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長崎外の古写真考 目録番号:6584 奈良 長谷寺

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6584 奈良 長谷寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6584 奈良 長谷寺

目録番号:1331 長谷寺
〔画像解説〕
西国三十三所観音霊場のひとつ。天平5年(733)に行基を導師として本尊の開眼供養をおこなったと伝えられている。仁王門から本堂へと至る登廊の両側に植えられた牡丹の花時には、数多くの花見客が訪れる。

■ 確認結果

目録番号:6584「奈良 長谷寺」は、目録番号:1331「長谷寺」にあるとおり、本堂や仁王門から見ると、奈良県桜井市初瀬にあるタイトルどおりの「奈良 長谷寺」に間違いないだろう。
「撮影地域:鎌倉」とはならない。鎌倉にも「長谷寺」があるが、寺の造りが違う。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は次のとおり。現在の写真は、邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部 HPの長谷寺から。

長 谷 寺(はせでら)

長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派(ぶざんは)総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は道明上人とされる。西国三十三箇所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。

大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場する。中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。

長崎外の古写真考 目録番号:5752 寺の御堂二棟

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5752 寺の御堂二棟

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5752 寺の御堂二棟

■ 確認結果

目録番号:5752「寺の御堂二棟」は、京都市左京区若王子町の「若王子神社」と思われる。
「寺の御堂二棟」を同じように写した古写真が2枚目のとおり、京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 I に作品43「若王寺」で収録されている。 http://www.pref.kyoto.jp/archives
わたしの青秀庵HP ◎名所旧跡めぐりによる神社の説明は次のとおり。現在の写真も同から。

若王子(にゃくおうじ)神社

「哲学の道」の南の起点となる若王子橋の近くにあるのが若王子神社。正しくは熊野若王子神社という。東大路丸太町の北西角の熊野神社、東大路七条を南へ5分ほどの所にある新熊野(いまくまのと読む)神社の二社と共に、京都三熊野の一社である。
若王子神社は祭神として、天照大神、伊佐那岐(いざなぎ)命、伊佐那美(いざなみ)命、国常立(くにとこたち)命が祀られていて、天照大神の異名「若一王子」からとった社名である。

神社は“若王子さん”と呼ばれ、縁結びの神様として若い人達に人気で、お参り帰りに哲学の道を散策されている。また境内末社の恵比須社で祀られている恵比須大神は、かっては西洞院中御門(椹木町)あたりの蛭子社で祀られていたが、応仁の乱で神だけ残し焼失、その後この若王子で祀られるようになったとか。蛭子社の傍を恵比須川が流れていたが、現在では“夷川通り”の名だけが残っている。勿論、この恵比須社へは開運・商売繁盛を祈願する人のお参りがある。

若王子神社は、永暦元年(1160)、後白河法皇が紀州の熊野権現を永観堂禅林寺の守護神として分霊を迎えられ祈願所とされ、禅林寺新熊野社・若王寺と呼ばれたこともある。室町時代には、足利尊氏、義政などが境内で花見の宴を催したという記録がもある。その後、明治初年の神仏分離によって独立した。
なお、この神社の御神木「椰(なぎ)」の葉で作られたお守りは、あらゆる悩みをナギ倒すとして人気だそうです。

長崎外の古写真考 目録番号:5710 参道 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5710 参道 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5710 参道

目録番号:1997 参道の人力車
〔画像解説〕
蓮華王院(三十三間堂)敷地北側より智積院への参道を東を向いて撮影したものか。正面奥に見えるのは智積院の正門で、背後に阿弥陀ケ峯をいただく。参道の坂道を登っていく人力車の車夫がカメラの方を振り返っている。左方に明治28年(1895)年建造の京都帝室博物館の煉瓦塀が見えないので、写真はそれ以前に撮影されたもの。

■ 確認結果

目録番号:5710「参道」と、目録番号:1997「参道の人力車」は、京都市東山区の「知恩院黒門通り」ではないだろうか。通りを東と西から写しているよう。知恩院三門より一筋上(北)の通りとなる。

目録番号:5710「参道」と同じような構図の古写真が、3枚目のとおりウェブ「洛中洛外散策」百年前はこんな風景 にあるので、次を参照。現在の写真も同ウェブから。
http://www2.ocn.ne.jp/~teiten/meiji.html
京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 Iに作品49「知恩院黒門通」として同古写真は収録されている。
http://www.pref.kyoto.jp/archives

(2012年11月12日 追記)
通りは地図を参照。目録番号:5710「参道」は、知恩院黒門から撮影した「華頂道」ではないか。東山区「古門前通り」の一部で東側。「知恩院黒門通り」とも呼ばれる。手前の石柵は、二条城への抜け道という伝承の「瓜生石」
一方、目録番号:1997「参道の人力車」は、奥の門と背後の写る山の稜線から、逆に通りの入口あたりから、奥の知恩院黒門を向いて撮影していると思われる。智積院への参道では、山の稜線が合わないだろう。京都市上西氏が黒門通りで現地確認した写真を、「瓜生石」とも載せる。

長崎外の古写真考 目録番号:3059 寺(7)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3059 寺(7)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3059 寺(7)

目録番号:6556 三十三間堂

■ 確認結果

目録番号:3059「寺(7)」は、目録番号:6556「三十三間堂」にあるとおり、京都市東山区三十三間堂廻り町にある「三十三間堂」である。
目録番号:3059「寺(7)」と同じ古写真が、京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 I に作品52「三十三間堂」で収録されているので、次を参照。 http://www.pref.kyoto.jp/archives

放送大学附属図書館所蔵古写真展「日本残像 —写真で見る幕末、明治—」にもあるので、次を参照。2本の立木や参道の向きが同じである。 http://lib.u-air.ac.jp/koshashin/kyoto.html
現在の写真は、蓮華王院三十三間堂HPから。同説明は次のとおり。

国宝 三十三間堂 (こくほう さんじゅうさんげんどう)

正式名は、蓮華王院で、その本堂が「三十三間堂」と通称されます。これは、東面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によります。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。
平安後期、約30年の間、院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿・ほうじゅうじどの」と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建したものでした。 ところが、そのお堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建されたのが現存のものです。朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を停めています。
地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さです。