便な公共測量に使われた「多角点」のようである。

岩屋山にあった境塚と式見「遠の木場道」の境塚

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岩屋山にあった境塚と式見「遠の木場道」の境塚

平成19年5月、滑石4丁目の農道改修記念碑のあるところから急な尾根を岩屋山に登った。この道が現在、同町多以良初見宅の庭に横たわる「右志きみ 左てぐま」標石の「左てぐま」道の旧道と思われる。
岩屋山の山頂近くとなり、特徴ある尾根上に写真のとおり境塚と思われる石組みを1つ見た。滑石・手熊の当時の村境と考えられる尾根である。

私にはあと1つ、気にかけている場所がある。昭和61年刊「式見郷土史」163頁、陸上交通(三)往還の項に、次のとおり記述が出てくる。
(3)遠の木場道
間役所(現長崎市式見支所)門前より亥(北西)の方箱石峠を経て平山、畝刈村境塚まで二七町一七間(約三粁)牛馬の往来がよく坪山を下って遠の木場に至る。

これはその前(二)境目巡検に、「永禄六(一五六三)年櫁越前守は馬で家従源左ヱ門を随え、領中の境目をことごとく巡検した記録がある。領内の部落から部落への里道や、村境を明確にするための境界道などは、当時、既に開発されていたものと考えられる」とあるとおり、永禄6年(1563)の記録で、遠の木場道に「畝刈村境塚」なるものがあったというのである。

このあたりは、滑石トンネルを抜けて矢筈岳に登る山道があったが、「あぐりの丘」への取り付け道路が次々にできてわかりにくくなっている。しかし、一度は出かけて「境塚」が残っていないか調べてみたい。この参考に岩屋山の尾根に見た境塚と思われるものがなるようである。

烽火山にある古い「七高山道」「普賢瀧道」「長崎市境」の標石

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烽火山にある古い「七高山道」「普賢瀧道」「長崎市境」の標石

写真上から

「七高山道」「従是七面道十一丁」「天明八戌申三月吉日」
妙相寺から秋葉山神社に上がり、烽火山へは右側の山道に入る。すぐそこにある。昔から正月行事として慣習のある長崎の七高山めぐりの案内標石と思われる。
「長崎古今集覧」の七面権現祠に次の記述がある。「長崎記云、七面権現ハ中川村二在リ○馬場村ノ街道二本杉ヲ数歩行テ、左ノ農家ノ端角二路アリ、是即放火山ノ路也、此処二七面山十二丁ト石碑建チ有之」。二本杉とは今のシーボルト通り入口あたりだが、この石碑はない。この標石と同じようなものでなかったろうか。
「長崎市史」に記す「文政六年 江戸麻生 小岩井正甫建 右七面山道」の碑は現在、田尻米穀店の角に明治17年再建されたと思われる新しい碑がある。

「普賢瀧道」
七面山境内の中ほどの参道脇にある。この標石どおり左の小道に入ると小沢に出る。ここにある瀧の案内標石と思われる。この道は片淵中から健山の山腹を上る烽火山登山道に竹林内で合する。この目印標石ともなる。

「長崎市」「境」
最近の長崎市有林の境界標石は、すべてコンクリート製で味気がないものになっている。その中でこれはまた、いかにも風格のある古い標石であろう。「長崎市」とだけあるが、市有林の境界標石と思われる。場所は先の秋葉山から烽火山の登山道を行き、植林地に入って山頂への最後の急な登りにかかる。その道脇に1つだけ見た。
なお、これと全く同じ造りの境界標石を、稲佐山の飽の浦峠尾根道でも見つけている。

網場道にある国土交通省「道路ルート 長崎街道」地図の不可解

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網場道にある国土交通省「道路ルート 長崎街道」地図の不可解

網場道バス停すぐ脇の歩道上に平成14年3月、国土交通省九州地方整備局長崎工事事務所が設置した「日見峠道浪漫」の立派な大きな説明板がある。「道路ルートいま、むかし」として昔からの道路ルートの変遷を地図に色分けして記入している。

日見峠越えする当時の「長崎街道」は、写真のとおり緑色のルートで地図上に示されている。このルートは日見トンネル西口から日見峠のあたりの記入を誤っているのでないだろうか。同地図は現長崎河川国道工事事務所HPにも使用されている。
再監修をお願いしたい。皆さんへも判断をしていただくため地図を掲げた。

あまりこういったことは言いたくないが、長崎大学附属図書館のパソコンで見られる「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」や、東山手にある長崎市古写真資料館に展示している古写真も、撮影場所のタイトルや説明文に、実地を調査してみて明らかな間違いと思われるものが見られる。
誰かが指摘しなければわからないと思い、関係当局へ知らせているが、なかなか対応が遅い。

