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南新川と水神社の由来  うきは市吉井町 ( 福岡県 )

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南新川と水神社の由来  うきは市吉井町

現地説明板は、次のとおり。HP「古賀河川図書館」> 碑文が語る筑後川から引用した。現地には国道210号うきは市上吉井交差点などから北に入る。

碑文が語る筑後川(192)

南新川の由来(五人の庄屋たちの活躍により完成した川)

南新川の由来
碑 銘  南新川の由来
建立地  福岡県うきは市吉井町
建立日  ——————
建立者  うきは市吉井町

筑後川の水は大石・長野の堰の開鑿以来、今では、17.49?/sを取水可能となり、2250haの耕地を潤している。大石堰の取水口から、水は長野神社境内地をサイホンでくぐり、角間地点において、大きく北幹線、南幹線に分水され、南幹線は南新川を形成する。南新川は主に吉井町内を流れ、素晴らしい水景を創りだし、巨瀬川と古川に注ぐ。その南新川の由来が、次のように、建立されている。

「南新川の由来(五人の庄屋たちの活躍により完成した川)
この川は、江戸期初頭、旧江南村に住んでいた五人の庄屋たちが思い立ち、この地域の村人と一緒に造り上げた人工の川です。新川が出来る前のこの地域は、周辺の川の水位より土地が高かったため、水が思うように使えませんでした。そのため7、穀物の収穫量も少なく農民の飢えを見兼ねた五人の庄屋たちは、筑後川の水をどうにかして引き入れようと話し合い、ここから10キロ離れた筑後川上流の大石に取水口と西部へ水が流れる用水路を造る工事の嘆願書を久留米の有馬藩に出しました。この嘆願書には「工事の費用は、五人の庄屋が全部受け持ち決してお上にはご迷惑をかけませぬ。」と書かれていました。
1664年1月11日に工事が始まり長野村の入り口には五人り「はりつけ台」が建てられ、これを見た人々は「五庄屋どんを殺すな」とばかりに老人、女、子供までがこの水路工事にかかり、約2ケ月という短い期間で人工の川(南新川)が完成しました。南新川とうきは市の北部を流れる北新川は、西部の田畑を潤します。新川は田畑だけでなく、その水源を利用した水車や唐臼が造られ、精米、製粉、また製麺、酒造、櫨蝋や菜種油等の工業も支えました。それらは久留米と日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えた吉井町の商業にさらなる発展をもたらしました。また、新川の水は吉井町中の小さな用水路としても流れており、人々の防火・生活用水としても活用され続け、今もこの地域を潤しています。」

碑文が語る筑後川(193)

この川(しん川)の由来

碑 銘  この川(しん川)の由来
建立地  福岡県うきは市吉井町(吉井小学校校門前)
建立日  −
建立者  −

1664年大石・長野堰が開鑿され、その用水が吉井町を貫流し、南新川と呼ばれている。そのしん川は、吉井小学校の前を流れている。小学生は登・下校の時に、この川を渡っている。校門の前に、その碑が建っている。

「この川(しん川)の由来
今から三百年前ほど前の浮羽地方の土地は非常に肥えていましたが、土地が高く水に乏しいのでひでりのため作物がみのらず、が死する人がたくさんあってこまっていました。五庄屋はどうかして、これを救おうと思い立ち久留米藩主有馬候に筑後川の水を引き入れる工事を願い出ました。しかし、藩主は工事の容易でないことを思われて、なかなかおゆるしになりませんでした。
そこで、五庄屋は死を決して嘆願し「もし事が成就しなかった時は、私共五人をお仕置きください。」と申し出ました。そこで長野の土手に五つのはりつけ台が立てられ工事が始まりました。郡内の人は、なさけ深い五人の庄屋を殺してなるものかと昼夜一生けんめい働き、女、子どもまで手伝って木や石をはこび、こんなりっぱな川ができました。
それまでは、水が少なく作物がとれなかったこの地方もこの川の水のおかげでどんなひでりの年でも田うえができ、収穫の多い土地になりました。これは五人の庄屋と村人たちが心を合わせ必死になって力を盡したからです。これから二キロメートルばかり東の方に五庄屋をおまつりした長野水神社があります。その又二キロメートルばかり東の方に筑後川の大石堰があり、そこからこの川の水を引いています。」

