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多良間の抱護林  多良間村字仲筋・塩川 ( 沖縄県 )

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多良間の抱護林  多良間村字仲筋・塩川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。所在地は多良間島ガイドマップを参照。現地説明板は、写真のとおり。
「多良間の抱護林」説明板は、2箇所に設置されている。仲筋のは、写真1〜5、塩川のは、写真6〜9である。

多良間の抱護林 たらま、ほうご
(宮古)多良間村(多良間島) トゥカバナ山〜白嶺山 抱護林(主体はフクギ) 長約1.8㎞,幅10m 蔡温時代(1728-53) 県天然 現地解説板 保存・整備 蔡温(三司官=宰相、風水思想)が進めた風水思想を取り入れた林政の貴重な残存例/抱護林=「気」が散逸しないようにある村落を樹林で囲むもの/村落や畑の防風・防潮・防火・土砂の流失予防・適度の保温保湿など多くの役割を担っていた/他の島ではほとんど消滅→県下で唯一の遺産 1 A

沖縄県教育委員会(1993)「沖縄の文化財I-天然記念物編」による説明は、次のとおり。

県指定天然記念物(植物)  多良間島の抱護林
指定年月日:昭和49年12月26日  
所 在 地:多良間村字仲筋・塩川

多良間島字仲筋のトカパナ山から字塩川の白嶺山まで、集落を取り囲むように幅10mから15mの林がおよそ1.8kmにわたってつづいています。これは集落や農地を、台風や潮風から守るためにつくられた林で抱護林と呼ばれています。林内には高さ6mから7m、胸高直径20cmから50cmのフクギの大木を主体に、テリハボク、デイゴ、モクタチバナ、イヌマキなどが植えられています。このような抱護林は、かつては各島々にあり、集落や農地をさまざまな災害から守ってきました。多良間島の抱護林は、沖縄に残された唯一の抱護林といわれています。この抱護林がいつ頃つくられたのかは分かっていません。おそらく蔡温(1682〜1761)の仕事のひとつとしてつくられたと考えられています。

ナガシガー  多良間村字仲筋 ( 沖縄県 )

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ナガシガー  多良間村字仲筋

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。所在地は多良間島ガイドマップを参照。現地説明板は、写真のとおり。

ナガシガー (宮古)多良間村
(多良間島)   洞井(切石積、湧水) 1600-1700年頃? 村史跡 WEB 金網で囲まれている 周囲、階段回りに立派な切石積 3 C

沖縄離島ドットコムの多良間島観光情報による説明は、次のとおり。

ナガシガー
多良間集落の南西の外れ、消防施設の裏手にあります。他のガー同様に水が湧き出る場所として昔は活用されていたようですが、名前が良いですよね。なんかキッチン的な響きがいかにも「水場」って感じで。でもここのガーは金網で囲まれていて近くまで行けないのが残念。ガーの回りには綺麗な石積みが施されていてとても絵になっていたので残念でした。

人頭税石(ふばかり石)  宮古島市平良字荷川取 ( 沖縄県 )

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人頭税石(ふばかり石)  宮古島市平良字荷川取

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。市街地から県道83号により北へ少し進むと、平良字荷川取の県道沿い公園の反対側に、この「人頭税石(ふばかり石)」が説明板とともに立つ。
石垣島など後の記事で紹介する「星見石」も参照。

人頭税石
人頭税石(じんとうぜいせき、にんとうぜいせき)は、沖縄県宮古島市平良字荷川取にある高さ143cmほどの石柱。他に「賦測石」(ふばかりいし、ぶばかりいし)などの呼び方がある。
この石が、現在立っているのは、「ンミャガーニのウプユマタ(宮金家の大通り)」と呼ばれた場所であり、かつて平良の荷川取地区の人々が多く集まった場所であった。立っている場所は、過去に確認できるだけでも3度移転を繰り返している。
なお、一般に史跡と誤解されているが、国、県、市などの史跡に指定されているわけではない。

由来
1609年の侵攻により琉球王国は薩摩藩に支配され、税を支払わなければならなくなった。財政的に困窮した琉球王府は、1637年に宮古・八重山地方などへ厳しい人頭税を課した。その際に宮古島では、人頭税石と同じ背の高さになると課税されたと伝えられている。この伝承を、大正時代に宮古島を訪れた民俗学者・柳田國男が、著書『海南小記』に書き記したことから全国に広まり有名になった。

