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金城ダム  那覇市首里金城町・字繁多川 ( 沖縄県 )

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金城ダム  那覇市首里金城町・字繁多川

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。県道29号松川交差点から右折、首里城公園の南側谷間を通り、南風原町の県道82号へ出る市道の途中にあった。

金城ダム

金城ダム(きんじょうダム)は沖縄県那覇市にあり、二級河川・安里川に建設された洪水調節のためのダムである。

構造
上流部に上池、下流部に下池の二つの貯水池を持ち、それぞれトンネルで結ばれている。これは上池と下池の間にある県指定文化財のヒジ川橋と石畳道を保存する必要があり、また一つの貯水池では貯水量が不足するためである。最高水位もヒジ川橋が水に浸からないように設計されている。手動によるゲート操作などは行われず放水口から自然に流出する流量によって洪水調節が行われる。

基盤地層は掘削に対して不安定な島尻層泥岩であるため、格子状の地中壁からなる小ブロックを基盤地層に食い込ませることによってダムの安定性を確保している。また、島尻層泥岩は地滑りを起こしやすいことから貯水池周辺の斜面に最長28メートルのアンカーが多数打ち込まれ補強されている。

那覇市街地の中にあり首里城と識名園を結ぶ位置にあることから、水と緑と石造りをテーマとして周辺整備が行われた。斜面途中に緑地帯や遊歩道、休憩施設が整備されており市民の憩いの場となっている。また、ダム本体の表面には石垣を模して琉球石灰岩のプレートが貼り付けられており、水際には土が盛られ水生植物が植えられている。

歴史
那覇市街地を流れる安里川は中流部の川幅が狭く蛇行しているためしばしば氾濫を起こしていた。特に1961年(昭和36年)の台風23号では死者4名、全壊家屋67戸、半壊家屋186戸の被害を出した。しかしながら流域が住宅密集地であったため川幅を広げる改修は困難であった。このため上流部に洪水調節用のダムを建設することになった。安里川上流部にはもともと沖縄県農業試験場へ水を供給するための金城ダム(堤高14.5メートル、堤頂長80メートルのアースダム)があったが撤去され、新しい金城ダムに置き換えられた。

1977年(昭和52年)に調査が始められ、1988年(昭和63年)に上池が、1991年(平成3年)に下池とダム本体がそれぞれ着工された。工事は1999年(平成11年)12月におおむね完成し試験湛水が始められた。2001年(平成13年)2月13日に竣工式が行われている。総事業費は305億円であった。

参考文献
・沖縄県土木建築部沖縄県ダム事務所監修 『金城ダム工事誌』 2001年

首里金城町石畳道  那覇市首里金城町2丁目 ( 沖縄県 )

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首里金城町石畳道  那覇市首里金城町2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。首里城公園へ行く県道29号松川交差点から右折する市道により、金城交差点まで進む。ファミマ前から左折、寒川緑地大カーブまで登り右下道へ下ると、金城石畳道への交通広場(無料駐車場)がある。
交通広場から金城石畳道に出て、金城村屋(休憩所)まで登ると、石畳道は左右に分かれる。この辺りが核心部のよう。なお、石畳道登り口(写真1,2枚目)は、ファミマ前金城交差点の次の交差点のところにあった。

金城町石畳道 きんじょう
那覇市 <真珠道> 石畳道(石灰岩) 約8㎞→長約300m,幅5.3-3.0m 1477-1526年頃 県名勝 市教委/現地解説板/WEB 那覇を代表する観光地 尚真王代に南部へ通ずる重要道路(真珠道)の一部として修築された/石灰岩を加工して「あいかた積」のように敷き詰めた石畳/石畳に降った雨が周辺の井戸の水源になるよう工夫されている(現地解説板) 2 −A

金城村屋(休憩所)近くにあった現地説明板は、次のとおり。

沖縄県指定 史跡・名勝  1964年(昭和39年)5月1日指定
首里金城町石畳道
この石畳は、旧首里城守礼門南脇にあった石門(いしじょう)から識名(しきな)、国場(こくば)、真玉橋(まだんばし)を経て南部へ至る重要な道の一部だった。
首里の主要な道が石畳道に改造された16世紀のはじめ、1522年(尚真王46年)ごろにこの石畳道は造られたと推定されている。
全長300m、道幅約4m。敷石は大小の琉球石灰岩を組み合わせた「乱れ敷き」で、石の表面には適度な加工が施されていたが、長い年月で摩耗している。急な勾配のところでは石の表面に滑り止めの横線の刻みを入れたり、階段をつけたりしている。沿道の石垣は、琉球石灰岩を用い、主に沖縄独持の石積みの手法である「あいかた積み」で積まれており、石畳と調和して城下町の風情を残している。
沖縄県教育委員会  那覇市教育委員会

