沖縄県」タグアーカイブ

あまたりや潮荒1.2  石垣市桃里伊野田 ( 沖縄県 )

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あまたりや潮荒1.2  石垣市桃里伊野田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道390号により石垣空港入口を過ぎ、石垣島中部、桃里の伊野田2班バス停まで行く。少し先から農道へ左折、しばらく進んだ農道がカーブする左側のサトウキビ畑の中に、国天然記念物に指定された「あまたりや潮荒1」の津波石はある。石の根元まで草木が茂り、サンゴ化石は確認できなかった(写真1〜4)。

あと1つ、「あまたりや潮荒1」より大きな津波石という「あまたりや潮荒2」は、この北側約100m離れた所にある。国道へいったん戻り、食堂ヤスとカマ駐車場奥からサトウキビ畑の脇を川沿いに行く。大きな木立が生えた津波石がここにもあった(写真5〜11)。
この津波石は、特に私有地サトウキビ畑内にあり、立ち入りの際は了解を受けること。

あまたりや潮荒1 すうあれ
石垣市 (石垣島) 津波石 1771年 国天然 WEB/市教委 サトウキビ畑内/草で覆われて石肌が見えにくい 『奇妙変異記』に、「桃里村之内いなふ田与申所ニ三間角之海石弐ツ有ル/但、此石弐ツ共俗ニあまたりや潮荒与唱、元来仲与銘之内、あまたりや与申浜ゟ三町程沖之方ニ有来候処、大波ニ根ゟ引越し、浜ゟ弐町余陸ニ寄揚置申候」と記されている 2 C

あまたりや潮荒2 すうあれ
石垣市 (石垣島) 国道390号沿い 津波石 1771年 WEB/市教委 草で覆われて石肌が見えにくい 同上(指定は受けていないが、価値は変わらない) 2 C

HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。

あまたりや潮荒(あまたりやすうあれ)
石垣島中部の伊野田(沖縄県石垣市字桃里伊野田)の海岸から約200m離れた畑地内にあるサンゴ石灰岩です。推定重量は約300トン。古文書「奇妙変異記」には、元々、あまたりやという浜の沖合約3町(約327m)にあった2つの石が、津波によって浜から約2町(約218m)の内陸に移動した(打ち上げられた)と記されています。今回は、2つの石の内の1つが指定されましたが、近接してもう1つの石(実はこちらの方が大きい)も見ることができます。地元の人は当初てっきりこちらの大きい石の方が指定を受けたものと思っていたそうですが、実は逆だったということで驚いておられました。

指定となった「あまたりや潮荒」は、サトウキビ畑の中にありますが、サトウキビが大きく生長した時は見づらいです。畑に入って近づく際には農作物に被害を与えないように注意して下さい。
「あまたりや潮荒」はサトウキビ畑の中にあります。 道路からは10m程度の位置にあります。近づくとサンゴ石であることが分かります。 サンゴの化石も見られます。

こちらは北側にある、「あまたりや潮荒」より大きな津波石です。「あまたりや潮荒」から約100m離れた所にあります。

真謝井戸  石垣市白保 ( 沖縄県 )

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真謝井戸  石垣市白保

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道390号石垣市白保バス停手前から、南側の市道に入る。嘉手苅御嶽(かでかるおん)前の車道対面に「真謝井戸」はある。柵とロープが張られ立入禁止となっていたから、外観だけしか撮影できなかった。

真謝井戸 まじゃんがー
石垣市 (石垣島) 白保集落 石積井(湧水) 深9.7m 18世紀初期以前 市史跡 WEB 周囲をCブロックと柵で囲み立ち入り制限 『八重山島諸記帳』(18世紀初期)に「真謝井 村内に有」と記載→1771年の明和大津波で埋没→再建/18段の石段で降りていく掘り抜き井戸 3 C

