上岳のタブノキ 雲仙市千々石町庚
国道57号線千々石木場交差点から別所ダムに登る県道へ入り、しばらくすると岳集落とやまめの里の案内標識がある。この道を行き上岳集落を過ぎ、なお奥のやまめの里までつめる。
宮橋がある神社のまだ手前の右道脇ガードレール側に、この大きなタブノキを見た。清水川の上流となり、九千部岳の山頂岩が真上に見える。
上岳のタブノキ 雲仙市千々石町庚
国道57号線千々石木場交差点から別所ダムに登る県道へ入り、しばらくすると岳集落とやまめの里の案内標識がある。この道を行き上岳集落を過ぎ、なお奥のやまめの里までつめる。
宮橋がある神社のまだ手前の右道脇ガードレール側に、この大きなタブノキを見た。清水川の上流となり、九千部岳の山頂岩が真上に見える。
女人堂跡と磨崖仏 雲仙市千々石町庚
昔の温泉山参詣道、千々石登山道に建てられた女人堂跡は、雲仙市千々石町木場にある。国道57号線木場交差点から左へ別所ダムに登る県道へ入る。しばらくすると岳集落とやまめの里への分岐があり、これに入ったらすぐ磨崖仏、その先に女人堂跡入口の史跡案内板がある。
磨崖仏は島原半島では珍しいとあり、見に行った。千々石町「千々石町郷土誌」平成10年刊161〜162頁の説明は次のとおり。
温 泉 山 信 仰
…温泉山は、高野山や吉野大峯山と同じように名高い霊場であり、それは女人禁制の山であった。女性の参詣者は登山できなかったのである。そこで千々石木場に女人堂という御堂を建てて、霊場へ参詣できない女性が参籠した。いつの頃からかはっきり分からないが、ここでは昼夜読経の声が絶えなかったという。
今では、その女人堂は田畑となり、跡には石垣と板碑、そして少し離れて磨崖仏が残るだけである。
板碑のひとつは高さ一・二メートル。自然石の上部に大日如来の種子(梵字)が刻まれ、その下に妙圓と道音の名前が薬研彫りされている。碑には年紀銘はないが、鎌倉時代の建立であろう。この二人は温泉山衆徒修験者であったろう。
また高さ一メートル、幅八四センチの無名の三角埵や、高さ一・一メートル、幅七三センチの角柱板碑がある。この碑には輪中に五智如来の種子が刻まれていて、温泉四面宮を表わしている。(「修験道とキリシタン」)
磨崖仏は島原半島では珍しい。巨石に高さ七〇センチの像を彫り込んでいる。合掌しているそのお姿から見て比丘尼像であろう。年紀銘がないのでいつ奉納したものか分からないが、多くの女性が参籠していた時代のものであろう。温泉山を背に鎮座するこの素朴な比丘尼像に、それぞれどんな願い事をお祈りしたろうか。その願いを叶えてくださったであろう比丘尼さんは、今も静かに座っていらっしゃる。…
千々石町に残るアーチ石橋 (2)上流部 雲仙市千々石町
雲仙市千々石町の千々石海水浴場にそそぐ川は、雲仙地獄盆地に発する延長12kmの島原半島第1の長さ2級河川の千々石川を本流とし、清水川・飯岳川・上峯川などを集めている。
石橋群が残っているから、下流部から上流部まで見てまわった。千々石町「千々石郷土誌」平成10年刊の1216〜1218頁に資料と地図があった。HPでは「長崎県の石橋を訪ねて」が地域別に詳しい。
郷土誌の記録当時から年月が経ち、大中橋は平成10年3月、古松橋は平成18年4月に橋が架け変えられ、石橋は解体されていた。道路拡幅のとき残すのがむつかしいようだ。現在、残っているアーチ石橋は次のとおり6橋。
上段は「千々石郷土誌」の記録。下段はHP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明。
写真 1 万 松 橋 下塩浜 明治末期
第 14 番 萬松橋(塩浜橋) 千々石町 下峯川に架かる
江戸時代末期 長さ 6.5m 幅員 5.2m(1/4程度はコンクリートの継ぎ足し)
千々石町では石造アーチ橋を壊さずに補強したり打ち増ししたりして残してくれている。石橋好きには嬉しい。
車時代に合わせて橋の幅を広げている。このような形でも残してくれるのはありがたいことだ。
写真 4 八 千 代 橋 神ノ下 大正 6年頃(1917)
第 23 番 八 千 代 橋 千々石町 橘神社より千々石川の下流に架かる
大正6年 長さ22.0m 幅員 5.4m
付近は河川公園で「橋の歴史」が見られます。
下流側には、補強工事が右下のようにされてある。橋の景観を守るため補修のしかたに工夫が見られる。
左下の写真は八千代橋の上流の風景、増水した時は完全に水没する「河磯橋」と、その奥には橘神社にいたる「軍神橋」が見える。軍神橋は近代的なコンクリート橋。
八千代橋下流の飛び石。飛び石からコンクリート橋までが短い区間に並んでいる。
写真 7 大 門 橋 小 倉 明治30年頃(1897)
第 15 番 大 門 橋 千々石町 橘神社より千々石川の上流に架かる
明治30年 長さ14.3m 幅員 4.0m
上流の風景もいいですよ。行ってみませんか?
車止めがついた。下流側に新しい橋が出来たために、大門橋は車両通行止め。橋の寿命は随分延びるだろう。
写真 10 水 道 橋 飯 岳 大正7年?