碑文が語る筑後川(194)

水神社の由来

碑 銘  水神社の由来
建立地  福岡県うきは市吉井町
建立日  −
建立者  うきは市教育委員会

うきは市吉井町には、大石・長野堰から筑後川の水が引かれ、その水は南新川を造りだした。その南新川の流れは、素晴らしい親水空間を創りだしている。南新川のほとりに水神社が建っている。

「水神社の由来
この水神社は、吉井町で最も小さい九尺二間の拝殿と、奥の神殿は石祠という昔ながらの素朴なたたずまいですが、吉井町を東西に貫通する用水路(南新川)の要に位置する大切な川の神様で、日々の暮らしや生産流通に深く関わって、長く地域の人々の尊崇を集めてきました。
水神社を包むように流れる水路が掘られたのは、三百年以上も昔。当初は灌漑用でしたが、すぐ生活用水にも利用され、防火用や水上運輸にも重宝されました。やがて、水車を回して新しい動力エネルギー源となり、数々の新興産業を育てては、吉井町の富と文化を生み出してきました。その一方では、恐ろしい水害や悲しい水の事故をも齎しました。
人々は川に感謝し、川を恐れ、川と大事にふれあうことの大切さを知り、それを形に表すため、この水神社を祀って天保十三年(一八四二)秋に建立したと伝えられています。この一帯の地名を「金川」といいますが、「金を生み出す川」から、名づけられたという説もあります。    うきは市教育委員会 」

志波村控石  朝倉市杷木町久喜宮 ( 福岡県 )

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志波村控石  朝倉市杷木町久喜宮

HP「筑前 国境石散歩」その他の筑後境国境石による説明は、次のとおり。国道386号原鶴温泉入口交差点先の「道の駅 原鶴 ファームステーション”バサロ”」東隣り民間会社前庭に道路側を向いてある。

志波村控石

文 字
不明 
不明
志 波 村 抱
場 所
志波村(現朝倉市)にあった石であることは間違いないのですが、どこにあったものかは不明だそうです。
旧杷木町(朝倉市)は豊後と筑後に接していましたが、志波村は筑後境側です。
現在は、朝倉市(旧杷木町)の民間の会社の前庭にあります。
備 考
控石だと思います。
肝心な2面が読めません。いつも思うのですが、家に帰って画像でみると読めそうなんですが…

山田堰水神社の大クス  朝倉市恵蘇宿 ( 福岡県 )

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山田堰水神社の大クス  朝倉市恵蘇宿

現地説明板は、次のとおり。国道386号が杷木町へ入る手前、恵蘇宿バス停近くに山田堰水神社はある。後ろの写真は、国道対面の恵蘇八幡宮の大クス。

県指定天然記念物  水神社の大樟
県指定 昭和38年1月16日  所在地 朝倉郡朝倉町大字恵蘇宿
朝倉町恵蘇宿の恵蘇八幡宮と国道をはさんで反対の筑後川よりの本流から山田大堰による堀川への水取口水路の上に祀られている水神社の境内、社殿右側に聳立した老樟樹である。
この樟は社殿建築の際、約2m程度埋め立てられたもので、恵蘇八幡宮の樟に匹敵するものと思われる。
胸高幹囲 8.2m  樹高  21m
枝張り東西南北それぞれ16、7mで勢力旺盛な樟樹である。
福岡県教育委員会

山田井堰と切貫水門  朝倉市山田 ( 福岡県 )

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山田井堰と切貫水門  朝倉市山田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道386号が杷木町へ入る手前、恵蘇宿バス停近くに山田堰水神社がある。

