真 玉 橋  豊見城市字真玉(まだん)橋 ( 沖縄県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

真 玉 橋  豊見城市字真玉(まだん)橋

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」沖縄県の石橋によるデータは、次のとおり。那覇市街地の国道58号旭橋交差点から、南東に国道330号、国道507号により南風原町の方へ向かう。那覇市国場の真玉橋(北)交差点から豊見城市へ右折すると、すぐ国場川に架かるのが真玉橋である。
豊見城市側に、発掘調査で見つかった戦前の真玉橋の比較的保存状態の良いアーチ部分が、2箇所に一部移築保存されている。

№2,099  真玉橋
豊見城市字真玉(まだん)橋

真玉橋
「真玉橋は、1522年に首里と島尻地方を結ぶ交通の要として築かれました。その橋は木橋の五連橋で、中央を真玉橋といい、南側が世持橋、北側が世寄橋、両端は名前のない橋でした。1707年に石橋への改築工事が開始され、翌年完成しました。その後、1837年に世寄橋を改築し、その北側へ新たに世済橋を築き六連の石橋になりました。
真玉橋は、大きく美しい曲線をもつアーチを連ね、水流から橋を守るために脚部にはスーチリー(潮切り)を設けるなど、構造的にも景観的にも沖縄独特の石造文化を代表する橋でしたが、1945年の沖縄戦で破壊されました。
1996年には、戦後つくられた橋の改修工事に伴う発掘調査によって、戦前の真玉橋が豊見城市側と那覇市側の双方でみつかりました。戦後、半世紀を経て再び風格ある姿をした「真玉橋」を後世のために保存活用を図るように住民運動が展開され、その結果、豊見城市側では道路下に一部埋め戻し保存を行い比較的保存状態の良いアーチ部分を移築保存しています。」
豊見城市教育委員会

「重修真玉橋碑文」
「真玉橋は1522年(嘉靖元年)に首里城並びに軍事的要衝である那覇港及び名は一帯を防御する目的として第二尚氏第三代国王尚真によって架けられた橋です。また、琉球王府時代には首里王府と南山(島尻地方)とを結ぶ交通の要所(宿道)でもありました。
真玉橋は当初は木橋であり、中橋を真玉橋、南に世持橋、北に世寄橋、両端は名のない橋でした。
1707年に改築工事が開始され翌年には木橋から石橋に架けかえられました。1809年大雨のために川が氾濫し、世寄橋が破損したため仮の木橋をかけましたが、再び破壊されました。その後、1836年に世寄橋を改築し、その北側に新たなる橋の世済橋を築き工事は終了しました。
「重修真玉橋碑文」は二度にわたる改修工事を記念して1837年に建てられた碑で、戦前までは橋の近くにありましたが、先の大戦により破壊されました。その残存資料は1995年3月に市有形文化財に指定され、現在は市歴史民族資料展示室に展示されています。
祖先の残した文化的偉業を偲び後世に伝えるため、1978年地元真玉橋k自治会を中心に「重修真玉橋碑文復元期成会」が設置されました。その後、多くの資料収集を行い、1980年に「重修真玉橋碑文」が復元されています。碑文は漢文で表面には二度にわたる改修工事が記され、裏面はその工事に費やした人夫、工銭等が記されています。工事にかかわった人数は最初の工事が石細工8918人、人夫が35ヶ間切から83676人、二度目の工事は石細工10258人で日用夫78226人と多くの人々がかかわっています。」
豊見城市教育委員会

真玉橋の南西側に移築保存されています。
道路を隔てて、もう一基のアーチが保存されています。
こちら側はオリジナルの石のようです。反対側の輪石は復元。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。

真玉橋遺構 マダン
豊見城市 <真珠道/国場川> 石アーチ橋 (石灰岩) 長約38m(5A)→(A+A) 1708年→1837年大改修→沖縄戦で崩壊→ 2002年旧橋の遺構が発見・2基分が部分保存 市建造物 市教委/WEB 2ヶ所に分けて移設・保存オリジナルの石材が残るのは一方のみ/修景+大きな解説板 首里城と那覇港を防御する目的で、尚真王によって架けられた橋/古い迫石が残っている方のアーチ部は、5枚の湾曲した石板から構成されている/壁石は乱積 2 A