宇和島城 愛媛県宇和島市丸之内
国の文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。
名称: 宇和島城
ふりがな: うわじまじょう
種別1: 史跡
指定年月日: 1937.12.21(昭和12.12.21)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 宇和島市丸之内
解説文:
鶴島城又ハ板島九串城トモス。初メ西園寺氏ノ部將之ニ居リ、文緑四年藤堂高虎受封後慶長元年、工ヲ起シ、數年ニシテ城郭ノ完成セリ。慶長十九年伊達秀宗ノ所領トナリ、寛文二年二代宗利城郭ヲ改修シ、新ニ天守閣ヲ構築シ同五年竣工セリ。翌年十一月更ニ追手門ノ落成ヲ見、共ニ現存シテ昭和九年一月國寳ニ指定セラレタリ。城構ハ丘陵ヲ利用セル平山城ニ屬シ、宇和島灣ニ面セル景勝ノ地ニアリ。丘頂ニ本丸、二ノ丸ヲ構ヘ北麓ニ三ノ丸ヲ設ケタルモノニシテ附近ニ長門丸、藤兵衛丸、西麓ニ代右衛門丸ノ阯アリ。三層ノ天主閣ヲ始メ舊建築ノ礎石、各所ノ石壁、石段、追手門、上リ立門等ヨリ保存セラル
(愛媛県解説)
宇和島城は、宇和島湾にのぞむ標高80m弱の独立丘陵上に築かれた海城で平山城の形態をとる。慶長元年(1596年)、藤堂高虎が宇和郡7万石の統治拠点として、中世城郭「板嶋丸串城」の近世城郭化を図り、慶長6(1601)年に完成。慶長13(1608)年に富田信高、元和元年(1615年)に伊達政宗の長庶子秀宗が入部、明治まで宇和島伊達家9代の居城となる。2代宗利が寛文4(1664)年から7年をかけ、天守や多くの石垣・矢倉を改修。現在遺存するものは概ね寛文改修のものだが、基本的な城構は藤堂期のままとされる。「宇和島城」と改称されたのは伊達家入部以降で、5代村候の頃から「鶴島城」とも呼ばれる。
近代以降市街化により堀は全て埋没、三之丸など総郭約28haが消失、本丸や二之丸
など約10haは昭和12(1937)年に史跡に指定された。建造物では、当時国宝指定の追手門が第2次世界大戦により焼失したが、現存12天守の一つで重要文化財の天主と南側登城口城門の市有形文化財上り立ち門が残っている。