大分県」タグアーカイブ

岩 戸 寺  国東市国東町岩戸寺 ( 大分県 )

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岩 戸 寺  国東市国東町岩戸寺

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道213号国東町浜から県道544号に入り西に向かうと、途中に岩戸寺入口の案内板がある。

岩戸寺(国東市)

岩戸寺(いわとうじ、いわとじ)は、大分県国東市国東町岩戸寺の国東半島の北東部にある天台宗の寺院。山号は石立山(いしだてさん)。1979年(昭和54年)5月15日に大分県の史跡に指定されている。

概要
養老2年(718年)に仁聞菩薩によって開かれたと伝えられる古刹で、六郷満山の末山本寺であった。
寺の入口に立つ一対の仁王像のうち、右側の阿形像には文明10年(1478年)の銘があり、在銘の丸彫り仁王像としては日本最古のものである。
また、寺の裏手にある高さ約3.3mの国東塔は、国の重要文化財に指定されている。弘安6年(1283年)の銘があり、国東半島にある国東塔の中で最古と言われている。
本尊は、平安後期作のカヤの一木造りの薬師如来像である。
国東六郷満山霊場第二十六番。

修正鬼会
修正鬼会(しゅじょうおにえ)は、旧正月(1・2月)に六郷満山の寺院で行われる火祭り。祖先が姿を変えたとされる鬼がたいまつを持って集落を回る。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
現在では、岩戸寺、成仏寺(国東市)、天念寺(豊後高田市)の3つの寺のみに残っており、岩戸寺では成仏寺と交互に、西暦の奇数年に催される。

富来港の防波堤  国東市国東町富来 ( 大分県 )

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富来港の防波堤  国東市国東町富来

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号の国東町富来浦交差点から東に富来港の方へ入る。

富来港の防波堤 とみく
国東市 富来港 石防波堤 東防波堤: 長約40m 天保15(1844) 市教委 東防波堤は良好に保存、西防波堤はC補修/現役の港 富来城は富来川河口の富来港に面した平地に築かれていた 2 C

後ろの16枚目以降の写真は、10月25日に富来港を再訪、港内の様子を詳しく写してきた。

古興導寺の石橋  国東市国東町鶴川 ( 大分県 )

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古興導寺の石橋  国東市国東町鶴川

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道213号の国東町鶴川交差点から市道を東へ入る。坂を上がった桜八幡社先の曲がり角に「空也池」があり、古興導寺遺跡の標柱が建っている。

№6,813 古興導寺の石橋

国東市国東町鶴川
橋長:5.64m  橋幅:0.9m  桁厚:16㎝
3径間桁橋

「空也京都に六波羅密寺建立後西海道に空也僧団として念仏の道を開いた。上陸地をお上がり崎と呼び、南下して杵築・山香に遊地する。
興導寺。空也廟、地主権現宮、院主坊等十坊の跡、空也池、経塚、お上り崎、空也木彫仏、旧釈迦堂、釈迦仏像等。」
国東市HPより

桜八幡社車橋  国東市国東町鶴川 ( 大分県 )

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桜八幡社車橋  国東市国東町鶴川

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道213号の国東町鶴川交差点から市道を東へ入る。坂を上がったすぐ左手に、桜八幡社がある。

№1,133 桜八幡社車橋

国東町鶴川
水路
橋長:3.3m  橋幅:3.8m
単径間円弧桁橋 
架設:享保8年(1723)
国道213号線、国東警察署の南から町道を東へ、100m先左手にあります。
桜八幡社
「保元2年(1157)、宇佐八幡宮の御分霊を祀り、国東郷の中心的「社」として栄えてきました。
当社は、中世の飯塚城主である田原氏(国東)をはじめとして杵築藩主の細川、小笠原、松平氏等の庇護を受け、大正末、県社に列ぜられました。社叢は、天然記念物であるスダシイが群生しています。」

金刀比羅八幡宮の石階段  国東市武蔵町吉広 ( 大分県 )

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金刀比羅八幡宮の石階段  国東市武蔵町吉広

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。武蔵町の中心から県道55号により西へ向かう。オレンジロードは横断して直進、県道をそのまま進む。楽庭八幡神社の先に西光寺があり、その先すぐ右手に金刀比羅八幡宮がある。

金刀比羅八幡宮の石階段 ことひら、はちまん
国東市 (吉広)金刀比羅八幡宮・参道 石階段 105段 享保17(1732) 武蔵町の石造物・続 保存状態良好 途中に鳥居のある2段構造/石段頂部に年号入りの石柱 1 C

楽庭八幡神社  国東市武蔵町吉広 ( 大分県 )

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楽庭八幡神社  国東市武蔵町吉広

国東市HPの文化財による説明は、次のとおり。武蔵町の中心から県道55号により西へ向かう。オレンジロードは横断して直進、県道をそのまま進むと、楽庭(がくてい)八幡神社前を通る。

