月別アーカイブ: 2016年10月

西原東ガー  浦添市西原4丁目 ( 沖縄県 )

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西原東ガー  浦添市西原4丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道330号浦添バイパスを宜野湾市境近くまで進むと、西原トンネルがある。トンネルを出てすぐローソン反対側角に案内標識170mとあり、左折しながら拝山(うがんやま)公園の方へ上がって行くと、「西原東ガー」の石積井(湧水)に着く。
7枚目以降の写真は、近くにある西原洗濯ガー(昭和2年新築)と、拝山公園。

西原東ガー にしはら・アガリ
浦添市 石積井(湧水) 15世紀初頭→18世紀初頭に石積 市史跡 WEB カーの前にヒンプンがあるのが特徴/小規模 1 B

仲間ヒージャー  浦添市仲間2丁目 ( 沖縄県 )

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仲間ヒージャー  浦添市仲間2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。浦添市役所前から県道38号安波茶交差点まで行き、県道38号と県道153号の間を直進気味に浦添中学校体育館裏を通る市道を上がって行くと、右手に「仲間ヒージャー」の石積井(湧水)がある。

仲間ヒージャー なかま
浦添市 石積井(湧水) 1731年以前→1935年に水タンク設置 市史跡 市教委 2009年に復元整備 ヒージャーとしては、最古級の起源切石で囲まれている 2 C

安波茶樋川  浦添市安波茶2丁目 ( 沖縄県 )

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安波茶樋川  浦添市安波茶2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。浦添市役所前から県道38号安波茶交差点まで行き、左折して県道153号に入り北へ少し進む。ファミマ前の反対側角に案内標識約200mがあり、左折して安波茶自治会館前を通り、内閣府浦添宿舎の南下に「安波茶樋川」の石樋井(流下式水源)がある。現在、復元整備工事中だが、石の樋(溝)は確認できた。

安波茶樋川 あはちゃ・ヒージャー
浦添市 石樋井(流下式水源) 不明 市史跡 WEB 荒れた感じ 石の樋(溝)で引水両側に小石垣/小規模 2 C

赤皿ガー  浦添市安波茶3丁目 ( 沖縄県 )

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赤皿ガー  浦添市安波茶3丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。浦添市役所前から県道38号安波茶交差点まで行き、右折して県道153号を少し南下する。茶山団地前バス停手前のコスモパレス近くに2箇所、「歴史の道」や「中頭方西海道」とともに「安波茶橋」の案内標識があり、右下の谷間に下ると、「安波茶橋」の北橋・南橋が架かる。
安波茶北橋を渡る手前から下流側フェンス内の崖を行く道を辿ると、すぐに「赤皿ガー」の小さな石積井(湧水)がある。 

赤皿ガー あかざら
浦添市 石積井(湧水) 琉球王国時代 市史跡 WEB 当時のまま 赤い皿で国王が水を飲んだという故事に因んだ命名/ごく小規模/安波茶橋の下流 1 C

安波茶北橋・安波茶南橋  浦添市安波茶3丁目 ( 沖縄県 )

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安波茶北橋・安波茶南橋  浦添市安波茶3丁目

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」沖縄県の石橋によるデータは、次のとおり。浦添市役所前から県道38号安波茶交差点まで行き、右折して県道153号を少し南下する。茶山団地前バス停手前のコスモパレス近くに2箇所、「歴史の道」や「中頭方西海道」とともに「安波茶橋」の案内標識があり、右下の谷間に下ると、「安波茶橋」の北橋・南橋が架かる。

№2,111  安波茶北橋
浦添市安波茶(あはちゃ)
アブチ川
橋長:3.4m  橋幅:1.9m  拱矢:0.6m  環厚:25cm
架設:

安波茶橋と石畳道
「安波茶橋と石畳道は、1597年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られたと考えられています。首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々の往来でにぎわい、国王もこの道を通って普天間宮に参詣しました。
橋は石造のアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋と、支流のアブチ川に架けられた北橋から成ります。深い谷の滝壺の側に巨石を積み上げる大変な難工事だったと思われます。南橋は沖縄戦で破壊され、北橋も崩壊していましたが平成10年に北橋を修復しました。
橋の下流側には、赤い皿(椀)で水を汲んで国王に差し上げたと伝えられる赤皿ガーがあります。」
浦添市教育委員会

№2,112  安波茶南橋
浦添市安波茶
小湾川
橋長:7.0m  橋幅:3.7m
架設:

棚原歴史公園(宮里家屋敷跡)  西原町棚原 ( 沖縄県 )

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棚原歴史公園(宮里家屋敷跡)  西原町棚原

那覇市街地から県道29号などにより西原町の坂田交差点先まで行く。旧県道で高台の棚原公民館まで左折して上がる。「棚原文化遺産」案内板があり、近くの棚原歴史公園(宮里家屋敷跡)を訪ねた。
公民館にある案内板による「ウァーフル」の説明は、次のとおり。

ウァーフル      
豚の飼育小屋を兼ねた便所である。フールには屋敷でもっとも権威のあるフール神がいると信じられた。夜、家へ帰ると座敷に上がる前に、フールの豚を起こす事によって、魔物を追い払う事が出来ると信じられていた。

棚原の石畳道  西原町棚原 ( 沖縄県 )

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棚原の石畳道  西原町棚原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。那覇市街地から県道29号などにより西原町の坂田交差点先まで行く。旧県道で高台の棚原公民館まで左折して上がる。「棚原文化遺産」案内板があり、公民館左側が「棚原の石畳道」である。写真は下の町道までいったん下って、登りがけに写した。

棚原の石畳道 たなばる
(中頭)西原町 石畳道(石灰岩) 長27m,幅1.8m 不明 町史跡 町教委/WEB 小規模 2 −

前 の 井  与那原町上与那原 ( 沖縄県 )

