月別アーカイブ: 2016年11月

ヒージャーガ—  沖縄市美里3丁目 ( 沖縄県 )

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ヒージャーガ—  沖縄市美里3丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道329号沖縄市美里(南)交差点近くから美里公民館前の通りに入り、少し先から左手の坂道を下ると、「ヒージャーガ—」がある。近くに小さな「シチャヌウカー」もあったので写してきた。

ヒージャーガ—
現在、登載準備中。

沖縄市教育委員会「美里地区文化財マップ」による説明は、次のとおり。

18 ヒージャーガ—
ヒージャーガ—とは、湧水を樋でひいて利用する形態の井戸のことです。明治28(1895)年生まれの地元の古老が物心ついた時にはあったといわれています。ヒージャーガ—は、子どもが誕生したときに産湯に使う水を汲むためのウブガ—(産井)として利用されました。また、ウマチー行事の際にも集落の有志が拝んでいました。
昭和初期までは住民の飲料水として用いられており、洗濯場としても毎日賑わっていました。下流では水田の稲苗床の水として利用されました。   (沖縄市指定文化財 1994年9月22日指定)

さく原の印部石「さ」  沖縄市美里3丁目 ( 沖縄県 )

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さく原の印部石「さ」  沖縄市美里3丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。沖縄市美里北交差点手前から美里3丁目に入ると、メゾンティーダ裏通りの坂道ブロック塀のところにある。7街区との境。

さく原の印部石「さ」 しるび
沖縄市 美里 印部石(細粒砂岩) 高56.5㎝, 幅29㎝ 1737-50年 沖縄の印部石p.106 移設(2面をブロック塀で囲まれ、台座はコンクリート) 乾隆検地の際、土地測量に使った図根点/印部石の表面に「さ、さく原」と刻まれている/「さ」はいろは順 4 C

沖縄市HPの文化財紹介 > 美里地区による説明は、次のとおり。

印部石
美里公民館の北側に位置する。この石は、村の原名の境界を示す。かつては多くの基準点となる石があったようだが、現在の美里に残っているのはこの印部石だけである。

室 川 井  沖縄市室川1丁目 ( 沖縄県 )

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室 川 井  沖縄市室川1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。歴史公園内にある案内図では所在地がわかりにくいから、所在地図を参照。沖縄市庁舎玄関左側から歴史公園下の団地内車道へいったん下る。LPG室川市営住宅特定製造所建物右まで行き、車道上のフェンス沿い狭い坂道を上がると、右手畑道奥に市指定文化財「室川井泉(ムルカーガー)」と、もう一つの小さな「ムルガー」がある。

室川井 むろかわ(ムルカー)・ガー
沖縄市 石積井(湧水) 不明 市史跡 市教委/WEB 昭和3年改修(上段がコンクリート化) 全体を掘り込んだ大型湧水泉 2 B

沖縄市HPの文化財紹介 > 胡屋・仲宗根地区による説明は、次のとおり。

室川井泉 [市指定文化財]
沖縄市役所の北東側に位置する。大旱ばつに見舞われても水が枯れなかったと言われ、村びとは、「ムルカーガー」と呼んでいる。現在の井泉は、昭和3年に改修された。村では、旧暦8月10日に拝んでいる。

ムルガー
沖縄市役所の北東側に位置する。この井泉は、琉球石灰岩と泥岩の間から水が湧き出ている。かつてのムルガーの東側には、苗代田や水田が広がっており、村びとから重要な場所とされていた。
現在は、農業用水として利用されている。

草加市の道標所在一覧(15〜23)  草加市神明町ほか ( 埼玉県 )

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草加市の道標所在一覧(15〜23)  草加市神明町ほか

「草加の道しるべ」12Pの道標所在一覧表データは、上記のとおり。所在調査と画像提供は、私の知人・草加市在住の伊藤氏の協力による。番号順に撮影画像をまとめて2枚ずつ載せる。×印は、現物が見つからなかったそうである。
サイト「近世以前の土木・産業遺産」埼玉県2リストにも、データは詳しく登載されているが、ここでは省略する。関係前3記事に、その一部は紹介している。

草加市の道標所在一覧(1〜14)  草加市柿木町ほか ( 埼玉県 )