MA1001 吉弘楽

南北朝の頃 広村に入封した 広正堅楽定八幡神社の神前に楽を奉納してより凡そ200年間 弘氏の厚い保護を受けたが、八代氏直居域を都甲荘屋山に移すに至り、漸次衰微した。
元禄初年古広村にあっては数年の長きにり農作物の虫害が甚だしく、その惨状は時の藩主松平公の上聞に達し、遂に五穀豊穣虫祈祷の為 広楽取立の御沙汰があり、庄屋高原氏は村役人と計り吉弘氏ゆかりの都甲荘に行き 弘の伝習を受け再び吉広村でも楽打ちが行われるようになった。
現在は7月第4日曜日、楽庭八幡神社で行われる。楽打ちは総て49人で行われ、その構成は本頭音頭1人、鉦2人、笛3人、念悌申2人、端楽15人、中頭音頭1入、 鉦2人、末頭音頭1人、鉦2人、笛3入、念佛申2人、端楽15人の計49人である。
この内、本頭音頭には庄屋自ら当り、他は各々家柄格式に応じて世襲していたが現在では保存会が中心となっている。

MC1006 楽庭八幡社仁王形石燈籠

楽庭八幡社正面鳥居前に一対の石灯籠があるが、これは仁王が灯籠を持った形をしており珍しいものである。
顔の表情は見る者を威圧する厳めくしさではなく丸顔の童子の様に見え、なごやかな親しさがある。大きさは
◎阿形(向かって右)総高210cm、像高84cm
◎うん形(向かって左) 総高210cm、像高82.5cm
であり、製作年代は江戸時代と推定される。阿形(向かって右)の灯籠火袋の背面には「初秋建之」の銘が刻まれている。

法釈寺の石階段  国東市武蔵町麻田 ( 大分県 )

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法釈寺の石階段  国東市武蔵町麻田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。武蔵町の中心から県道55号によりオレンジロードの麻田まで行くと、北の高台に法釈寺と石階段が見える。

法釈寺の石階段 ほうしゃく
国東市 (麻田)法釈寺・参道 石階段 114段 宝暦3(1753) 武蔵町の石造物p7 保存状態良好 石段登り口の両脇に宝珠付きの石柱 1 C

美濃崎台場・跡  杵築市狩宿 ( 大分県 )

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美濃崎台場・跡  杵築市狩宿

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号により杵築市の東部へ向かう。奈多海岸の手前から狩宿への案内標識により広い道路を南下し、白石鼻灯台へ行く。入口に何の案内板がなくわかりにくいが、市道が大カーブする地点。
美濃崎漁協の海浜立入禁止の看板があり、チェーンで柵止めをしている。このすぐ奥が「美濃崎台場・跡」で、史跡説明板がある。海岸へ向かうと、小さな白石鼻灯台が立っていた。
私は美濃崎漁港から向かったが、場所がわからず前記国道まで出て、やっと間違いに気付き、慌てて戻った。

美濃崎台場・跡 みのざき
杵築市 (狩宿) 台場 石塁 嘉永3(1850) 現地解説板/市教委 杵築藩台場の中では最も保存状態がよい→石塁が僅かに残る程度 杵築藩が領内の7ヶ所に設けた台場の1つ 3 C

尾 払 池  国東市安岐町大添 ( 大分県 )

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尾 払 池  国東市安岐町大添

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号により杵築市の東部へ向かう。守江港に天村川が流れ、橋手前から天村川を遡ると「鍋倉ダム」に着く。堰堤上の車道を渡り、右側の谷間を上がって行くと、やがて2段となった尾払池が見える。
上の大池は国東市域となり、リストの対象はこの池だろう(堰堤部分は杵築市域に入る)。

尾払池 おばらい
国東市・杵築市 (安岐町大添) 溜池 堤長約80m 万治元(1658) 市教委/WEB 溜池部分は国東市に、堤体のみ杵築市に属する 安岐郷の大庄屋・片山平兵衛と大添村庄屋・笠置正弘の請願を受けて杵築藩初代藩主・松平英親が築造 2 C

尾 払 池  杵築市守江 ( 大分県 )

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尾 払 池  杵築市守江

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道213号により杵築市の東部へ向かう。守江港に天村川が流れ、橋手前から天村川を遡ると「鍋倉ダム」に着く。堰堤上の車道を渡り、右側の谷間を上がって行くと、やがて2段となった尾払池が見える。
下の小池は杵築市域となり、リストの対象はこの池だろう(上の大池も堰堤部分が杵築市域に入る)。最後の写真は、大池から見た下の小池。

尾払池 おばらい
杵築市・国東市 (守江) 溜池 堤長約80m 万治元(1658) WEB/国東市教育委員会 溜池部分は国東市に、堤体のみ杵築市に属する 安岐郷の大庄屋・片山平兵衛と大添村庄屋・笠置正弘の請願を受けて杵築藩初代藩主・松平英親が築造 2 C

(2015年10月20日 追 記)
遺産サイトから連絡があり、尾払池の下にある池が元々2段になっていたのか、別の時期に造られたのか不明なため、サイトでは次記事の国東市のと同じのを対象とし、画像を掲載するということである。