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天子の水公園  あさぎり町深田西草津山 ( 熊本県 )

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天子の水公園  あさぎり町深田西草津山

熊本県観光サイト「なごみ紀行 くまもと」による説明は、次のとおり。人吉市から県道33号によりあさぎり町深田へ向かう。深田西に入った蟹ケ迫入口バス停近くに「天子の水公園」案内板があり、左折して標識により、谷間の公園へ進む。

天子の水公園
所在地 球磨郡あさぎり町深田西草津山
駐車場 小型30台
施設説明
平成11年度に完成した公園。敷地面積は5230㎡。5月中旬頃からホタルが乱舞し、5月後半から6月中旬まで約3万株の花菖蒲に花を咲かせ6月第1日曜日には花菖蒲祭りが開催され多くの来客者で賑わいます。他にも、アジサイなど四季折々の花々が植栽されています。公園内にある湧水「天子の水」は、景行天皇が飲んだという故事にちなんで名付けられたもので、年間を通じ清らかな水が涌きます。

大井戸遺構2  人吉市 人吉城跡内 ( 熊本県 )

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大井戸遺構2  人吉市 人吉城跡内

現地説明板は、次のとおり。人吉城跡の北側、後口馬場通り右手広場奥に「人吉城歴史館」があり、同館内に相良清兵衛屋敷の地下室大井戸遺構がある。
後ろの写真は、同館を含む西外曲輪で見た後口馬場の井戸跡、下台所跡・犬童市衛門屋敷跡の井戸跡。

相良清兵衛屋敷の地下室
6m四方の大きさで、深さは3m、出入り用の階段が二ヵ所にあって、床の一角には途中まで石段がついた水深2.3mの方形の大型井戸がある。床面北側の小石敷の下にはスギ板を敷き、井戸底からは刀が出土している。
「お下の乱絵図」によれば、地下室跡は、二階建ての持仏堂の位置に相当するとみられる。寛永17年(1640)のお下の乱の時、この持仏堂は犬童半兵衛一派の隠れ場所となり焼失している。内蔵助屋敷の「蔵」跡に推定される大井戸遺構と、構造や特徴、築造年代がよく類似している。全国的には類例のない謎の多い遺構である。

大井戸遺構1  人吉市 人吉城跡内 ( 熊本県 )

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大井戸遺構1  人吉市 人吉城跡内

現地説明板は、次のとおり。人吉城跡の北側、後口馬場通り右手広場の休憩施設建物内に展示。ガラス越しや網目越しにしか撮影できなかったから、写りが悪い。
最後の「大井戸遺構の底に敷かれていたスギ板の様子」写真は、同説明板から。

大井戸遺構 (相良内蔵助屋敷の地下室)

1 発掘調査年度 平成13年度
2 調査主体者  人吉市教育委員会
3 遺構の名称  「大井戸遺構」(相良内蔵助屋敷の地下室)
4 構築の年代  江戸時代初期(慶長年間〜寛永年間)
5 大 き さ   東西5.4m、南北2.7m、深さ4mの石組。 井戸の水深 約1.2m。
6 遺構の特長
人吉城跡では、井戸のある地下室が二つ発見されています。一つは「人吉城歴史館」の中庭にある大井戸遺構で、二つ目はこの大井戸遺構です。地下室遺構は、寛永17年の「お下(しも)の乱」を描いた人吉城絵図によれば、家老を務めた相良清兵衛の屋敷内にあった二階建ての「持仏堂」に、大井戸遺構は、その息子の内蔵助の屋敷内にある「蔵」と描かれた建物の位置に相当するようです。
二つの地下室は、石段の降り口、踊り場、方形の大型の井戸、黒色の小石敷き、その下はスギ板敷きなど、構造が良く似ています。江戸時代の初期に建造され、寛永17年(1640年)7月の「お下(しも)の乱」の直後に破壊されて埋められていました。特殊な目的のために造られた井戸と推定されますが、全国では同様な遺構の発見例がなく、謎の多い遺構です。
今回、実物展示のため石積みの復元修理を行い、上部に推定される建物と同じ規模(6m×7m)の覆屋を建設し、休憩施設としました。(平成17年度国・県補助金事業)