(追 記  平成19年8月22日)
長崎河川国道工事事務所へ先般電話していたところ、平成19年8月13日、同説明板の地図は修正したと返答をもらった。同22日現地へ確認に行ったら、後の写真のとおりHPもなっていた。少し乱暴すぎる。参考のため日見トンネル東口にある説明板ルート図も掲げる。

(追 記  平成20年5月18日)
日見の散策のため平成20年5月18日、現地を再訪する。同説明板を確認したところ、最後に追加した2枚の写真のとおり「長崎街道のルートは長崎県教育委員会の資料による」として、長崎街道の緑色のルート図は張り替えられていた。
同地図は現長崎河川国道工事事務所HPにも使用されているが、これは修正されていない。困ったものだ。現地説明板の不可解な問題は解決したが、今後このようなことがないようお願いしたい。

田上にある「いなり志んじやみち」の標石

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田上にある「いなり志んじやみち」の標石

平成19年7月20日午後6時近く、三景台から田上交差点の方へ直接出る近道の狭い車道をバイクで下っていたら、田上近く家の前の広い駐車場の真ん前に地蔵と石がポツンと立っていた。写真は上のとおり。自然石は平仮名と漢字まじりの字があり、最後は埋れているが「みち」である。

写真を撮っていたら、先隣の家の年配の人が窓を開け、「これは何の石ですか」と聞く。聞きたいのはこちらである。地元でも書いている字の意味がよくわからないからであろう。とりあえず写真に収め、自宅に帰って考えてみることとした。

今、パソコンにより字を拡大し、5分ほどしてわかった。普通どおり縦に読んだら駄目である。これは左下がりの斜めに読む。そうすると「いなり志んじやみち」となる。乙な配列の字を刻んだ古い造りの道案内標石である。珍しいのを見つけた。
バイクは通り過ぎわからなかった。市内地図で確認すると近くにたしかに「稲荷神社」があった。右上へ上って行く道なので、方角も字の向きで指しているのかも知れない。

長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ)第4集」22頁によると、「稲荷神社道石碑」とし「※(いなり志んしゃみち)」と読んで紹介していた。寸法は、440×400×950mm。

2−J 埋設で番号不明の「長崎要塞第二地帯標」 星取墓地公園道脇

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2−J 星取墓地公園道脇 (確認 長崎要塞第二地帯標 下部埋設番号不明)

略図では小ヶ倉村境に描かれている。「2−特」大崎林道鹿尾町尾根で、略図外の標石が見つかったため、風頭町と線を結び、星取山に間違いないと推定して調査した。
長崎統制無線中継所そば三角点270.0mと二本松側尾根には見当たらない。戻って星取バス停側の大カーブ地点から山頂へ以前の山道を歩いたが中継所で途切れ、ここにもなかった。その帰り星取墓地公園へ道が分かれていたので墓地に入った。

この墓地道脇の肩の高さの石垣上に、標石が頭を覗かせていたのを高橋氏が見つけた。下部は石垣と土に埋め込まれている。他の標石と異なる立派な白御影石である。21cm×17cm角。地上上部35cmの刻面は「2ndZ 長」「第」「陸」「明治三」だけしか読み取れない。勝手に掘り出すわけにいかず、現在、高橋氏が墓地(大正寺管理墓地)管理者や長崎県と交渉中だが埒があかない。近くには基準点があった。

なお、地元の話でここは昭和30年代クレー射撃場だったらしい。墓地の南東下は送電塔が建ち、根元の木立の中に石を積んだ古い境塚のようなもの(庭石の野積みか?)もあった。

神ノ島周辺にある「長崎要塞第一地帯標」と「陸軍」の標石

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神ノ島周辺に見られる明治32年建陸軍省「長崎要塞第一地帯標」と「陸軍」の標石の所在は、次のとおり。

1−A   四郎ケ島北側海岸 (確認 長崎要塞第一地帯標 第一号)
神ノ島から四郎ケ島へ繋ぐ佐賀藩が築いた大石積みの海道約270mは、コンクリートによって護岸され、これを渡りきってすぐ右手海岸の岩の上に建っている。岩自体も少し高く、神ノ島側を向いており、神ノ島側からすぐ望見できる。

1−A−2 四郎ケ島小島の小ピーク上 (確認 長崎要塞第一地帯標 第二号)
平成18年12月に追加して発見。四郎ケ島の東に台場のため埋立てられ陸続きとなっている小島は2つのピークがあり、左の低いピークの岩場上にこの標石がある。釣り人がよくいるコンクリート堤防の上手である。先の海道からもピークの頂上に識別できる。