仲 之 川  那覇市首里金城町2丁目 ( 沖縄県 )

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仲 之 川  那覇市首里金城町2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。首里城公園へ行く県道29号松川交差点から右折する市道により、金城交差点まで進む。ファミマ前から左折、寒川緑地大カーブまで登り右下道へ下ると、金城石畳道への交通広場(無料駐車場)がある。
交通広場から金城石畳道に出て、金城村屋(休憩所)まで登ると、左右に分かれた石畳左道、金城村屋の隣に「金城大樋川」の石積井(湧水)がある。「金城大樋川」前をさらに少し登ると、右奥に「仲之川」の石積井(湧水)がある。所在図参照。

仲之川 ナーカヌ・カー
那覇市 石積井(湧水) (L字型に積まれた2段の石垣) 16世紀頃→ 1863年の災害で修復 市史跡 現地解説板/WEB コンクリートを撤去、水道管を見えなくした 水量が豊富なため、日照りの際は首里城内の用水としても使用/背面断崖は大小の石材を用い「あいかた積み」で石壁を築き、井戸は長方形に積み上げた構造/立派な石畳が付属 2 B

金城大樋川  那覇市首里金城町2丁目 ( 沖縄県 )

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金城大樋川  那覇市首里金城町2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。首里城公園へ行く県道29号松川交差点から右折する市道により、金城交差点まで進む。ファミマ前から左折、寒川緑地大カーブまで登り右下道へ下ると、金城石畳道への交通広場(無料駐車場)がある。
交通広場から金城石畳道に出て、金城村屋(休憩所)まで登ると、左右に分かれた石畳左道、金城村屋の隣に「金城大樋川」の石積井(湧水)がある。所在図参照。

金城大樋川 カナグシク・ウフヒージャー
那覇市 <金城村の共同井戸> 石積井(湧水)(コの字型に積まれた3段の石垣) 1694年以前 市史跡 市教委/現地解説板/WEB 金城町石畳道にも近く、観光の拠点/コンクリートの建物を撤去し、水道管を撤去、解説板を小型化 岩盤の奥の水脈から湧き出した水をそのまま石垣で囲んだ井戸に導き、利用したもの/3方は土留の高い石積みが施され、背後の崖は4段に分けて堅固に積み上げられている/金城地区で最大の井戸 1 A

新垣ヌカ—  那覇市首里金城町2丁目 ( 沖縄県 )

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新垣ヌカ—  那覇市首里金城町2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。首里城公園へ行く県道29号松川交差点から右折する市道により、金城交差点まで進む。ファミマ前から左折、寒川緑地大カーブまで登り右下道へ下ると、金城石畳道への交通広場(無料駐車場)がある。
交通広場から金城石畳道の方へ歩くと、石畳道に出る左手前に「新垣ヌカ—」の石積井(流下式水源)がある。所在図参照。

新垣ヌカ— アラカチ・ヌカー
那覇市 <共同井戸> 石積井(流下式水源)(L字型に積まれた石垣) 琉球王国時代末期 市史跡 市教委/現地解説板/WEB 保存状態は良好(わずかに水も出ている) 新垣恒佳が男子の誕生を祈り、私財を投じて築造/道に面する屋敷の一角に地下タンクを掘り、屋敷内の奥の井戸から泉水を導き入れて地域の人々の飲料に寄与した 2 C

潮 汲 川  那覇市首里金城町2丁目 ( 沖縄県 )

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潮 汲 川  那覇市首里金城町2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。首里城公園へ行く県道29号松川交差点から右折する市道により、金城交差点まで進む。ファミマ前から左折、寒川緑地大カーブまで登り右下道へ下ると、金城石畳道への交通広場(無料駐車場)がある。
交通広場の約50mほど手前、仲盛宅角から下へ下る坂段があり、左側に「潮汲川」の石積井(湧水)が見える。現在は道石垣が崩れる恐れあり、通行止め区間となっていた。所在図参照。

潮汲川 ウスク・ガー
那覇市 石積井(湧水)(半月型に積まれた3段の石垣) 不明 市史跡 市教委/WEB 屋根等の付加物を撤去し、昔の姿に近づけた 水量が豊富で古くから地域の飲料水となり、溢れ出る水は斜面の裾に広がる水芋田の灌漑用水となっていた/斜面をL字型に削り、半円型に垂直に掘り下げた構造 2 C