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草加市の道標所在一覧(1〜14)  草加市柿木町ほか

「草加の道しるべ」12Pの道標所在一覧表データは、上記のとおり。所在調査と画像提供は、私の知人・草加市在住の伊藤氏の協力による。番号順に撮影画像をまとめて2枚ずつ載せる。×印は、現物が見つからなかったそうである。
サイト「近世以前の土木・産業遺産」埼玉県2リストにも、データは詳しく登載されているが、ここでは省略する。関係前3記事に、その一部は紹介している。

谷塚上町の庚申塔道標  草加市谷塚上町 ( 埼玉県 )

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谷塚上町の庚申塔道標  草加市谷塚上町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」埼玉県2リストによるデータは、次のとおり。所在地の詳しくは省くが、草加市谷塚上町115番地先、電柱に竹の塚駅西口へUカーブする車道の表示のある近くである。
「草加の道しるべ」34Pのデータは、上記のとおり。所在調査と画像提供は、私の知人・草加市在住の伊藤氏の協力による。

谷塚上町の庚申塔道標 やつかかみ
草加市 石道標(駒型) 高80㎝,幅29㎝,厚17㎝ 安政4(1857) 草加の道しるべp34 移設/三方を金網に囲まれている/像容の磨耗が極度に進行/刻字情報はすべて資料による (右面)「東、流山江 三里/千住江 壱里/西新井大師江/花又村 大明神江 三拾丁」、(左面)「西、川口宿江 二り/舎人町江 七り/慈林薬師江 一里半/鳩ヶ谷江 一里半」、(裏面)「戸塚称權現江 二里/岩槻江 五里/吉川江 二里半」/正面に青面金剛立像(日月、六手合掌、邪鬼)を陽刻、台石正面に“三猿”の陽刻/毛長川水運の舟着き場だった場所 3 C

柿木町の題目塔道標  草加市柿木町 ( 埼玉県 )

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柿木町の題目塔道標  草加市柿木町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」埼玉県2リストによるデータは、次のとおり。所在地の詳しくは省くが、草加市柿木町1575−1(株)コマックスの近くである。
「草加の道しるべ」14Pのデータは、上記のとおり。所在調査と画像提供は、私の知人・草加市在住の伊藤氏の協力による。

柿木町の題目塔道標 かきのき
草加市 一区耕地・用水堤 石道標(駒型) 高92㎝,幅37㎝,厚26㎝ 江戸期 草加の道しるべp14 原位置 (右面)「是ゟ南 江戸道」、(左面)「是ゟ西 草加道」、(裏面)「是ゟ北 吉川道」/正面に「塞神」と陰刻、頂部に“日月”の陽刻/「江戸」の標記は江戸期 1 C

柿木町の成田山道標  草加市柿木町 ( 埼玉県 )

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柿木町の成田山道標  草加市柿木町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」埼玉県2リストによるデータは、次のとおり。所在地の詳しくは省くが、埼玉県柿木浄水場の近くである。
「草加の道しるべ」13Pのデータは、上記のとおり。所在調査と画像提供は、私の知人・草加市在住の伊藤氏の協力による。

柿木町の成田山道標 かきのき
草加市 石道標(尖頭角柱) 高115㎝,幅39㎝,厚30㎝ 文久3(1863) 草加の道しるべp13/伊藤幹夫 移設→個人宅 (正面)「成田山」、(同その下)「奈りたへ 十四リ/… □リ/み戸へ 十三リ/是ゟ東/左 江戸道/橋戸へ 二里□丁/千住 三里十二丁」、(右面最下部)「つく者へ 十五り/みつか以戸へ 七り/野たへ 三り/吉川へ 一り」、(左面左下隅)「左/草加 一り」、(裏面)「□ 氷川山」/毎年9月になると一錢講が成田山に向かったとの伝承 3 C

真 井(マーガ)  伊江村西江上 ( 沖縄県 )

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真 井(マーガ)  伊江村西江上

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。伊江港ターミナルから県道225号に入り、伊江村役場の方へ向かう。所在図参照。
私は10月18日伊江島へ渡り歩いて訪ねたが、道を間違えフェリー折り返し便に間に合わず、現地を撮影できなかった。従って、「真井(マーガ)」の画像は、伊江島観光協会の提供である。