しかし、人頭税は、実際には身長ではなく年齢で課税されており、人頭税石と同じ背の高さになると課税されたという歴史的事実はない。宮古島には、1714年頃から正確な戸籍があり、人頭税の対象を15歳から50歳までの島民としていた。

この石が、何のための石であったかについては、人頭税の課税の目安であるという説の他にも様々な伝承が残っており、いくつかの説が唱えられている。その中には、かつて蔵元(宮古島内の貢租を取り扱った場所)の中庭にあり、霊石信仰の対象であったとする説や、陽石、図根点とする説などがある。石垣島にも同様の形状の石がいくつか残っているが、課税の目安であるとの伝承はなく、農作業のための天体観測の基準点であるなどと伝えられている。

人頭税
人頭税は、施行当時は「頭懸(ずがかり・ずがけ)」と呼ばれていた。その税制は、穀物(宮古島では主に粟)または反物にて納税させられており、村の収穫量・身分・性別・年齢によって、税の細かい等級が決められていた。琉球王国では、公有地を年ごとに耕作者を割り当てられる制度(地割制)があった。地域の有力者・豪族等には、この税制や土地制度を守らない者がいて、収穫量の大きい土地を独占することもあった。そのため、人頭税の負担は、地位が低い者に多く割り振られるようになって、貧民ほど重い負担となった。

この税制は、琉球処分が行われた後も、琉球士族への懐柔策として古い制度を尊重(旧慣温存)するという明治政府の方針でしばらく続いたが、1893年頃、人頭税制廃止運動が興り、その指導者である中村十作(新潟県出身)、平良真牛ほか4人の農民代表が宮古島から東京に上り、帝国議会に陳情を行なった。それらの運動の結果、1637年から続いた人頭税制度は1903年に廃止された。

関連項目
・星見石

砂山ビーチ  宮古島市平良字下崎 ( 沖縄県 )

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砂山ビーチ  宮古島市平良字下崎

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。宮古島の西岸、平良字下崎にある。市街地から車で10分。

砂山ビーチ
砂山ビーチ(すなやまビーチ)は、沖縄県宮古島市の宮古島にある砂浜・海水浴場である。宮古島の西岸にある白砂の海岸で、砂に覆われた丘(砂山)の先にある砂浜であることから砂山ビーチと呼ばれる。砂浜の延長は短いが、背後に迫る砂山に加え、砂浜の左手には天然の岩のアーチがあり、独特の景観を呈する。
トリップアドバイザーによる2011年の「日本のベストビーチ20」で11位に選ばれている[1][2]。2016年にトリップアドバイザーが発表した「トラベラーズチョイス世界のベストビーチ2016」の日本国内のランキングでは10位となった[3]。

無料の駐車場、更衣所・シャワー・トイレ等が整備されているが、砂山の手前(陸側)に位置しており、ビーチからはやや離れている。
沖合ではサメによる死亡事故が複数回起きている[4][5]。無料施設で管理・監視していないためその後も海水浴客の死亡事故が相次ぎ2014年は4人続けて亡くなっている。
砂山ビーチ周辺ではリゾート開発の計画があったが、開発業者の民事再生等により進んでいない[6][7]。

池間遠見番所  宮古島市平良字池間 ( 沖縄県 )

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池間遠見番所  宮古島市平良字池間   

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。宮古島市の市街地から県道83号、県道230号により宮古島の北、池間大橋を渡り池間島へ入る。県道をそのまま進むと、ENEOS給油店があり、次の角の市道へ左折。直進すると池間公民館に出る。
左海岸沿いに大三島社鳥居前を通ると、終点近くに史跡説明板がある。雑木林内を登ると、上のピークに池間漁港などを望める「池間遠見番所」がある。観光マップや途中に案内板がなく、所在図を参照。

池間遠見番所 いけま
宮古島市(池間島) 池間島南端の小高い丘陵上 遠見台、火番盛 (円形) 1644年以降 国史跡 現地解説板/WEB 保存状態良好 先島諸島の火番盛群/岩盤を利用して、その上に円柱状に石を積み、登り降りするための石段が設けられている/海の見晴らしもいい大型の遠見台 2 A

