月別アーカイブ: 2015年3月

蛤水道  神埼郡吉野ヶ里町蛤岳 ( 佐賀県 )

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蛤水道  神埼郡吉野ヶ里町蛤岳

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。私は坂本峠や蛤岳横断線からの林道が通行止めだったため、国道385号から分岐した林道蛤岳横断線で犬井谷登山口まで行き、蛤岳を越して東側山腹にある蛤水道を訪ねた。
蛤水道は長さ約1km。写真のとおり上流から下流まで往復。再び蛤岳に登り犬井谷登山口へ戻ったが、このルートは少なくとも3時間を要する。

蛤水道 はまぐり
(神崎)吉野ヶ里町 蛤岳の井手→田手川 用水路 長1.26㎞,幅1.3m 元和年間(1615-24) 選奨土木遺産 WEB C改修 成富兵庫茂安/余った水を那珂川に流す野越が数ヶ所に設けられた(福岡の水を佐賀で使わせてもらっているため、余った水は福岡に戻す配慮)⇒洪水対策の「野越」と同じ用語を余水吐にも用いている 4 B

「土木遺産in九州-蛤水道-」一般社団法人 九州地域づくり協会による説明は、次のとおり。絵図はHP「蛤水道」から。

蛤水道  はまぐりすいどう  吉野ヶ里町

所在地・完成年等 施設の形式・諸元
●所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町 蛤岳 田手川
●完成年:1626年
●設計者:成富兵庫茂安
●施工者:成富兵庫茂安
●管理者:吉野ヶ里町
●文化財指定等:
●水路
●延長:1260m
●幅:約1.3m
●高さ:約1.0m

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
蛤水道(はまぐりすいどう)は、江戸時代初期に鍋島藩家老の成富兵庫茂安が脊振山系の中腹に築いたもので、それまで福岡側へ流れていた大野川の水をため池に貯め、約1560mの長さの水道を作り、佐賀県側へ流れる田手川へ導水したものです。途中に数カ所の野越しと呼ばれる横越流堰を設け、余った水は福岡県側へ流れ落ちる仕組みとなっています。九州自然歩道の永山峠が蛤水道の落ち口であります。水道の途中には成富兵庫茂安の水功碑が祀ってあります。
この水道は、当初は石造りでしたが、現在はコンクリート製で長さ約1kmとなっています。
毎年、5月上旬に三田川町・東脊振村(2006年に合併して吉野ヶ里町)が付近の清掃を兼ねて「兵庫祭り」を行い彼の偉業を称えています。

蛤 岳  神埼郡吉野ヶ里町 ( 佐賀県 )

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蛤 岳  神埼郡吉野ヶ里町

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。東背振IC近くから国道385号に入り東背振トンネルを目指す。道の駅吉野ヶ里を過ぎ登って行き、途中から左に標識のある林道蛤岳横断線に入る。
ループ橋のところの蛤水道へ向かう林道入口は通行止めだったため、横断線をそのまま進み、犬井谷の蛤岳登山道入口まで行った。
ここから蛤岳までは、歩いて約1時間の行程。背振山からの九州自然歩道と出合い、蛤岳まで登る。写真のこの往復の様子。目的はそもそも山頂東側山腹にある蛤水道の見学である。これは次記事で報告する。

蛤 岳

蛤岳(はまぐりだけ)は、日本南部の九州・佐賀県北部にある、脊振山系に属する標高862.8mの山である。福岡県との県境近くの神埼郡吉野ヶ里町北部にある。山頂には直径3〜4mほどの蛤岩と呼ばれる巨石があり、これが東西に割れて蛤が殻を開いた様子に見えることから名付けられたと言われている。

蛤水道

山腹には江戸時代初期に佐賀藩鍋島氏の家臣、成富茂安が築造した蛤水道が現存し、田手川水系へと豊かな水を佐賀方面に流し続けている。
蛤水道は蛤岳から筑前方面に流れていた水を肥前側へ通す人工水路であり、1626年に築造された[1]。蛤岳の東側中腹にため池と1.5km程の導水路を築造し、南方の田手川に落ちる谷筋まで導水する仕組みである。「野越し」という一種のオーバーフロー設備が特徴であり、多雨期に水路が溢水して崩壊しないよう工夫されたものである。
2010年には土木学会選奨土木遺産に認定された。

五穀神社の石橋  久留米市通外町 ( 福岡県 )

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五穀神社の石橋  久留米市通外町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。西鉄久留米駅から国道322号を行く。次がすぐ五穀神社前バス停である。