山田井堰 やまだ
朝倉市 筑後川→堀川用水 取水堰(斜堰) 長176.6m,幅47m 寛政2(1790)→明治35(1902)嵩上げ 現地解説板 経年的に原形復旧されてきたが、平成10に空石→練石に改修 (現地石を使用) 筑後川四大用水の中で、最古・最大の用水の取水堰/国内に残る大型の広い幅をもつ平坦な石堰 3 B

切貫水門 きりぬき
朝倉市 山田井堰→堀川用水 水門+トンネル水路 長20m,1.5m角の断面→ 3m角の断面 享保7(1722)→
宝暦9(1759)断面拡大 国史跡 文化財指定書 水門はコンクリート改造(一部石材が残る)/内部の素掘トンネルは見えない 山田井堰で分水した用水を、右岸の岩礁をトンネルで抜いて送水(古賀百工:古賀

農林水産省HPの「水土里の四季」による説明は、次のとおり。

日本で唯一の石畳堰「山田堰」(福岡県 朝倉市)
地域の概要
筑後川の中流域に位置する朝倉町(現朝倉市)は、現在では肥沃な水田地帯ですが、かつては谷間から湧き出る小川等の水を利用したわずかな水田があるだけで、湿地や原野、凹凸や傾斜の激しい石ころまじりの砂地が広がる地域でした。1663年、筑後川から水を引くため堀川用水が作られ150町余りの水田が開かれましたが、年を経るに従い取水口に土砂が堆積し干ばつ被害を受けるようになり、1722年取水口の変更工事を皮切りに改良を繰り返し、1790年、堀川の恩人と呼ばれる古賀百工により筑後川を斜めに堰き止める、日本で唯一の石張堰である山田堰が誕生しました。山田堰は三連水車、堀川用水とともに国指定史跡に指定されており、これら施設とともに現在も地域農業を支えています。

地域の保全のための取り組み
朝倉町には、山田堰、堀川用水、三連水車等国指定史跡となっている農業用施設が数多く現存しています。これら施設は、現在も農業に多大な役割を果すとともに、先人の築いた歴史や文化を今に伝え、水と緑に囲まれた自然を保持し、後世に残すためのシンボルとしての役割も果しています。山田堰は、1790年、現在の井堰の基本が出来て以来、数度の改修工事を経て今日に至っており、最近では農業用河川工作物応急対策事業により平成10〜11年に改修が行われ、その際にも石畳を思わせる石張りコンクリート構造で改修が行われています。

交通アクセス
(ア)JR久大本線「筑後吉井駅」からタクシーで約15分(約7km)
(イ)大分自動車道・朝倉ICから車で8分(約4km)

朝倉市HPの観光情報による説明は、次のとおり。

山田堰(やまだぜき)
江戸時代前期寛文3年(1633)筑後川から水を引き150haの新田が開発されました。その後更に開田をすすめ水量を確保するため取入口を変更し、岩盤をくり抜いた切貫水門となっています。
寛政2年(1790)に至り、筑後川いっぱいを堰き止める石堰を築造し水量の増加をはかりました。
表面積7688坪(25,370㎡)の石堰も、明治7年、明治18年、昭和55年の洪水で崩壊するなど幾多の試練にあいながら、今もなお昔の面影をとどめて670haの美田を潤しています。この山田堰の工法はペシャワール会によってアフガン復興支援の灌漑用水モデルとして活用されています。

【旧朝倉町史より抜粋】

「千年川の水猶あるも利水の方法を知らず」「いかにかして灌水の供給を得んとは久しき間の懸案なり」と嘆き、待ち望んだ筑後川からの取水は、寛文三年(1663)に着手し翌四年に完成しました。以来、今日まで両筑平野の農業に画期的な役割を果してきた山田堰堀川の取入口は、前出の「御普請記録」に

