人頭税石(ふばかり石) 宮古島市平良字荷川取
ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。市街地から県道83号により北へ少し進むと、平良字荷川取の県道沿い公園の反対側に、この「人頭税石(ふばかり石)」が説明板とともに立つ。
石垣島など後の記事で紹介する「星見石」も参照。
人頭税石
人頭税石(じんとうぜいせき、にんとうぜいせき)は、沖縄県宮古島市平良字荷川取にある高さ143cmほどの石柱。他に「賦測石」(ふばかりいし、ぶばかりいし)などの呼び方がある。
この石が、現在立っているのは、「ンミャガーニのウプユマタ(宮金家の大通り)」と呼ばれた場所であり、かつて平良の荷川取地区の人々が多く集まった場所であった。立っている場所は、過去に確認できるだけでも3度移転を繰り返している。
なお、一般に史跡と誤解されているが、国、県、市などの史跡に指定されているわけではない。
由来
1609年の侵攻により琉球王国は薩摩藩に支配され、税を支払わなければならなくなった。財政的に困窮した琉球王府は、1637年に宮古・八重山地方などへ厳しい人頭税を課した。その際に宮古島では、人頭税石と同じ背の高さになると課税されたと伝えられている。この伝承を、大正時代に宮古島を訪れた民俗学者・柳田國男が、著書『海南小記』に書き記したことから全国に広まり有名になった。
しかし、人頭税は、実際には身長ではなく年齢で課税されており、人頭税石と同じ背の高さになると課税されたという歴史的事実はない。宮古島には、1714年頃から正確な戸籍があり、人頭税の対象を15歳から50歳までの島民としていた。
この石が、何のための石であったかについては、人頭税の課税の目安であるという説の他にも様々な伝承が残っており、いくつかの説が唱えられている。その中には、かつて蔵元(宮古島内の貢租を取り扱った場所)の中庭にあり、霊石信仰の対象であったとする説や、陽石、図根点とする説などがある。石垣島にも同様の形状の石がいくつか残っているが、課税の目安であるとの伝承はなく、農作業のための天体観測の基準点であるなどと伝えられている。
人頭税
人頭税は、施行当時は「頭懸(ずがかり・ずがけ)」と呼ばれていた。その税制は、穀物(宮古島では主に粟)または反物にて納税させられており、村の収穫量・身分・性別・年齢によって、税の細かい等級が決められていた。琉球王国では、公有地を年ごとに耕作者を割り当てられる制度(地割制)があった。地域の有力者・豪族等には、この税制や土地制度を守らない者がいて、収穫量の大きい土地を独占することもあった。そのため、人頭税の負担は、地位が低い者に多く割り振られるようになって、貧民ほど重い負担となった。
この税制は、琉球処分が行われた後も、琉球士族への懐柔策として古い制度を尊重(旧慣温存)するという明治政府の方針でしばらく続いたが、1893年頃、人頭税制廃止運動が興り、その指導者である中村十作(新潟県出身)、平良真牛ほか4人の農民代表が宮古島から東京に上り、帝国議会に陳情を行なった。それらの運動の結果、1637年から続いた人頭税制度は1903年に廃止された。
関連項目
・星見石