宮古島市HPの宮古島市の文化財 > 国関係 による説明は、次のとおり。

国指定史跡 先島諸島火番盛(遠見番所)  指定年月日: 平成19(2007)年3月23日
池間遠見番所
池間島南端の小高い丘陵上にあって、はるか東方には大神島が、南方には平良の街が望見できるところにある。この遠見は岩盤を利用して円柱状に造られ、登り降りするための石段が数段設けられている。この遠見には昭和25〜26年頃まで、船の位置を確認するためのピーイイス(方位石・直径20cm、高さ55cm・円柱形)が設置されていた。琉球(沖縄)で各諸島に烽火が始められたのは尚賢王時代(1644年)である。伝承によれば、この遠見には庶民からなる遠見番が輪番で任務に就き、沖縄本島を往還する上国船の航行を見守るとともに、近海を通過する船、異国船、漂流船の発見・監視等にあたったといわれている。そして、海上に船影を発見すると昼間は烽火(のろし)をあげ、夜間にはたいまつをかざして蔵元へ合図を送ったということである。
また、遠見の北東方に見えるスタテイ嶺にはスタテイ番(庶民の輪番制で2人に割り当てられたという)が夜どおし火をたいて近海を通過する船の航海安全に備えたと言われている。このスタテイに関しては「ウヤキマーズミガ」の歌謡も残っている。

池間大橋  宮古島市 ( 沖縄県 )

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池間大橋  宮古島市

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

池間大橋
池間大橋(いけまおおはし)は、沖縄県宮古島市北西部に位置し宮古島と池間島とを結ぶ全長1,425mの橋。1992年2月に開通した。1995年3月に来間大橋が開通するまでは、沖縄県内最長の橋であった。
宮古島側の宮古島市平良字狩俣と池間島側の宮古島市平良字池間とを結ぶ橋で、沖縄県道230号池間大浦線の一部を成す。構造は、PC連続箱桁橋。1986年3月に着工し、総工費99億円をかけて1992年2月に開通した。全長は1,425mで、船舶の航行のため中央部が盛り上がった形状をしている。

橋自体の構造美、周囲に広がるエメラルドグリーンの海、その先に西平安名岬や大神島を望む優れた景観のために、宮古島を代表する観光地のひとつとなっている。橋のたもとには、宮古島側に展望所、池間島側に売店が設けられている。また、この橋は、全日本トライアスロン宮古島大会のバイクコースの一部となっている。
暴風警報が発表され、かつ、風速が25m/秒以上になると、1時間前に事前連絡の上、通行止めとなる[1][2]。

クスヌカー(後の井)  宮古島市平良狩俣 ( 沖縄県 )

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クスヌカー(後の井)  宮古島市平良狩俣

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。県道230号により宮古島の北部、狩俣へ向かう。狩俣小学校前の市道へ右折、奥まで行くと番所史跡案内板があり、海岸の見える高台へ上がる。右手水道施設後ろ側に「狩俣遠見番所」がある。反対の左へ少し行くと、「ティンドウ(天堂)」なる石積みの史跡がある。
「クスヌカー(後の井)」の本来の道は、この「ティンドウ(天堂)」から岩の間を下へ下るが、草で荒れて歩けない。高台の分岐へ戻ると、大神島への海底送水か鉄管が敷設されており、これに沿って下の海岸へ降りられる。干潮時、砂浜を100mほど左へ歩くと、小沢に白い標柱が立つが、古くなり何と書いていたのかわからない。標柱地点から草付きの踏み跡をまっすぐ10mほど登ると、「クスヌカー(後の井)」説明板と丸い井戸があった。
私は同じ狩俣海岸の「イスゥガー(磯井)」洞井(海岸崖下の湧水)の方を探しに行ったつもりだったのに、地元民から間違った話を聞いて訪ねたようだ。「イスゥガー(磯井)」は、現在のところ場所不明。

クスヌカー(後の井)
宮古島市(宮古島) 石積井(海岸崖下の湧水) 14世紀頃 市有形民俗 現地解説板/WEB 保存状態良好(崖下まで降りていくのが大変) 宮古島に多い海岸崖下タイプ/大嶽按司が開削したとの伝承(同時に掘られたマイヌカー〔前の井〕は自衛隊の基地内)/鉄器の伝来や集落の歴史(民俗行事シツ)と深く関わる/垂直に積み上げられた筒状の石壁が特徴 1 B

