月別アーカイブ: 2012年8月

宇和島城  愛媛県宇和島市丸之内

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宇和島城  愛媛県宇和島市丸之内

国の文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 宇和島城
ふりがな: うわじまじょう
種別1: 史跡
指定年月日: 1937.12.21(昭和12.12.21)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 宇和島市丸之内
解説文:
鶴島城又ハ板島九串城トモス。初メ西園寺氏ノ部將之ニ居リ、文緑四年藤堂高虎受封後慶長元年、工ヲ起シ、數年ニシテ城郭ノ完成セリ。慶長十九年伊達秀宗ノ所領トナリ、寛文二年二代宗利城郭ヲ改修シ、新ニ天守閣ヲ構築シ同五年竣工セリ。翌年十一月更ニ追手門ノ落成ヲ見、共ニ現存シテ昭和九年一月國寳ニ指定セラレタリ。城構ハ丘陵ヲ利用セル平山城ニ屬シ、宇和島灣ニ面セル景勝ノ地ニアリ。丘頂ニ本丸、二ノ丸ヲ構ヘ北麓ニ三ノ丸ヲ設ケタルモノニシテ附近ニ長門丸、藤兵衛丸、西麓ニ代右衛門丸ノ阯アリ。三層ノ天主閣ヲ始メ舊建築ノ礎石、各所ノ石壁、石段、追手門、上リ立門等ヨリ保存セラル

(愛媛県解説)
宇和島城は、宇和島湾にのぞむ標高80m弱の独立丘陵上に築かれた海城で平山城の形態をとる。慶長元年(1596年)、藤堂高虎が宇和郡7万石の統治拠点として、中世城郭「板嶋丸串城」の近世城郭化を図り、慶長6(1601)年に完成。慶長13(1608)年に富田信高、元和元年(1615年)に伊達政宗の長庶子秀宗が入部、明治まで宇和島伊達家9代の居城となる。2代宗利が寛文4(1664)年から7年をかけ、天守や多くの石垣・矢倉を改修。現在遺存するものは概ね寛文改修のものだが、基本的な城構は藤堂期のままとされる。「宇和島城」と改称されたのは伊達家入部以降で、5代村候の頃から「鶴島城」とも呼ばれる。
近代以降市街化により堀は全て埋没、三之丸など総郭約28haが消失、本丸や二之丸
など約10haは昭和12(1937)年に史跡に指定された。建造物では、当時国宝指定の追手門が第2次世界大戦により焼失したが、現存12天守の一つで重要文化財の天主と南側登城口城門の市有形文化財上り立ち門が残っている。

伊方発電所  愛媛県西宇和郡伊方町

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伊方発電所  愛媛県西宇和郡伊方町

三崎港フェリーを降り、佐田岬半島の国道197号を東へ向かう。観光物産センター伊方きらら館の先に発電所の入口道路があった。近くまで下ると物々しい警戒であった。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

伊方発電所

伊方発電所(いかたはつでんしょ)は、愛媛県西宇和郡伊方町にある四国電力の原子力発電所。
概 要  四国最西部、佐田岬半島付け根付近の北側斜面に位置し、瀬戸内海(伊予灘)に面している。四国電力および四国地方唯一の原子力発電所である。国内原発で唯一内海に面する。
状 況  福島第一原子力発電所事故の影響によって既に定期検査を終えた発電機も運転再開の目途が立たないため、全発電機が定期検査に入った2012年(平成24年)1月13日から送電を停止している[1]。
なお、伊方原発は「四国全体の電力の約4割以上をまかなう」と原発PRでされることがあるが、この数値は発電量ベースにて4割のことがあったというだけであり、実際の四国電力の設備容量では、「伊方原発の割合は2割余り」である[2]。

リスク  伊方原発の間近に巨大な活断層である中央構造線があり、将来大地震を引き起こす危険があることが、伊方原発訴訟にて原告から訴えられていた。ただし裁判当時の国内の地震学界では地震の活断層説には否定的な意見が占めており、受け入れられなかった[4]。
なお、最新の地震研究[5]によると中央構造線の伊方原発近くの活動は以下のように評価されている。