加 良 川  那覇市首里儀保町 ( 沖縄県 )

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加 良 川  那覇市首里儀保町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。首里城公園へ行く県道29号山川交差点から、県道28号に入り桃原交差点の先まで進む。県道に架かる橋下流側に「加良川」の洞井(湧水)が見えるので、写真2か3枚目の下り口から一周できる。

加良川 カラガー
那覇市 洞井(湧水) 1759年 市史跡 市教委/WEB 自然の洞穴から出る水をせき止めたもの/巨木の根が特徴 1 −

佐司笠樋川・世果報御井小  那覇市首里桃原町 ( 沖縄県 )

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佐司笠樋川・世果報御井小  那覇市首里桃原町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。首里城公園へ行く県道29号山川交差点から、県道28号に入り桃原交差点近くまで進む。尚家の松山御殿跡の敷地一部がレストラン「ラ・フォンテ」となっている。
レストラン左側の市道を上がると、尚宅正門に案内板があり、坂を少し上がった先から右奥まで行く。フェンス門内の左手に「佐司笠樋川」、反対側から右手に道下をくぐって回り込むと、「世果報御井小」がある。
「世果報御井小」は、特に案内板や説明板がなく、どこかわかりにくいから注意して探す(写真14,15枚目の半円形泉水)。

佐司笠樋川 さしかさヒージャー
那覇市 <松山御殿> 石積井(湧水)(下降通路の両側に3段の石垣) 1477-1526年 WEB 円筒状に積まれた「あいかた積み」のヒージャー林の中に埋もれている 1 C

世果報御井小 ユガフウ・ウカグヮー
那覇市 <松山御殿> 石積井(湧水) 15世紀? WEB 佐司笠樋川の隣にある小型の泉水 1 −

崇元寺公園の石門とガジュマル  那覇市泊1丁目 ( 沖縄県 )

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崇元寺公園の石門とガジュマル  那覇市泊1丁目

現地説明板は、次のとおり。那覇空港から国道58号線を北上し、泊交差点から県道28号へ右折して約1Kmの県道沿いにある。ガジュマルは、幹周12m、樹高10mほど。

国指定重要文化財 建造物    昭和47年5月15日 指定
旧崇元寺第一門(きゅうそうげんじだいいちもん)及び石牆(せきしょう)

沖縄県指定有形文化財 彫刻   昭和30年1月25日 指定
崇元寺下馬碑(そうげんじげばひ)

崇元寺は臨済宗の寺で山号を霊徳山(れいとくざん)といった。王府時代の国廟(こくびょう)で天孫氏(てんそんし)をはじめとする歴代の神位が安置され、冊封使(さっぽうし)が来た時には新王冊封に先立って先王を祀る諭祭(ゆさい)が行なわれた。かつて崇元寺は国宝に指定されていたが、先の大戦で正廟をはじめとする木造建築物はすべて焼失した。
第一門及び石牆は、正面中央の切石積み三連の拱門(きょうもん)(アーチ門)とその左右に延びる両掖門を備えた琉球石灰岩のあいかた積みの石垣であり、沖縄の石造拱門の代表的なものである。
石門の東に立つ石碑が下馬碑で、戦前は西にも同じものがあり、国の重要美術品に指定されていた。表はかな書き、裏は漢文で、この碑のところから下馬することを命じている。また、碑銘に「大明嘉靖(だいみんかせい)六年丁亥(ひのとい)七月二十五日」とあり、この年が1527年(尚清1年)にあたるので 崇元寺の創建はこの頃ではないかと考えられている。

平成2年3月   沖縄県教育委員会  那覇市教育委員会

奄水(アマンジョウ)  与論町麦屋 ( 鹿児島県 )

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奄水(アマンジョウ)  与論町麦屋

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。与論島の南東の赤崎海岸の近くにある小さな井戸。
画像提供は、(社)ヨロン島観光協会。

奄水 アマンジョウ
(大島)与論町(与論島) 湧水 大宝元(701)以前 町史跡 WEB 一部C改修 与論島に初めて人が渡来したとき、この水を発見し島に住みついたと言われている 2 B

与論町教育委員会HPの文化財による説明は、次のとおり。

アマンジョウ [天然記念物]
与論島に初めて人類が渡来したとき、この水を発見し、それからこの島に住みついたといわれている。