真井 マーガ
(国頭)伊江村(伊江島) <共同井戸> 石井戸 径5-6m 18世紀中頃 村有形民俗 WEB 井戸の開口部が、Cで覆われている 幼女のマリ遊びによって発見された泉/大型の共同井戸 3 C

伊江村HPの観光名所による説明は、次のとおり。

マーガ
18世紀の中頃にできた。島図には6つの井戸が出てきますが、マーガはそのうちの一つで、中でも水質がよく、水量が豊かで、水保ちのよい井戸として知られ、正月の若水や産井(産湯の水を汲む井戸)として使用されていました。このマーガにはつぎのような由来があります。
マカトという少女が手鞠をなくし、それを探すため落葉をかき分けているうちに水たまりを見つけました。よく見ると水が湧いていたので早速大人の人に知らせたところ正真正銘の湧水でした。
井戸が掘られ、最初カマト井戸と呼ばれましたが、後に真井(マーガ)と変わりました。

入江正利氏稿「崇福寺 関聖帝君の右頬(ほお)の疵(きずあと)の謎」 ( 長崎県 )

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(寄 稿) 入江正利氏稿「崇福寺 関聖帝君の右頬(ほお)の疵(きずあと)の謎」

長崎市鍛冶屋町にある聖寿山崇福寺(写真1)は臨済宗黄檗派の禅寺である。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築としてよく知られている。
重要文化財の護法堂(天王殿・写真2)は第一峰門を入るとすぐ右にあり、向かって左に韋駄天(写真3)、右に関聖帝(関羽・写真4)、中央に観音が(写真5)祀られている。室内は薄暗い上に、関羽の顔は黒ずんでいて、右の頬に疵がある事(写真6)に気付く人も少ないと思われる。

その関羽像の右頬に疵があるのは何故なのか。

調べてみると『長崎名勝図絵』に以下の記述がある。「堂内右半分は、関聖君と脇士平、周倉の像を置く。精巧な作で、特に関聖は霊験があるので有名である。これに菓子や食物を供えると、よく鼠に喰べられるので、寺僧は、供物を喰べられるようでは、霊験があるものかと嘲っていた。即非和尚が或る日関聖像に向かい、鼠に喰われる罪を責めて、右の頬を打ったので、頬の部分が剥落した。翌朝見ると、韋駄天の剣に一匹鼠が刺し貫ぬかれており、恰(あたか)も関聖の命令で、韋駄天が鼠を退治したようであった。寺僧もこれには驚き、早速関聖像の右頬の修理をさせたが、剥落した部分に、何回漆を塗っても、どうしてもうまく付かず、今もその痕跡が残っている。これを聞き伝えて、崇拝する者がふえた」

そして、もうひとつ。尾張の商人である菱屋平七が、享和2年(1802年)に九州を旅した時のことを著した『筑紫紀行 六』 に関羽像の記述がある。五月六日「寺内に関帝とて関羽の像あり。唐土工人の作にて即非和尚持渡られたり。或時盗賊寺に入て仏具を取。即非此像に向ひ責て曰く、「汝をこゝに安置せし事、ヶ様の災難を護らせんが為なり。然るに我前に在を取られながら、知らぬ顔するは不届也」とて、槌を以て左の頬を打れしかば、疵付たり。其後数度全体の彩色をつけるに、一月を待ずして槌の諸疵やがて顕る。されば膏薬を張置けるとぞ。今も見れば膏薬を張置たり」

この二つの記述から、供物あるいは仏具が盗まれたことへの責任から、即非和尚の手によって傷つけられたのは間違い無いようである。韋駄天の話は信じがたいが、360年ほど後の現在も、右頬に刻まれた疵が残されているのは興味深い。ただ、関羽の立派な髭は、ほとんど抜け落ちていて、顔も漆を塗った為か、赤ら顔が黒く変色してしまっているのは残念である。

ここに出てくる「即非和尚」とは、ウィキペディアフリー百科事典によると、「1657年隠元に招かれて来日し、長崎崇福寺に住して伽藍を整備し、その中興開山となった。1665年福聚寺を創建してその開山となった」とあるので、この関羽像事件は1660年頃の話である。