明和大津波遭難者慰霊之塔  石垣市宮良 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

明和大津波遭難者慰霊之塔  石垣市宮良

現地碑文は、HP「石垣島の石碑・説明看板(郊外−1)」によると、次のとおり。国道390号宮良橋を渡り左折して、老人ホームなごみの里の先まで行くと、右手高台に上がる「明和大津波遭難者慰霊之塔」の案内標識がある。慰霊之塔は、1枚目写真の岩の後ろ側に建立されているから、岩の左から回り込んで下る。

16.明和大津波遭難者慰霊之塔
碑 文
八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば 乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり それが止むと石垣島の東方に雷鳴のような音がとどろき 間もなく外の瀬まで潮が干き 東北東南海上に大波が黒雲のようにひるがえり立ち たちまち島島村村を襲った 波は三度もくりかえした 史上有名な八重山の明和大津波である
津波は石垣島の東岸と南岸で激甚をきわめ 全半潰あわせて一三村 ほかに黒島 新城二村が半壊し 遭難死亡者は九三一三人に達した
こうして群島の政治 経済 文化の中心地石垣島は壊滅的打撃をうけ 加えてその後の凶作 飢饉 伝染病などによる餓死者 病死者も続出して 人口は年年減少の一途をたどり 人頭税制下の八重山社会の歩みを一層困難なものとし その影響はまことに計り難いものがあった この天災から二一二年 狂瀾怒涛のなかで落命した人人のことを思うとき いまなお断腸の念を禁ずることができない このたび有志相謀り 群島全遭難死亡者のみたまを合祀してその冥福を祈り あわせてこの未曾有の災害の歴史が永く後世に語りつがれていくことを念願し 島内外各面の浄財と 石垣市 竹富町 与那国町並びに諸機関 団体の御協力を仰いで ここにこの塔を建立した
一九八三年(昭和五八)四月二四日
明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

※ 「古記録大波之時各村之形行書」は、「おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ」と読みます。