上座郡山田村恵蔵宿切貫水門より、下座郡迄堀川ができた約まりは、その昔木村長兵衛、魚庄五郎右衛門の宰判にて、寛  文三郎年より同門年の巻掛け成就致し婉と相聞え侯。其頃の水門は今の切貫水門より拾弐問下に帽川口これ有り、水門唐  戸は塩蔵ハ幡宮の前(今土橋これ有り壱番井樋の所也)然らば横二間、高さ五尺、長九聞、戸前二枚にして、始め木唐戸に仕調。云々。
とあり、当初筑後川から堀川への取入口は、現在の水門から一二間下流の地点であったようです。

筑後川から水を引くためには本流を堰き上げる工事が必要でした。宝暦七年(一七五七)に画かれた上座・下座郡大川絵図を見ると、現在の石堰尻の深渕にあたる所に「鳥居岩」という岩礁があります。(この岩は後年の洪水で流失したか、山田坂犬改修の際取り除かれたものか現在では無くなっています)

筑後川の流れは上流志波高山方面から北に向って、天智天皇ゆかりの「秋の田」旧跡の下辺をゆるやかに湾曲して流れ、恵蘇山の突端、現在水神社境内の大楠のある高台に向っています。そしてこの高台が「水ハネ」の作用をし、流水は対岸の筑後国小江村へ打ち寄せ、従って「鳥居岩」から番屋にかけては、巻き寄せの中洲のようになっていたと推測され、その鳥居岩と番屋側の高台を結んだ地点の間を、乱杭を打ち、土俵や石を投じて堰き上げたものと考えられます。

堀川ができた寛文三年から約六十年後の享保七年(一七二二)に、切貫水門か出来るまでは、この地点から取水を続けてきたものであり、筑後川の急流に堪え得る構造であったか、若しくは洪水による流失・復旧を繰り返してきたものかは記録がなくて不明であるが、下流一五〇町歩の灌漑ができるだけの水量を保てる構造ではあったものと考えられます。

堀川のはじめの開田面積一五〇町歩程度では、五十二万三千石の禄高である福岡藩の、新田開発奨励策から見ると僅少であり、計画に誤りがあったのではないかという説もありますが、取水できたから即日開田ができるものではありません。小松原や荒地等はこれを開墾しなければ耕地にはなりません。開墾には相当の年月を要するものであり、毎年少しづつ開墾して行ったものと考えられます。かりに反当り二石の収量があったとして一五〇町歩では三千石の増収となり、筑後川から取水し一元〇町の水田ができたという事は、その波及効果とともにまさに画期的な大事業であったといえます。

朝倉揚水車(菱野三連水車など)と堀川用水  朝倉市菱野 ( 福岡県 )

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朝倉揚水車(菱野三連水車など)と堀川用水  朝倉市菱野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。筑後川右岸の県道14号沿いにあるので、比良松交差点などから案内板により入る。

朝倉揚水車(菱野三連水車、三島二連水車、久重二連水車) あさくら
朝倉市 堀川用水 木水車(3基) 径7.76m+4.30m+3.98m,幅1.50m (3連) 天明8(1788)以前 国史跡 文化財指定書 復元/観光地化(6月中旬〜10月中旬まで稼働) 堀川用水は流速も早く水量も豊富な用水であったため、上流部には揚水車が設置された 2 A

農林水産省HPの「各地に残る水土里の足跡」による説明は、次のとおり。

田んぼのSL「朝倉三連水車」

地域の概要
筑後川の中流域に位置する朝倉町(現朝倉市)は、現在では、日本米づくり百選に選ばれた肥沃な水田地帯となっています。しかし、かつての筑後川は、たびたび干ばつや氾濫を繰り返し、豊富な水の供給源である一方で人々を干ばつ等に苦しめてきました。
江戸初期1663年、筑後川から水を引くため堀川用水が作られましたが、膨大な水を汲み上げるためには足踏み水車では限界があったため、1789年、地域の人々は工夫を凝らし水流を利用した自動回転式の揚水車である三連水車を作り上げました。朝倉町(現朝倉市)には、この他にも三島二連水車、久重二連水車があり、堀川用水とともに国指定史跡に指定されています。朝倉町(現朝倉市)の水車群は毎年6月中旬から10月下旬まで回っています。