石鎚山脈北縁西部の川上断層から伊予灘の佐田岬北西沖に至る区間が活動すると、マグニチュード8.0程度もしくはそれ以上の地震が発生すると推定され、その際に2−3m程度の右横ずれが生じる可能性がある。
(中略)
石鎚山脈北縁西部の川上断層から伊予灘の佐田岬北西沖に至る区間は、今後30年の間に地震が発生する可能性が、我が国の主な活断層の中ではやや高いグループに属することになる。
— 地震調査研究推進本部 地震調査委員会, 中央構造線断層帯(金剛山地東縁−伊予灘)の長期評価(一部改訂)について 平成23年2月18日

三崎のアコウ  愛媛県西宇和郡伊方町

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三崎のアコウ  愛媛県西宇和郡伊方町

佐田岬半島の伊方町三崎港フェリーターミナルのすぐ近くに生える。国の文化財等データベース及び愛媛県の文化財による解説は、次のとおり。

名称: 三崎のアコウ
ふりがな: みさきのあこう
種別1: 天然記念物
指定年月日: 1921.03.03(大正10.03.03)
指定基準: (十)著しい植物分布の限界地
所在都道府県: 愛媛県
所在地(市区町村): 西宇和郡伊方町
解説文:
天然紀念物調査報告(植物之部)第二輯 四〇頁 参照 天然紀念物解説 二七五頁 本自生地ニハ六株ノあこう Ticus Wightiana Wall. アリ内四株ハ海ニ臨ミ疊積セル岩石ノ間ニ根ヲ下シ氣根ハ垂レテ岩ヲ被フ、他ノ二株ハ前者ト稍〃離レテ畑地ヲナス 海岸ノ傾斜地ニ在リ、皆發育完全ニシテ周圍一丈ニ及ブ

(愛媛県解説)
アコウ樹は、熱帯または暖地性のクワ科植物であり、海岸近くに自生することが多い。幹の周囲から気根を出し、葉は楕円形で先端は鋭尖形、基部は円形である。春に一度落葉するが、すぐ再び新葉を出す。
植物生態学上、その限界地を保存することはきわめて重要なこととされ、自生地の北限として、また巨木として4株(指定時7株であったが枯死)が指定されている。
海岸の人家に接して3株の大木があり、この地をアコギ(アコウの地方名)と呼んでいることでも、アコウがこの地に古くからあったことがわかる。
4株のうち最大のものは根回り7.5m、目通り6m、樹高12mであるこのいずれも発育はきわめて盛んであり、この地がアコウの生育に適していることを示している。 

佐田岬半島  愛媛県西宇和郡伊方町

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佐田岬半島  愛媛県西宇和郡伊方町

2012年7月23日から8月2日まで四国の旅へ。全県のつもりが計画の半分、愛媛県と香川県のみ主に回り、台風接近の悪天候となり帰ってきた。知らない土地では、目的地を探すのに時間がかかった。後は次回に期す。

大分県佐賀関港から愛媛県三崎港へフェリーで渡る。4〜6枚目は、帰りの八幡浜ー別府航路からのの風景。ウィキペディア フリー百科事典による説明は、次のとおり。

佐田岬半島

佐田岬半島(さだみさきはんとう)は、四国の最も西に位置し、愛媛県伊方町にある半島。三崎半島とよばれることもある。八幡浜港付近から西南西へ、中央構造線(メディアンライン)に沿い長さ約40kmにわたって直線的に突き出しており、北の瀬戸内海(伊予灘)と南の宇和海を隔てている。先端には佐田岬があり、瀬戸内海国立公園に指定、半島腹部は佐田岬半島宇和海県立自然公園に指定されている。国道197号の佐田岬メロディーラインは、山桜の名所。日本一細長い半島としても知られる。

長崎の西空の夕日  12− 7

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長崎の西空の夕日  12− 7

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1      2012年 7月14日の19時23分頃
写真  2〜 5  2012年 7月19日の19時25分頃
写真  6〜 9  2012年 7月21日の19時23分頃
写真 10      2012年 7月22日の19時39分頃