1−B   同上海岸神ノ島側 (確認 長崎要塞第一地帯標 第二十九号)
四郎ケ島の標石のちょうど対面となる。海道にかかる道のすぐ右脇となるが、竹が密生した中にあるので気をつけて探す。上の小高いピークにも佐賀藩砲台があった跡がある。その入口道である。

1−C   小瀬戸の天神天満宮裏畑地 (確認 長崎要塞第一地帯標 第七号)
長崎市小榊支所の左から裏手の道に入り、広い墓地の中を通り上る。小瀬戸遠見番所の中番所跡で、今は天神天満宮が祀られている。その背後の畑地の中に建つ。みなと坂団地から行く方が近い。神ノ島の全景がよく見える。

1−Bの要塞地帯標近くにある「陸軍」「防二」の標石
1年ほど前、同要塞地帯標を見に行ったとき、偶然にこの標石をすぐ近くで見つけた。海岸の石にまぎれて頭だけ見せていた。掘って字を確認すると「陸軍」「防二」と読めた。大きな角柱で白御影石。高橋氏によると「防衛条例」により設置された標柱らしい。

神之島修道院墓地奥にある「陸軍」の小さな標石
神ノ島の突端、四郎ケ島に渡る手前に数軒の集落がある。山上にある神の島公園から下ると、集落にかかる前に右上の墓地に入るコンクリート道がある。神之島修道院墓地で規模は大きい。墓地の一番先の方まで行ける道があり、墓奥を探すとこの標石がある。陸軍用地境界標と思われる。

矢上「滝の観音」  県指定「名勝文化財」第1号

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矢上「滝の観音」  県指定「名勝文化財」第1号

平成19年7月20日、矢上の平間町にある「滝の観音」を訪れた。長崎の滝のランクづけで、滝の姿を確認する必要があったし、2箇所の「たきみち」標石の写真撮影もあった。昭和57年長崎大水害で寺も被災に合い、復興後を見るのは初めてであった。
拝観料200円を賽銭箱に入れる。代りに置いてあった「滝の観音」小縁起から参考となる部分を、境内の撮影写真とともに紹介してみる。

弘法大師と滝の観音
弘法大師は西暦八〇六年、唐の留学を終えて帰朝のついで、この地に立ち寄られ、滝水をご覧になり、大悲示現の霊地なりと、親しく加持の妙法を修され、さらに水観音の梵字を滝の懸崖に記して末代衆生の為に結縁なされた、と古書は伝えており、当山はわが国最古の霊場である。その霊験あらたかな事は古来よく知られるところである。梵字は今もなお霊瀑中央の水苔深い所に跡を留めている。大師の尊い結縁により、当山は「滝の観音」の通称で世に親しまれているが、正式には長瀧山霊源院と称し、禅宗の一派黄檗宗に属している。それ以前に長瀧寺という真言系の寺が在ったかに口碑は伝え、今も之を忍ばせる字名が近隣に存在するが、確かな資料はなく詳細については不明である。

明治以後
…昭和五七年七月二三日夜、二九九名の犠牲者を出した集中豪雨が長崎県南部を襲った。当山も二基の石橋を始め鐘堂や庫裏の全壊流出、渓谷の崩壊や山林の山抜けに遭うなど、境内は一夜にして瓦礫の山と化した。しかし、観音堂が床上一尺に達する氾濫に遭いながら、唯一難を免れて「波浪不能没」を堅持したのである。じつに不思議という外はない。復興は地元はじめ全国的な募財と県市当局の助成を得て、総工費四億円、五年間にわたる大事業であった。…

<渓中の風光十景>
一、第一峰門から伏樹門に至る幽すい。 二、伏樹門。樹齢不明。どちらが根か判らず、故に不思議門ともいう。 三、壺天にそびえ立つ仁王門。 四、竹林の情景。 五、羅漢橋、普済橋を中心とする渓流。 六、観音堂前庭の五重塔や観音石仏群、四天王像のたたずまい。七、三十米の滝。人里で固有の名称がない滝は国内唯一と云う。 八、滝つぼ周辺の涼景。 九、対岸山中の羅漢群像と観音石仏。 十、羅漢山から見る滝の遠望。
右は四季折々に情景を変えて参客を先心の思いに誘う郷土の小秘境である。

また滝の観音名物の「普茶料理」と称する伝統三百年の精進料理は、風格ある当山の禅的風致によくなじみ、無形の文化財という可きであろう。(七名以上、要予約。095−838−3701)