地域の保全のための取り組み
朝倉町(現朝倉市)には、三連水車、山田堰、堀川用水等国指定史跡となっている農業用施設をはじめとし、数多くの史跡が現存しています。中でも三連水車では、町おこしの一環として三連水車まつりが行われており、毎年町内外から1万人以上の参加者で盛り上がる真夏の風物詩となっています。
三連水車周辺は、水環境整備事業等により農業施設としての機能維持はもとより、住民や見学者の憩いの場、都市住民とのふれあいの場として改修や環境整備が行われ、自然環境保全や水車の町朝倉のイメージアップ等の役割を果しています。

交通アクセス
1.JR久大本線「筑後吉井駅」から車で約10分(約5km)
2.大分自動車道・朝倉ICから車で5分(約2.5km)

下古毛観音堂のクスノキ  朝倉市古毛 ( 福岡県 )

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下古毛観音堂のクスノキ  朝倉市古毛

HP「人里の巨木たち」全国巨樹探訪記 福岡県によるデータは、次のとおり。朝倉市の東部。国道386号古毛交差点から南へ入る。朝倉市国保直営診療所前を通ると、右手の集落に大クスが見えるので、この先の四つ角から右折すると、下古毛観音堂に着く。

下古毛観音堂のクスノキ

名称の典拠 なし
樹種 クスノキ
樹高 30m(注1)
目通り幹囲 11.5m(注1)
推定樹齢 300年以上(注1)
所在地の地名 福岡県朝倉市古毛(下古毛)(注2)
天然記念物指定 なし

注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注2)2006年3月20日、1市2町が合併して朝倉市誕生。旧行政区は朝倉郡朝倉町

下古毛集落は、大分自動車道朝倉インターの南。集落の北に沿って国史跡堀川用水が流れている。(南には筑後川)
クスノキは、すぐにわかった。インター付近から下古毛方面を見ると、左中図の姿が見える。
上図右手の建物は観音堂。
観音堂とクスノキの間に見える御婦人から、いろいろなお話を伺うことができた。
毎月17日、「お観音さま」に皆が集まり、お参りをしたあとで御神酒(おみき)を「お観音様」はじめ、境内の「お大師様」、「お地蔵様」に奉納する(私の地方で「講」と呼ぶ集まりだろうか)。そして最後に、「クスノキさん」にも御神酒をあげるのが慣わしだという。「それはすばらしい。全国広しといえど、毎月定期的にお酒を飲めるクスノキは、他にないかも知れませんね」と言ったら、笑っておられた。
昭和28年(1953)、筑後川の堤防が決壊して、集落全体が水に浸かったことがある。その際、観音堂に逃げて助かることができたそうである。当時の境内は、今よりもっと高かったのだろうか。
お話が終わると、また観音堂の世話に戻られた。この日は新しいお花を供えに来られたそうである。

大クスは地上5mほどで主幹を失っているため、樹冠は横に広がっている。ところどころに折損枝の痕が見られ、小さなウロも見える。ウロには、時々フクロウがやってくるそうだ。
全体として樹勢は良好に見える。御神酒のおかげだろうか。
幹囲が11mを超える、こんな立派なクスノキが天然記念物でないとは驚きである。
話は変わるが、集落の北を流れる堀川用水は、水量が豊富で流れも速い。そのため古くから岸に揚水車が設置され、用水より一段高い田に水を供給していたようだ。文政8年(1825)の「筑後川絵図」には、堀川に、上流より二連、三連、二連、二連の水車が画かれているそうだ。
今も菱野三連水車、三島二連水車、久重二連水車の3基が稼働中。堀川用水に付属する設備として、これらも国史跡の一部とされている。
余計なお世話かも知れないが、クスノキを訪ねられる際は、ついでにこれらもご覧になることをお勧めする。

古毛老松神社参道橋  朝倉市古毛 ( 福岡県 )

