月別アーカイブ: 2008年4月

大浦川の暗渠下に残るアーチ石橋「大浦橋」

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大浦川の暗渠下に残るアーチ石橋「大浦橋」

長崎市大浦海岸石橋通り。電停「石橋」の名前の由来になったアーチ石橋が、大浦川の暗渠下に今でも残っている。このことを紹介した資料やHPがほとんどなく、うかつだった。
九州、東京、京都等の石橋巡りを熱中されているHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の制作者N氏から教えてもらった。同氏も友人の話で初めて知られたらしく、長崎へ来られる。

4月17日干潮を見計らって暗渠下へもぐってみた。「大浦橋」と「寄附者 大浦郷林増五郎 村川勝太」の銘柱が横断歩道手前に残っていることは知っていたが、古写真を見ると桁橋のようであり、アーチ石橋は架け替えられてないものと思っていた。
アーチ石橋は、暗渠下に見事に残っていた。

暗渠は現在、橋から上流をスラブ補修工事中である。ライトにアーチが浮かび上がった。幅員4.2m、長さ10.5m。かなり大きな石橋である。上が道路で塞がれているほか、損傷は見あたらない。工事監督の人の話によると、この上流には石橋はない。
銘柱がある横断歩道反対側に最近、さるく博により次の「大浦橋」説明板が設置されていた。

大  浦  橋

石橋バス停前の道路には大浦橋(石橋)が架かっていました。実は今も道路の下を川が流れていて、かつての石橋が残っています。路面の盛り上がっている所がその目印で、親柱は、同バス停横にあります。昔は河口からこの辺りにも小舟が入っていたそうです。大浦橋は当初、木橋だったといわれていますが、明治初年に簡素な石橋となり、明治19年(1886)、地元有力者により、この写真の石橋に架け替えられました。
管理者:長 崎 市

説明板は、あと1つ「大浦川沿いのまち並み」が石橋電停につけられている。古写真の左下隅にアーチの一部がかすかに写っている。
石橋寄付者の7代目にあたる地元の林先生を訪ねた。説明板に「この写真の石橋に架け替えられた」とあるのはまぎらわしい。三角桁は車を通すため後でつけられた。暗渠になったのは、昭和30年頃。暗渠下のほんとうのアーチ石橋がわかる実物写真も添えた方が良いのではないかとの話である。

地元テレビNIBが2006年10月「まちかど探検① 幻の石橋を探せ!」で現地取材しており、ビデオを見せてもらった。先生はブライアントさん一家を暗渠下に案内している。
なお、ぼんでん氏ブログ「ぼんでんの徒然日記」に、次の記事があった。

2007/11/3 「長崎は今日も異国だった〜南山手洋館、港が見える坂〜(通さるく)」
…最初の説明は、現在暗渠となっている大浦橋の説明、「大浦橋」は、石橋電停の名前の由来にもなった橋である。昔は、入り江の末端であった場所である。居留地時代はここを多くの外国人が渡り、東山手方面に向かっていたという。現在、橋はアスファルトでそのまま埋められているという。信号の側にある橋の欄干が当時の名残を残すのみである。…

地獄川に残るレンガ造石橋  長崎市桜町・栄町

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地獄川に残るレンガ造石橋  長崎市桜町・栄町

次は布袋厚著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。最後の図とも。

長崎では道ばかりでなく、川のなかまで石が張られている。中通り商店街と寺町のあいだを流れる「シシトキ川」がそれである。この川は中島川の支流となっている銅座川の、そのまた支流である。…
川幅は約二メートルで、大きな溝という感じにちかい。上流にさかのぼるにつれて、しだいに川幅がせまくなる。写真でわかるように、両脇の板石が斜めに張られ、水量がすくないときに、流れをまんなかに集めるしくみになっている。
このような川は、桶屋町から築町をへて出島橋にいたる「地獄川」(公会堂の裏、および中央公園裏で川底がみえる)、樺島町、館内町などもある。地獄川の名は、公会堂裏にある市役所別館の場所に、むかし、牢屋「桜町牢」があったところから来ている。