№1,975  五穀神社の石橋

福岡県久留米市通外町58-1
市指定文化財
橋長:10.5m  橋幅:3.2m
6径間桁橋
架設:文化3(1806)年

「寛延2年(1749)、久留米藩7代有馬頼撞によって創建された五穀神社の池にかけられた石造反橋である。
この神社は藩営に近いものであり、神社神殿を大庄屋中、拝殿は総郡中から寄進を命じている。この例にもれず、この石橋も文化3年(1806)に総郡中からの寄進によるものである。
長野石(八女市長野で切り出される阿蘇凝灰岩)が使用され、同所の石工たちによって築かれ、筑後地方の石橋架橋技術を示し、貴重である。」
五穀神社は最盛期、神殿と神宮寺円通寺ほか阿弥陀堂・地蔵堂・観音堂などの諸堂があった。明治2年(869)に神仏分離により円通寺が廃寺になり、五穀神社のみになっており、盛時を復元するのに貴重な建造物である。」
久留米市教育委員会

長門石八幡神社参道橋  久留米市長門石5丁目 ( 福岡県 )

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長門石八幡神社参道橋  久留米市長門石5丁目

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。筑後川の長門石橋を渡り県道145号に入る。長門石バス停手前から右折すると八幡神社がある。

№5,038  長門石八幡神社参道橋

久留米市長門石5丁目
橋長:4.6m  橋幅:2.4m
2径間円弧桁橋
架設 昭和3年

庚申板碑  久留米市長門石5丁目 ( 福岡県 )

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庚申板碑  久留米市長門石5丁目

HP「久留米市の文化財」による説明は、次のとおり。筑後川の長門石橋を渡って県道145号に入る。長門石バス停手前から右折すると八幡神社がある。碇石は本殿横にある。

78-1 庚申板碑
種 別:有形民俗文化財 (昭和59年6月29日 市指定)
所在地:久留米市長門石5丁目1-13 八幡神社・天満宮
アクセス:西鉄バス「長門石」下車徒歩3分

庚申信仰は、60日に一回めぐってくる庚申の夜、三尸虫(さんしのむし)が人の体から抜け出して、その人の罪を天帝に告げるのを防ぐため、人々が集まり徹夜で雑談する風習にあるといわれています。この風習に基づいて作られたのがこの庚申塔です。
高さ73cm、幅75cmで、全体的に丸みをおびた自然石で、碑面中央に種子と「奉信念庚申待三十五年」、その右に「寛永十一年甲戌十一月吉日執行次郎衛門尉敬白」とあります。なお、「右意趣者子孫繁栄家内福貴村中安全祈願成就如意満足之所」からなる趣旨文が刻まれ、当時の庚申信仰の内容を知る上に貴重なものです。
寛永11年(1634)建立は県下でも最古の遺物であり、「三十五年」は当時から35年前の慶長4年(1599)には「庚申待ち」行事が行われたことを示すものです。

長門石町の碇石  久留米市長門石5丁目 ( 福岡県 )

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長門石町の碇石  久留米市長門石5丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。筑後川の長門石橋を渡って県道145号に入る。長門石バス停手前から右折すると八幡神社がある。碇石は本殿真裏にある。

長門石町の碇石 ながといし
久留米市 (本村区)八幡宮 碇石(花崗岩) 長128㎝ 中世〜近世 市有形民俗 WEB 立てて屋外展示 町名の由来になったという伝承のある石/①平家が長門から逃れてきた船の碇だとする説、②長門からの国の船をつなぐ舫石(碇石の転用)だったとする説などがある/県内に多い蒙古碇石とは無関係 3 C

HP「久留米市の文化財」による説明は、次のとおり。

78-2 碇 石

種 別:有形民俗文化財(昭和62年2月21日 市指定)
所在地:久留米市長門石5丁目1-13 八幡神社・天満宮
アクセス:西鉄バス「長門石」下車徒歩3分

碇石は、長門石の八幡神社に土中に突き立てられた形で建っています。赤御影(花崗岩)で造られていて、全体の四分の一程が欠けています。
碇石とは、角柱形の石材を碇として使用したもので、平安時代に来航した中国北宗時代の商船や日本の遣唐使船、鎌倉時代の蒙古来襲の軍船など色々な時代の様々な船に使われました。
蒙古碇石は、西日本一帯に40数カ所発見されています。その中心は博多湾沿岸で、西は平戸・五島、東は山口県萩で確認されています。もし、この碇石が蒙古来襲時の軍船のものとすれば、最も内陸部で南にある碇石ということになります。
またその一方で、地元の伝承や記録にある長門国(山口県)の船との関連や長門石地域は筑後川がつくった洲であることから、有明海交通の面から考えることもできます。

目安町一里塚  久留米市安武町安武本 ( 福岡県 )

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目安町一里塚  久留米市安武町安武本

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道23号安武小学校前の約
600m北東に目安町交差点があり、一里塚はこの角にある。一里塚公園となっている。