現地説明板は、HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、次のとおり。

真謝井戸 真謝井戸の碑
寛延3年(1750)の頃、真謝村は白保から分封した。真謝井戸は当時村民の飲料水川として掘られたが、明和8年(1771)大津波によって埋められてしまった。白保真謝両村も津波のために壊滅したので、八重山の行政庁蔵元では波照間島から強制移住せしめて白保村を再建し、真謝村は廃村となった。
真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に再掘して永く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である。
1966年4月23日 老人会建立   2006年6月 吉日改築
撰文 喜舎場永珣 ・牧野清   寄贈 ヤマト工業(資)

※ 真謝井戸(マジャンガー)は、白保村に残存する唯一の古井戸(降り井戸)で、民謡「シンダスリ節」にも詠まれ、また村人の信仰の対象にもなっています。1950年代に、白保の各戸に水道が導入されるまでは飲料水の源として重要な役割を果たしていました。

白保小学校のアコウ  石垣市白保 ( 沖縄県 )

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白保小学校のアコウ  石垣市白保

HP「八重山の巨樹・名木・群落」による説明は、次のとおり。石垣市白保の国道390号沿い左に白保小学校はある。校庭の三本木と言われる「沖縄の名木百選」アコウとは別。白保小学校の北側角と校門脇に立つアコウである。

11.白保小学校のアコウの木
白保小学校のアコウの木。白保小学校の北側角にあります。
南側道路からの眺めです。 白保小学校の、道路沿いの北側の角(向かいは白保郵便局)には大きなアコウ(オオバアコウ)の巨木があります。推定樹齢150〜200年といわれ、石垣市の「緑の戸籍簿」にも登載されています。
また、白保小学校の校門にも大きなアコウの木があります。 白保小学校校門のアコウ。校門右側にある大木です。校舎前にあります。

白保小学校の三本木(オオバコウ・ガジュマル・デイゴ)  石垣市白保 ( 沖縄県 )

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白保小学校の三本木(オオバコウ・ガジュマル・デイゴ)  石垣市白保

沖縄県環境部環境再生課HP「おきなわ緑と花のひろば」沖縄の名木百選による説明は、次のとおり。石垣市白保の国道390号沿い左に白保小学校はある。校庭に三本木が並立している。

白保小学校のオオバコウ
白保小学校は、明治23年に簡易小学校として設置された、創立121周年の歴史と伝統を持つ学校である。
同校内には、「アコウ」「ガジュマル」「デイゴ」の三本の巨樹が並立して生育しており、地域では通称「三本木」と呼び親しんでいる。
当該樹木は、去った大戦前から生育する三本木のひとつとして、子供達の成長とともに生育し、幹周りは3.56m(直径1.1m)と太く、枝は傘状に拡がり、その樹形は均整がとれている。
当該アコウは、長く校内に生育し、これまでに巣立った数多くの子供達を見送り、今も遊び場や憩いを提供し続け、子供達に健やかな成長を見守り続けている。
白保小学校は、年中花と緑のある学校として、平成12年に全日本学校関係緑化コンクール準特選に選ばれており、このような緑化環境の中、当該オオバアコウは、適切に管理がなされ、小学校のシンボルとして、大切にされ続けている。

認定番号  109
認定年度  平成23年度
樹  種   オオバコウ
樹  高   8.05m
幹  周   3.56m
推定樹齢  100年以上
所在地    石垣市字白保73-1
経度・緯度 24.3543608_124.2389893
所有者    石垣市

白保小学校のガジュマル
白保小学校は、明治23年に簡易小学校として設置された、創立121周年の歴史と伝統を持つ学校である。
同校内には、「アコウ」「ガジュマル」「デイゴ」の三本の巨樹が並立して生育しており、地域では通称「三本木」と呼び親しんでいる。
当該樹木は、去った大戦前から生育する三本木のひとつとして、子供達の成長とともに生育し、幹周りは3.55m(直径1.1m)と太く、枝は四方に拡がり、その樹形は均整がとれている。
当該ガジュマルは、長く校内に生育し、これまでに巣立った数多くの子供達を見送り、今も遊び場や憩いを提供し続け、子供達に健やかな成長を見守り続けている。
白保小学校は、年中花と緑のある学校として、平成12年に全日本学校関係緑化コンクール準特選に選ばれており、このような緑化環境の中、当該ガジュマルは、適切に管理がなされ、小学校のシンボルとして、大切にされ続けている。