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前 の 井  与那原町上与那原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道329号により与那原交差点の先まで行く。次の町道角から右折して与那原町役場前にまず上がり、しばらく下った大カーフ地点から、赤線のとおり住宅地内の路地を進むと、「前の井」の石積井(半月状)に着く。
途中に案内標識がなく、路地多く場所がまったくわかりにくいから、所在地図を参照。

前の井 メエヌ・カー
(島尻)与那原町 石積井(半月状) 19世紀初頭 村史跡 WEB 井戸本体が鉄パイプ傘と金網で覆われている 王府から上納成績優秀な村に送られた「御拝領井」 3 B

御 宿 井  南風原町宮城 ( 沖縄県 )

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御 宿 井  南風原町宮城

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。那覇市街地の旭橋交差点から南東に、国道330号、国道507号、国道329号により南風原町宮城(東)交差点まで向かう。
ここで県道240号と交差するが、そのまま町道へ直進。特定非営利活動法人「のぞみの里」角に、あと100mの案内標識がある。山手へ右折、次の案内標識により左折して民家手前まで行くと、左側雑木林内に「御宿井」の石積井(円形、洗い場を併設)がある。

御宿井 ウスク・ガー
(島尻)南風原町 石積井(円形、洗い場を併設) 径1.2m 1713年以前 町史跡 WEB 井戸(現在は、拝所)コンクリートで補修/鉄網蓋でほとんど見えない 羽衣伝説が残る小型の井戸 4 C

真 玉 橋  豊見城市字真玉(まだん)橋 ( 沖縄県 )

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真 玉 橋  豊見城市字真玉(まだん)橋

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」沖縄県の石橋によるデータは、次のとおり。那覇市街地の国道58号旭橋交差点から、南東に国道330号、国道507号により南風原町の方へ向かう。那覇市国場の真玉橋(北)交差点から豊見城市へ右折すると、すぐ国場川に架かるのが真玉橋である。
豊見城市側に、発掘調査で見つかった戦前の真玉橋の比較的保存状態の良いアーチ部分が、2箇所に一部移築保存されている。

№2,099  真玉橋
豊見城市字真玉(まだん)橋

真玉橋
「真玉橋は、1522年に首里と島尻地方を結ぶ交通の要として築かれました。その橋は木橋の五連橋で、中央を真玉橋といい、南側が世持橋、北側が世寄橋、両端は名前のない橋でした。1707年に石橋への改築工事が開始され、翌年完成しました。その後、1837年に世寄橋を改築し、その北側へ新たに世済橋を築き六連の石橋になりました。
真玉橋は、大きく美しい曲線をもつアーチを連ね、水流から橋を守るために脚部にはスーチリー(潮切り)を設けるなど、構造的にも景観的にも沖縄独特の石造文化を代表する橋でしたが、1945年の沖縄戦で破壊されました。
1996年には、戦後つくられた橋の改修工事に伴う発掘調査によって、戦前の真玉橋が豊見城市側と那覇市側の双方でみつかりました。戦後、半世紀を経て再び風格ある姿をした「真玉橋」を後世のために保存活用を図るように住民運動が展開され、その結果、豊見城市側では道路下に一部埋め戻し保存を行い比較的保存状態の良いアーチ部分を移築保存しています。」
豊見城市教育委員会

「重修真玉橋碑文」
「真玉橋は1522年(嘉靖元年)に首里城並びに軍事的要衝である那覇港及び名は一帯を防御する目的として第二尚氏第三代国王尚真によって架けられた橋です。また、琉球王府時代には首里王府と南山(島尻地方)とを結ぶ交通の要所(宿道)でもありました。
真玉橋は当初は木橋であり、中橋を真玉橋、南に世持橋、北に世寄橋、両端は名のない橋でした。
1707年に改築工事が開始され翌年には木橋から石橋に架けかえられました。1809年大雨のために川が氾濫し、世寄橋が破損したため仮の木橋をかけましたが、再び破壊されました。その後、1836年に世寄橋を改築し、その北側に新たなる橋の世済橋を築き工事は終了しました。
「重修真玉橋碑文」は二度にわたる改修工事を記念して1837年に建てられた碑で、戦前までは橋の近くにありましたが、先の大戦により破壊されました。その残存資料は1995年3月に市有形文化財に指定され、現在は市歴史民族資料展示室に展示されています。
祖先の残した文化的偉業を偲び後世に伝えるため、1978年地元真玉橋k自治会を中心に「重修真玉橋碑文復元期成会」が設置されました。その後、多くの資料収集を行い、1980年に「重修真玉橋碑文」が復元されています。碑文は漢文で表面には二度にわたる改修工事が記され、裏面はその工事に費やした人夫、工銭等が記されています。工事にかかわった人数は最初の工事が石細工8918人、人夫が35ヶ間切から83676人、二度目の工事は石細工10258人で日用夫78226人と多くの人々がかかわっています。」
豊見城市教育委員会

真玉橋の南西側に移築保存されています。
道路を隔てて、もう一基のアーチが保存されています。
こちら側はオリジナルの石のようです。反対側の輪石は復元。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。

真玉橋遺構 マダン
豊見城市 <真珠道/国場川> 石アーチ橋 (石灰岩) 長約38m(5A)→(A+A) 1708年→1837年大改修→沖縄戦で崩壊→ 2002年旧橋の遺構が発見・2基分が部分保存 市建造物 市教委/WEB 2ヶ所に分けて移設・保存オリジナルの石材が残るのは一方のみ/修景+大きな解説板 首里城と那覇港を防御する目的で、尚真王によって架けられた橋/古い迫石が残っている方のアーチ部は、5枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は乱積 2 A