左近の石  人吉市 人吉城跡内 ( 熊本県 )

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左近の石  人吉市 人吉城跡内

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉城跡の北東、水の手門上の広場に、球磨川の川中から移された「左近の石」があるので、堀合門の対面からこの広場に上がる。

左近の石 さこん
人吉市 人吉城<球磨川> 自然石(安山岩)(治水用) 高2.2m,周囲10.8m,重31t 慶長12(1607) 現地解説版 昭和43、人吉城内に移設 家老・村上左近の進言/中河原の先端に巨大な石を置き、洪水に備えたり流路調節に使われた 3 B

現地説明板は、次のとおり。

左近の石
重さ31㌧、周り10.83㍍、高さ2.19㍍、安山岩のこの巨大な岩は、本来は水の手橋中央部付近の球磨川の中に置かれていた岩の一つであり、昭和43年の球磨川の河川改修工事の際に城内に移されたものである。
慶長12年(1607)に中州の中川原(大岩瀬)を挟んで球磨川唯一の橋である大俣橋・小俣橋が架けられた。しかし、中洲を橋台としていたため増水で橋が壊れることが多く、人吉藩家老の村上左近の進言によって中州の上流部の先端に大岩を多数沈めて中州が流失しないようにしたという。
平成9年3月  人吉市都市計画課

谷口渡場・跡  人吉市 人吉城跡内 ( 熊本県 )

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谷口渡場・跡  人吉市 人吉城跡内

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。人吉城跡の北東側、球磨川筋に谷口渡場・跡はある。

谷口渡場・跡 たにぐち
人吉市 人吉城<球磨川> 渡し場 安永9(1780) 歴史の道・球磨川水運p.57/WEB(みさき道人) 川に面した人吉城の石垣脇に石垣・石階段・石畳が一連で残る/川岸には巨石の敷石も残る 谷口舟渡は、主に城内と対岸の商人町・侍町との交通に利用されたもの/藩は宝暦6(1756)に谷口より上流に他領の舟が上るのを禁止しており往来監視のため舟番所も置かれた/渡し場の跡が残る稀少な事例 1 A

現地説明板は、次のとおり。

谷口舟渡跡
江戸時代、球磨川に架けられた常設の橋は、城下の中川原にあった大俣橋・小俣橋の1ヶ所であった。そのため対岸と往来するには川舟を利用しており、球磨川筋には多くの舟渡場があった。
谷口舟渡は、主に城内と対岸の商人町・侍町との交通に利用されたものである。藩は宝暦6年(1756)には谷口から上流に他領の舟が上るのを禁止しており、往来監視のため舟番所も置かれていた。
なお、梅花の渡は、対岸五日町裏の渡し場のことである。
平成5年3月 人吉市教育委員会

瀬戸石ダム放流中  球磨村神瀬 ( 熊本県 )

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瀬戸石ダム放流中  球磨村神瀬

HP「熊本県のダム」によるデータは、次のとおり。八代市から人吉方面へ球磨川沿いの国道219号により行く。撤去工事中の荒瀬ダムの上流側にあるのが、球磨村の瀬戸石ダム。
9月4日16時28分頃通りかかったが、また前線が近づきつつあり放流中だった。

瀬戸石ダム(せといしだむ)

形式 重力式コンクリートダム
用途 発電
所在地名 熊本県球磨郡球磨村神瀬
位置 北緯32度21分31秒 東経130度38分26秒
河川名 球磨川水系球磨川
ダム湖名
着手/竣工 1956/1958
管理 電源開発(株)

堤高 堤頂長 堤頂幅 堤体積 堤頂標高
26.5m 139.4m m 25,000m3 m
流域面積 湛水面積 総貯水容量 有効貯水容量
1,629.3K㎡ 124ha 9,930,000m3 2,230,000m3

瀬戸石発電所
最大出力 使用水量 落差 形式
20,000kw 134m3/s 17.2m ダム式

瀬戸石ダムは、電源開発(株)が所有する発電専用の重力式コンクリートダムです。
ダム直下の瀬戸石発電所では最大出力20,000kwの発電を行っています。
またこのダムには魚道があり、「アイスハーバー型」を採用しています。その全長は約430mで、その3/4に当たる約300mはトンネルや暗渠となっています。