認定番号  110
認定年度  平成23年度
樹  種   ガジュマル
樹  高   9.25m
幹  周   3.55m
推定樹齢  100年以上
所在地    石垣市字白保73-1
経度・緯度 24.3537158_124.239760
所有者    石垣市

白保小学校のデイゴ
白保小学校は、明治23年に簡易小学校として設置された、創立121周年の歴史と伝統を持つ学校である。
同校内には、「アコウ」「ガジュマル」「デイゴ」の三本の巨樹が並立して生育しており、地域では通称「三本木」と呼び親しんでいる。
当該樹木は、去った大戦前から生育する三本木のひとつとして、子供達の成長とともに生育し、幹周りは3.64m(直径1.1m)と太く、枝は四方に拡がり、その樹形は均整がとれている。
当該デイゴは、長く校内に生育し、これまでに巣立った数多くの子供達を見送り、今も遊び場や憩いを提供し続け、子供達に健やかな成長を見守り続けている。
白保小学校は、年中花と緑のある学校として、平成12年に全日本学校関係緑化コンクール準特選に選ばれており、このような緑化環境の中、当該デイゴは、適切に管理がなされ、小学校のシンボルとして、大切にされ続けている。

認定番号  111
認定年度  平成23年度
樹  種   デイゴ
樹  高   9.25m
幹  周   3.64m
推定樹齢  100年以上
所在地    石垣市字白保73-1
経度・緯度 24.3537158_124.239760
所有者    石垣市

アダドゥーナー(安多手井)  石垣市宮良 ( 沖縄県 )

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アダドゥーナー(安多手井)  石垣市宮良

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道390号宮良西バス停の少し先から、南側の市道に入り下って行くと、「アダドゥーナー」の史跡説明板がある。
洞穴湧水を再建時に丸い井戸状にしたのではないか。井戸の中までは確認忘れ。

アダドゥーナー(安多手井)
石垣市 (石垣島) 下又屋敷遺跡 洞井(湧水) 深12m(斜道21m) 18世紀後半以前 市史跡 現地解説板/WEB 現在は放置状態(ゴミも) 1771年の明和大津波で埋没(それ以前から存在)→再建/40段の石段で洞内に降りていく洞窟湧水(ウリカー) 3 B

現地説明板は、HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、次のとおり。

アダドゥーナー  石垣市史跡  昭和55年10月31日指定
この井戸は人と水とのかかわりを知るうえで大切な遺跡である。宮良むらの由緒あるウリカー(降り井戸)として、昔から人びとの信仰を集めている。ウリカーとは、直接水面まで降りて水を汲む井戸のことで、傾斜する降り道には40段の石段が設けられている。
「八重山旧記」に「安多手井」と記されているこのアダドゥーナーは、宮良むらの歴史とかかわりの深い「下又屋敷遺跡」(しいむぬかくいせき)の内にあって、下の村創設のころ、神に願立てして水脈を掘りあてたという伝承がある。以来、神の水として崇信され、共同井戸としても広く利用されてきた。
近年は各自の井戸や貯水タンクが普及したことや、上水道が敷設されたことにより、共同井戸としての利用はなくなったが、アダドゥー願いは今でも続けられている。
また、周辺には外本御嶽があり、磁器や陶器、鉄滓などの遺物も出土している。井戸の深さは12m、斜道21mである。
なお、この地域で無断に現状を変更することは市条例によって禁止されています。
昭和62年10月  石垣市教育委員会

明和大津波遭難者慰霊之塔  石垣市宮良 ( 沖縄県 )