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古毛老松神社参道橋  朝倉市古毛

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。朝倉市の東部。国道
386号古毛交差点から南へ入る。朝倉市国保直営診療所前を通り、先の四つ角から左折すると、参道がある。ほかは境内の風景。

№5,126  古毛老松神社参道橋

福岡県朝倉市古毛(こも)
橋長:1.4m  橋幅:1.4m
単径間桁橋
架設:明治21年(1888年) 右側面に年号を刻む

古毛老松神社
「祭神岡象女命は、字下古毛に水神社として祭ってあったのを明治42年10月12日に合祀されている。
当社説によれば、当社は昔秋月大蔵氏が当国の領主であった時、對馬守春実に依り菅原大神を勧請し社地を寄進、当村の鎮守として祀るとある。例祭は10月27日。
特殊なお祭りとして“粥だめし”がある。2月15日に粥を炊き容器に入れ密封し神前に供え、3月初卯の日に之を開け黴のつき具合を見て豊作を占う神事である。
神社の東方に“織面湊”と云う史蹟がある。昔筑後川がこの辺りを流れていた頃の港の址である。」
朝倉市教育委員会

古毛村の控石  朝倉市古毛 ( 福岡県 )

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古毛村の控石  朝倉市古毛

HP「筑前 国境石散歩」筑前国内の村境石による説明は、次のとおり。朝倉市の東部。国道386号古毛交差点から南へ入る。朝倉市国保直営診療所前を通り、まっすぐ進むと久重集落センターがあり、前庭に1の「古毛村の控石」は移設されて建っている。
2はうきは市の民家にあるが、訪ねていない。

古毛村(こも) (朝倉市古毛)
文 字
1)古 毛 村 控 
2)古 毛 村 控 石
場 所
どちらも、古毛村(現朝倉市古毛)の控石です。
どちらも元あった場所は特定できませが、2は古毛と筑後国・高田(現うきは市吉井町高田)の境ではと推定されています。
現在、1は古毛地区の公民館に、2はうきは市の民家にあります。
備 考
国境石の控石なのか村境石の控石なのかはわかりませんが、古毛村自体が国境の地にありました。取りあえず村境石として扱います。
同じ古毛村の石ですが微妙にイメージが違います。

小郡市(国道500号)の縣界標  小郡市小郡 ( 福岡県 )

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小郡市(国道500号)の縣界標  小郡市小郡

前記事の佐賀県基山町長野「西海道(西路)の道路遺構」を調査後、甘木鉄道沿いに走っていたら、国道500号福岡県小郡市の「流通センター入口」交差点に出た。この角にあった福岡県設置の縣界標。
HP「筑前 国境石散歩」昭和の縣界標(県界標)に、次の説明があった。

文 字
福岡縣三井郡小郡村
表) 縣界標
佐賀縣三養基郡田代村
右横) 至 田代 ニ粁・至 久留米市 十二粁
左横) 至 飛行隊 八粁・至 甘木町 十三粁
裏)    福岡縣
移設された県界標
場 所
国道500号線上、小郡市と佐賀県鳥栖市の境です。
備 考
この県界標は250m程東の「流通センター入口」交差点に移動しました。70数年の現役を終えモニュメントになってしまいました。

石櫃の追分石  筑前町石櫃 ( 福岡県 )

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石櫃の追分石  筑前町石櫃

筑前町HPの「指定文化財」による説明は、次のとおり。国道386号筑前町石櫃交差点から北側1本上の通りに入る。旧街道の石櫃交差点があり西へ戻ると、すぐ次の角にある。

追分石(おいわけいし)

(資料写真なし)
指定種別 町指定有形民俗文化財
員数 1基
所在地 石櫃(いしびつ)52−6
指定年月日 平成17年3月22日
管理者(所有者) 筑前町
文化財の状況
江戸時代の初め頃の道標で、「右 肥後 薩摩道」(天下道)、「左 豊後 秋月 日田 甘木道」としるされている。
石櫃は、当時山家宿の下宿として賑わい,道標は山家宿の問屋、武作が世話人となって設置したとされる。