宮古島市HPの 宮古島市の文化財 > 有形・無形文化財 による説明は、次のとおり。

市指定有形民俗文化財 クスヌカー(後の井) 指定年月日: 平成6(1994)年5月9日
狩俣集落に古くから伝わるウャーン(祖神祭)祭祀のニーリ(神歌)の中で、「時の酉長と伝わるウプグフトゥヌ(大城殿)が井戸の掘削を思い立ち、甥と相談し、村人たちを呼び集めマイツ(手斧)、ブナ(大斧)などの鉄製道具を使い、クスヌカーを掘ったところ、うまい水が豊富に湧きだしたので、人々は余りの嬉しさに村を挙げて四日三晩祝った。」と歌われており、歌詞で理解できるように飲料水が乏しかったころの人々の水に対する渇望や願い、鉄の伝来を語っている。
また、クスヌカーは狩俣の民俗行事シツ(節)と深く関わっており、旧暦5・6月の申午の日の未明、娘たちは、友達同士連れ立ってクスヌカーの前方の海に入り、胸高の深さのあたりをシツのアーグを歌いながら西に東に歩く。夜が明ける頃海から上がりクスヌカーの水を浴びて身を清める。いわゆる脱皮再生の若返りの水、バーミズ(若水)である。
このようにクスヌカーは古い時代の主要な水源としてはもとより、シツの祭事や若水の民俗礼儀のほか、鉄器の伝来や集落の歴史と深く関わり、それらを知る上でも重要な井泉である。

アーヌカー(東の井戸)・東の大門・ザー(座) ・シダディムトウ  宮古島市平良字狩俣 ( 沖縄県 )

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アーヌカー(東の井戸)・東の大門・ザー(座)・シダディムトウ  宮古島市平良字狩俣

県道230号の狩俣集落入口、狩俣小学校前右手側とその奥で見たアーヌカー(東の井戸)・東の大門・ザー(座)・シダディムトウなど。狩俣自治会独自指定の歴史民俗文化財などである。内容は説明板のとおり。

狩俣遠見番所と方位石  宮古島市平良狩俣 ( 沖縄県 )

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狩俣遠見番所と方位石  宮古島市平良狩俣

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。宮古島市の市街地から県道83号、県道230号により宮古島の北部、狩俣へ向かう。狩俣小学校前の市道へ右折、奥まで行くと史跡案内板があり、海岸の見える高台へ上がる。右手水道施設後ろ側に「狩俣遠見番所」と「方位石」が残る。
高台へ出て反対の左へ少し行くと、「ティンドウ(天堂)」なる石積みの史跡がある。狩俣には「四島の主の墓」といわれている墓が四ヶ所ある。これはそのうちの1つである。地元民は番所「のろし台」と言っているが、真偽は不明。 

狩俣遠見番所 かりまた
宮古島市(宮古島) 狩俣集落後方の海岸線に沿った丘陵上 遠見台、火番盛 (方形) 1644年以降 国史跡 現地解説板/WEB 明治末まで使われていたため保存状態が悪く、矩形の番所跡が、かろうじて推測できる程度 先島諸島の火番盛群/大神島がよく見える/残る石塁は不規則/方位石(別項目)が残る 4 B

狩俣遠見番所の方位石(ピャイイス) かりまた
宮古島市(宮古島) <狩俣遠見番所> 方角石(円形) 1644年以降 国史跡 現地解説板 石灰岩のため風化が目立つ 宮古島周辺の遠見番所には方位石が付随しているものが複数あるが、その中で最も明確な形で残る/日本最古の方角石の1つ(これまで国内最古と言われてきた「大的矢の初代方角石」もしくは「輪島の日和山方角石」より半世紀は古い) 2 A

宮古島市HPの宮古島市の文化財 > 国関係 による説明は、次のとおり。

国指定史跡 先島諸島火番盛(遠見番所)  指定年月日: 平成19(2007)年3月23日
狩俣遠見番所
狩俣集落後方の丘陵上にあって、方位を刻した円柱形のピャイイス(方位石)が設置されている。そこは明治の末頃まで「遠見番屋」(壁・石積・屋根瓦・約3坪)が遺されていた。この遠見は主として沖縄本島を往還する上国船、漂流船の発見・監視など、広く海上警備の役割を果たしていた。
伝承によれば、この遠見には遠見番が日夜、交替で海上の監視にあたり、船影を発見すると、すぐさまブンミャー(村番所)の役人に連絡をとったという。ブンミャーにはソーカツ(総聞)、ユーサズ等の役人が詰めていて、船影発見の連絡を受けると急ぎ、集落の庶民をピャーツカイ(伝令)として蔵元へ走らせたと言われている。