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明和大津波遭難者慰霊之塔  石垣市宮良

現地碑文は、HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、次のとおり。国道390号宮良橋を渡り左折して、老人ホームなごみの里の先まで行くと、右手高台に上がる「明和大津波遭難者慰霊之塔」の案内標識がある。慰霊之塔は、1枚目写真の岩の後ろ側に建立されているから、岩の左から回り込んで下る。

16.明和大津波遭難者慰霊之塔
碑 文
八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ち たちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半潰あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した
こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作 飢饉 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし その影響はまことに計り難いものがあった この天災から二一二年 狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した
一九八三年(昭和五八)四月二四日
明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

※ 「古記録大波之時各村之形行書」は、「おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ」と読みます。

ちびすく石  石垣市宮良 ( 沖縄県 )

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ちびすく石  石垣市宮良

HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。国道390号宮良橋を渡って左折し100m程度行った右手の畑の中に「ちびすく石」という津波石があるらしい。HP写真には、石がはっきり写っている。
私が現地を訪ね撮影した場所(ズームできる)と同じと思われるが、すでに石全体が木立に覆われ木立も伸びて、背景の赤屋根の建物(老人ホームなごみの里の施設か?)も見えず、HP写真と合致するかどうかわからないが、一応、紹介しておく。畑の奥まで入り、石面を良く確認するべきだった。

ちびすく石
宮良川に架かる宮良橋の北東にある津波石です。宮良川を遡った津波によって打ち上げられたと伝えられています。
「ちびすく石」は市街地から北上し、宮良橋を渡って左折し100m程度行った右手の畑の中にあります。「ちびすく石」はこのように、畑の中にあります。

宮良川のヒルギ林・宮良橋頌徳碑  石垣市宮良 ( 沖縄県 )

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宮良川のヒルギ林・宮良橋頌徳碑  石垣市宮良

現地説明板は、次のとおり。国道390号宮良橋の橋上から「宮良川のヒルギ林」は一望できるが、橋手前右側の駐車場から下に降りると、説明板がある。

天然記念物 宮良川のヒルギ林  昭和47年5月15日指定
「宮良川のヒルギ林」は宮良川の河口から上流の両岸1,500mにわたって発達し、その面積225haで、メヒルギ、オヒルギそしてヤエヤマヒルギなどの種類を中心としたヒルギの大群落であります。
また、指定地内には前記の種以外にハマナツメ、カカツガユ、ヒメガマ、オキナワシャリンバイ、サルカケミカン、アダンなどもみられます。
ヒルギ林は熱帯から台湾、沖縄を経て鹿児島県まで分布し、海岸や河口などの泥地に成林する特異的な群落です。
本地域は石垣島の代表的なヒルギ林として指定してあります。
なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または、保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。     文 部 省・沖 縄 県

橋を渡ったバス停のところに宮良橋「頌徳碑」がある。HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、概略は次のとおり。

15. 宮良橋頌徳碑  宮良
宮良川の河口付近には、17世紀中頃から交通の要として架橋が行われてきました。当初は石積みの橋で、架設に重要な役割を果たした人物として、元宮良頭職・宮良長重の名が伝えられています。その後、石積みの橋は木橋に架け替えられますが、以降、何度も災害で破壊され、その度に補修、架橋建設が繰り返されてきました。しかし、明和の大津波(1771年)で破壊された後は橋が架けられる事は無く、人々は干潮時を見計らって浅瀬を伝って渡るなど不便を余儀なくされたそうです。
明治を迎える7年ほど前に、禁制の真宗の信徒であるとして今帰仁から無期流罪を言い渡され、石垣島に流刑され真栄里に滞在していた「仲尾次政隆」が私財を投げ打って木橋を架けました。しかし、その翌年、台風によって破壊された為、再度、私財を投じ架橋を復興させました。島人と蔵元役人は仲尾次氏の赦免請願書を王府に提出、その功績により1864年に赦免されたということです。人びとは橋の完成を喜び「宮良川節」という民謡を作り仲尾次氏を称えました。
宮良橋が鉄筋コンクリート製になったのは昭和8年です。同工事の竣工祝賀式典は同10年に行なわれ、その際には、架橋の沿革などを刻んだ「頌徳碑」が橋畔に建立されました。
現在の橋は、1997(平成9)年に架けられたものです。