私の話は、名前がすごい公会堂裏にある「地獄川」の方である。川に沿った一段高い家の入口や駐車場となって、桁石やコンクリートで川を渡っている。由緒ある町並みなので、主な通りはまだ古絵図に近い。職場が近くだったからよく通ったのに、今まで気づかなかった。橋の下を覗くとやはり石橋だった。

場所は、市役所別館から公会堂裏へ下る車は一方通行の通り。上はコンクリート橋となっているが、下に赤レンガ造の小さい石橋が残っていた。幅員2.5m、長さ2mくらい。レンガアーチに切石の礎石がはめられている。
少し細工した跡があるが、刻字はなかった。橋名は仮に「地獄川の桜町橋」としよう。江戸時代は「桜町牢」の入口だったかも知れない。魚の町公会堂付近は長崎の最初の魚市場があったところらしい。

この辺りの暗渠は、だいぶん開かれている。栄町の長崎女子商業高校前の通りまで、海野酒店側から暗渠を10mほど入った。ここにもやはり同じレンガ造石橋が眠っていた。通りが広い分だけ幅員は4mほど。これは「地獄川の栄町橋」としよう。
この先にはもう見あたらない。中央公園裏までいくらなんでも暗渠を進みきれない。石橋の年代は、川に板石を張って整備したときと考えてよいだろう。
他の町の同じ造りの川も、一度は見てみる必要があろう。 

稲佐山公園にあるアーチシンボル  長崎市大浜町

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稲佐山公園にあるアーチシンボル  長崎市大浜町

稲佐山は標高340.3m。長崎市街を見下ろす展望台があり、港外の島々や五島灘も広がり、市民の憩いの場となっている。
駐車場付近はつつじ公園となって、野外ステージや噴水広場がある。この一隅に長崎の石橋を模した美しいアーチシンボルが設けられている。
銘碑の説明は次のとおり。

国際花と緑の博覧会 (1990.大阪・鶴見緑地)
出展記念庭園 「ナガサキ・エキゾチック・ガーデン」  長崎県

岩屋山の岩屋神社道にある標石  長崎市虹が丘町

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岩屋山の岩屋神社道にある標石  長崎市虹が丘町

平成20年4月13日、岩屋神社から岩屋山(標高475m)へ登り、稲佐岳まで縦走した。岩屋神社道から岩屋山に登ったのは30年ぶりくらいとなる。この登山道で2つの標石を見た。
岩屋神社から谷間沿いのゴロ道をほどなく上がると、岩屋龍神と彫られた岩にはヒサシの小屋が設けられ祀られている。2つの標石はこのすぐ上の登山道脇に見られる。

岩屋龍神から登って30mほど、1つは登山道から少し離れた谷間にある。下山中の人が教えてくれた。立石で正面は平たく、よく見ると何か彫っている。彫りが薄くなり何かわからないが、梵字のようなものではないだろうか。
これからまた30mほど登山道を登ると、2つ目は道標である。石柱で「右 ○○○ミチ 左 ○○○○ミチ」。左方が今、岩屋山に登っている本道である。右方はかすかな踏跡があり、これは山腹を巻いて、岩屋山頂上からの北西尾根に出、園田トンネルや九州自然歩道まで伝えば式見ダムへ下れる。

石柱の刻字は「右 式みユミチ」、「左 シ子ヲヒミチ」のような字の格好をしている。しかし、どうしても解読不明で、写真もうまく写らない。
江越先生は石柱の存在を知っておられ、講座で案内している。文献の記録はないらしい。左の式見の方角だけは確かだそうだ。

先生の話によると、この石柱から山頂までの間にあと1つ立石があり、梵字のようなものを彫っている石がある。そして園田トンネルへの尾根道で、岩に4段ほど階段を彫っている不思議なものがあるそうである。近々、先生と現地を訪ねる約束をした。