遥拝頭首工  八代市豊原上町 ( 熊本県 )

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遥拝頭首工  八代市豊原上町

八代平野土地改良区連合(遥拝頭首工)HPによる説明は、次のとおり。JR八代駅前先から新萩原橋を渡って、人吉方面へ国道219号に入る。南九州自動車道の高架下をくぐると、球磨川にこの堰がある。

遥拝頭首工の歴史と役割

遥拝頭首工は、八代平野の農業用水・工業用水の取り入れ口として造られた堰です。歴史は古く、中世名和時代には「杭瀬」と呼ばれ、近世加藤時代のころから「遥拝堰」と呼ばれるようになったようです。杭瀬というのは、杭を川の中に立て並べてしがらみにしたもので、そこから水を引くために掘られた井手が、宮地側の 「太田井手」、高田側の「奈良木井手」、「遥拝井手」などです。この 「杭瀬」を加藤清正が大型の割石や自然石を用いて大石堰に改築したと伝えられています。

名和時代には、堰と用水井手の鎮守として高田側の山麓に宮がまつられ、これがのちの遥拝神社(豊葦原神社)といわれています。また、今でもこの堰を「遥拝堰」または「遥拝の瀬」と呼ぶのは、このほとりに 懐良親王が高田御所に在居の折、吉野の皇居を遥拝した宮が鎮座することに由来しているという説があります。

遥拝堰は、加藤家、細川家、松井家、そして地域住民の努力によって、明治・大正・昭和の時代へと 引き継がれ、昭和23年に農林省管轄の国有財産になりました。

現在の遥拝頭首工は、昭和40年11月に着工され、昭和44年3月に竣工した施設ですが、農業用水を 取水するための「国営八代平野農業水利事業」と工業用水を取水するための「熊本県工業用水道事業」の共同によって施工されました。

計画最大取水量は、農業用水が毎秒19.583立方メートル(6,777ha)、工業用水が毎秒5.555立方メートルですが、現在では、農業用水に毎秒最大16.589立方メートル(5,556ha)、工業用水に毎秒2. 758立方メートルが利用されています。

平成15年からは、上天草・宇城地域の水道水としても毎秒0.282立方メートル(計画給水人口107, 222人)が利用されています。

湾 洞  八代市 球磨川 ( 熊本県 )

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湾 洞  八代市 球磨川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR八代駅前から国道3号を東へ進む。すぐの萩原町交差点から国道219号に入った新萩原橋手前から球磨川の堤防道路に出る。萩原堤を通り上流へ進むと、肥薩おれんじ鉄道の鉄橋近くにJR線のガード下車道があり、これに曲がって下ると湾洞の沈砂池に着く。

湾 洞 わんどう
八代市 球磨川→用水 沈砂池 30m×40mほどの池 文政4(1821)以前 歴史の道・球磨川水運p.119 加藤清正?/球磨川の遙拝堰から引いた水の流速を落とし、砂を用水に流下させないように工夫したもの 3 C

萩原堤のハネ  八代市 球磨川 ( 熊本県 )

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萩原堤のハネ  八代市 球磨川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR八代駅前から国道3号を東へ進む。すぐの萩原町交差点から国道219号に入った新萩原橋の上下流に萩原堤のハネ群が見える。写真は下流側からそれらしきもの。
7枚目写真の左側白い標柱が、「名勝 萩原堤」の説明標柱。

萩原堤のハネ はぎわら
八代市 球磨川 石水制(三角) (3ヶ所) 慶安2(1649)以前 歴史の道・球磨川水運p.121 球磨川の大屈曲部に、堤防を補強するため造られたもの C

球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石 八代市 球磨川 ( 熊本県 )

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球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石 八代市 球磨川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。JR八代駅前から国道3号を東へ進む。すぐの萩原町交差点から国道219号に入った新萩原橋の下流に球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石が見える。

球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石 くま、まえ
八代市 球磨川 越流堤 寛永11(1634) 歴史の道・球磨川水運p.124 セメントで補強されているが、江戸時代の面影が残る 新川運河を閉鎖するために設けられた石積堤 3 B