とふりやの高こるせ石・津口北の端の高こるせ石  石垣市大浜 ( 沖縄県 )

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とふりやの高こるせ石・津口北の端の高こるせ石  石垣市大浜

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによる説明は、次のとおり。国道390号沿い大浜公民館から国道をしばらく下る。右側に牧場があり、この手前の農道を奥へ進む。牧場ブロック塀のところに「とふりやの高こるせ石」がある(写真1〜7)。
あと1つの「津口北の端の高こるせ石」は、国道をもう少し進む。右に大浜海岸展望所があり、ここから沖合を眺めると、はるか彼方の海上に見えるのが「津口北の端の高こるせ石」のようである。ズームでも良く写せなかった。国道先の橋際から海岸へ出ても、この津波石は沖合に見える(写真8〜12)。

とふりやの高こるせ石
石垣市 (石垣島) とふりや 津波石 1771年 国天然 WEB 牧場の一角にブロック塀や石積みの延長として使用→外側からのみ見学可 明和の大地震の前後に島で起きた不思議な現象を記録した『奇妙変異記』に記載/津波大石と違い明和の大津波によるもの 3 C

HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。

高こるせ石(たかこるせいし)
石垣島南東部の大浜(沖縄県石垣市字大浜船着原)の国道390号線に面した個人牧場と畑地の境界にある津波石です。2,000年前の先島津波でコルセ御嶽(黒石御嶽)に運ばれていた石が、1771年の明和の大津波で再び北方に約600m移動したものと考えられています。大中小の3つに分かれており、合計推定重量は約700トン。「奇妙変異記」には、元々、コルセ御嶽の中に2つの石が並んでいたものが、津波で流されてひとつが畑地(「とふりや」という所)に、もうひとつが沖合にそれぞれ移動したと記録されています。

畑地の石は「とふりやの高こるせ石」と呼ばれ、沖合の石は「津口北の端の高こるせ石」と呼ばれています。今回指定を受けたのは、畑地の「とふりやの高こるせ石」の方です。
この津波石は、現在、牧場のブロック塀や石積みの延長上(南側)として利用されています。塀の外側からの見学ができますが、牛がいたり農作物の栽培が行われていたりしますので注意して下さい。
「とふりやの高こるせ石」は牧場の南端に位置しています。沖合中央にあるのが「津口北の端の高こるせ石」です。

津波大石  石垣市大浜 ( 沖縄県 )

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津波大石  石垣市大浜

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによる説明は、次のとおり。国道390号沿いの大浜公民館前へ右折し、大浜小学校の先まで行く。崎原公園の北側に「津波大石」はある。
2枚目写真は、津波大石と関係はないが、美崎御嶽近くの「オヤケアカハチ之像」。

津波大石 つなみうふいし
石垣市 (石垣島) 崎原公園 津波石 長径12.8m,短径10.4m,高5.9m 約2000年前 国天然 WEB 公園内/石の上に一面に木が生えている 日本最大の津波石(津波によって打ち上げられた石)/炭素14等による年代測定により約2000年前の先島津波により現在地に移動したことが判明/明和大津波では移動しなかったが回転した可能性は指摘 1 A

HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。

津波大石(つなみうふいし)
石垣島南東部の大浜の崎原公園(沖縄県石垣市字大浜下屋敷地)にある津波大石は、長径12.8m、短径10.4m、高さ5.9mで、推定重量700トン(最近では1,000トンとも言われています)の巨大なサンゴ石灰岩の岩塊です。牧野清氏によって命名されました。表面に付着したサンゴを炭素14により年代測定した結果、この石は1771年の明和の大津波に由来するのではなく、先島津波と名付けられる約2,000年前の津波によって打ち上げられたものと考えられています。
この津波石は、大浜公民館から海側に進んで行った所の、大浜小学校の東側にある崎原公園の北側にあります。