目安町一里塚 めやす
久留米市 <柳川街道> 一里塚(1基) 元禄以前 市史跡 市教委 榎の巨木(高13m)が残る→オリジナル/明確な塚がない 3 A

HP「久留米市の文化財」による説明は、次のとおり。

85 目安町の一里塚

種 別:史跡天然記念物(昭和49年4月25日 市指定)
所在地:久留米市安武町安武本3104-1
アクセス:西鉄バス「目安町」下車徒歩1分

一里塚の起源については、明らかではありませんが、豊臣秀吉の頃に36町を1里として、1里ごとに塚を築いていたようです。その後江戸時代になり、国内統一とともに道路網の整備が進み、街道に約5間(9m)四方の小山状の一里塚が築かれました。一里塚は、塚上に1本または数本の木が植えられ、旅人にとっては旅程の目安として、また木陰が休憩の場として貴重なものでありました。
目安町の一里塚は、築造の時期は不明ですが、元禄年間(1688〜1704)の「久留米藩領図」には久留米と柳川を結ぶ往還に描かれていることから、それ以前にはあったと思われます。久留米札ノ辻(今の通町、市役所東交差点付近)からちょうど1里となります。古くは、この西側の榎の塚とともに、東側にも松が植えられた塚がありましたが、道路の拡幅により壊されたようです。
久留米市内には、その他に各所に一里塚がありましたが、現在は残っていません。

諸富津地先の荒籠  佐賀市諸富町諸富津 ( 福岡県 )

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諸富津地先の荒籠  佐賀市諸富町諸富津

国土交通省九州地方整備局 筑後川工事事務所発行冊子「筑後川 治水・歴史編 歴史散策」9頁の「荒籠」。3枚の写真が掲載され、筑後川交流館はなむねにも同頁が展示されていた。
1枚目は●大川市海道島付近右岸。これは「海道島百間荒籠」で、周知のことである。2枚目は●諸富町諸富橋下流左岸。3枚目は●諸富町諸富橋上流左岸とあったので、2,3枚目の荒籠を現地確認に行った。

筑後川の右岸、佐賀市側の諸富町諸富橋近くには、橋の下流・上流とも大小の荒籠が多く見られる。写真で報告するが、「歴史散策」2枚目●諸富町諸富橋下流左岸は、私の撮影写真では、イメージ4,5だろう。3枚目は●諸富町諸富橋上流左岸は、イメージ8?あたりとなるだろう。
現地で全部は調べられず、築造年代など詳しくはわからない。石組みから近代のものと思われるものもある。

徳富地先の荒籠  佐賀市諸富町徳富 ( 佐賀県 )

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徳富地先の荒籠  佐賀市諸富町徳富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。国道208号の大川橋と諸富橋の間が大中島(佐賀市諸富町徳富)である。大中島の北西部で見た島最大の荒籠。これだろうか。
大中島を一周してあと一つは、北東部にあった岸壁に埋められた最後の写真の先端部。30mはない。

徳富地先の荒籠  とくどみ
佐賀市 筑後川(大中島) 石水制 長約30m 江戸中期? 筑後川河川事務所 保存状態良好/基部の護岸は恐らく近代の補強 筑後川の荒籠群(小型) 2 C

5〜7枚目は、2015年3月28日に再訪した「徳富地先の荒籠」写真。8枚目は、対岸の諸富町道海島側に見える荒籠。

花宗水門と筑後川交流館はなむね  大川市向島 ( 福岡県 )

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花宗水門と筑後川交流館はなむね  大川市向島  

現地説明板及びblog筑後川・川の駅による説明は、次のとおり。県道767号花宗橋近くから入る。

一級河川筑後川  花宗水門  河口より6.4km

■高潮被害を防ぐ花宗水門
花宗川の合流付近は、地盤が低く、梅雨期の出水による浸水被害や、台風による高潮被害が度々受けてきました。そこで、そのような被害から、人々の暮らしを守るために、花宗水門の建設を計画し、平成14年3月に完成しました。
平常時は水門をあけておきますが、台風接近時など、高潮が発生すると予想される場合は、水門のゲートを閉め、高潮が花宗川へ侵入してくるのを防ぎます。      国土交通省 筑後川河川事務所

筑後川交流館はなむね

当館は筑後川の下流左岸にあり、国土交通省筑後川河川事務所大川出張所内資料館として公開されています。
すぐ目の前には筑後川本流へ花宗川が合流する花宗水門があり、また堤防に上がれば筑後川にかかる昇開橋(国指定重要文化財・機械遺産)、河口まで延々6kmも続くデレーケ導流堤(土木遺産)を展望することができます。
館内は高潮被害発生のしくみやその危険性に関する資料、防災、河川環境保全等の啓発や筑後川河口域の歴史や文化などの資料を展示しています。
[連絡先] 〒831−0005 福岡県大川市向島2631−2  TEL:0944−86−2516(大川出張所)