第 30 番 水 道 橋 千々石町飯岳
大正7年 長さ 7.3m 幅員 2.5m
ダムからの発電用水路の水道橋。飯岳橋の下流のダムの点検通路を通って水道橋まで行けるが、立ち入り禁止になっている。
千々石町の総務課の方から存在を伺った。枠石もしっかりしている。長崎県内では、私の知る限り唯一の水道橋。発電所の存在は判っていたから、水道橋の名前さえ判っていれば、もっと早く出会えたのにと思う。
要石の上の平石が気になる。押さえ石か排水口か?
写真 11 白 新 田 橋 白新田 明治31年頃(1898)
第 16 番 白 新 田 橋 千々石町 木場入口手前から入って千々石川の上流を目指すと判りよい。
明治31年 長さ13.9m 幅員 3.3m
もう無くなってしまったと思っていた。
普通に通る分には、石橋を忘れてしまう。石橋の上に架かる新橋は、石橋に負荷を掛けない構造になっているようだ。
写真 13 水 電 橋 岳 大正 4年 (1915)
第 17 番 水電橋(水力発電からの命名だろう)千々石町 棚田の岳の集落に入って羽山橋のバス停手前
大正4年5月 長さ11.0m 幅員 2.6m
黄色い柵は発電所まで続く。
補強工事をしている。枠石が崩れなければめったなことではアーチ橋は破損しない。このような補強は、素人目にも有効に思える。標柱もちゃんと立っていた。
千々石町に残るアーチ石橋 (1)下流部 雲仙市千々石町
雲仙市千々石町の千々石海水浴場にそそぐ川は、雲仙地獄盆地に発する延長12kmの島原半島第1の長さ2級河川の千々石川を本流とし、清水川・飯岳川・上峯川などを集めている。
石橋群が残っているから、下流部から上流部まで見てまわった。千々石町「千々石郷土誌」平成10年刊の1216〜1218頁に資料と地図があった。HPでは「長崎県の石橋を訪ねて」が地域別に詳しい。
郷土誌の記録当時から年月が経ち、大中橋は平成10年3月、古松橋は平成18年4月に橋が架け変えられ、石橋は解体されていた。道路拡幅のとき残すのがむつかしいようだ。現在、残っているアーチ石橋は次のとおり6橋。
上段は「千々石郷土誌」の記録。下段はHP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明。
写真 1 万 松 橋 下塩浜 明治末期
第 14 番 萬松橋(塩浜橋) 千々石町 下峯川に架かる
江戸時代末期 長さ 6.5m 幅員 5.2m(1/4程度はコンクリートの継ぎ足し)
千々石町では石造アーチ橋を壊さずに補強したり打ち増ししたりして残してくれている。石橋好きには嬉しい。
車時代に合わせて橋の幅を広げている。このような形でも残してくれるのはありがたいことだ。
写真 4 八 千 代 橋 神ノ下 大正 6年頃(1917)
第 23 番 八 千 代 橋 千々石町 橘神社より千々石川の下流に架かる
大正6年 長さ22.0m 幅員 5.4m
付近は河川公園で「橋の歴史」が見られます。
下流側には、補強工事が右下のようにされてある。橋の景観を守るため補修のしかたに工夫が見られる。
左下の写真は八千代橋の上流の風景、増水した時は完全に水没する「河磯橋」と、その奥には橘神社にいたる「軍神橋」が見える。軍神橋は近代的なコンクリート橋。
八千代橋下流の飛び石。飛び石からコンクリート橋までが短い区間に並んでいる。
写真 7 大 門 橋 小 倉 明治30年頃(1897)
第 15 番 大 門 橋 千々石町 橘神社より千々石川の上流に架かる
明治30年 長さ14.3m 幅員 4.0m
上流の風景もいいですよ。行ってみませんか?
車止めがついた。下流側に新しい橋が出来たために、大門橋は車両通行止め。橋の寿命は随分延びるだろう。
写真 10 水 道 橋 飯 岳 大正7年?
第 30 番 水 道 橋 千々石町飯岳
大正7年 長さ 7.3m 幅員 2.5m
ダムからの発電用水路の水道橋。飯岳橋の下流のダムの点検通路を通って水道橋まで行けるが、立ち入り禁止になっている。
千々石町の総務課の方から存在を伺った。枠石もしっかりしている。長崎県内では、私の知る限り唯一の水道橋。発電所の存在は判っていたから、水道橋の名前さえ判っていれば、もっと早く出会えたのにと思う。
要石の上の平石が気になる。押さえ石か排水口か?
写真 11 白 新 田 橋 白新田 明治31年頃(1898)
第 16 番 白 新 田 橋 千々石町 木場入口手前から入って千々石川の上流を目指すと判りよい。
明治31年 長さ13.9m 幅員 3.3m
もう無くなってしまったと思っていた。
普通に通る分には、石橋を忘れてしまう。石橋の上に架かる新橋は、石橋に負荷を掛けない構造になっているようだ。
写真 13 水 電 橋 岳 大正 4年 (1915)
第 17 番 水電橋(水力発電からの命名だろう)千々石町 棚田の岳の集落に入って羽山橋のバス停手前
大正4年5月 長さ11.0m 幅員 2.6m
黄色い柵は発電所まで続く。
補強工事をしている。枠石が崩れなければめったなことではアーチ橋は破損しない。このような補強は、素人目にも有効に思える。標柱もちゃんと立っていた。
若宮神社のクスノキ 南島原市北有馬町丙
若宮神社は南島原市北有馬町にある。国道251号線からは北有馬から諏訪の池・小浜方面の県道に入る。北有馬中学校を過ぎしばらく行くと、目につくサカイ屋商店があり、ここから左へ入るとすぐ神社がある。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。
大 ク ス
北有馬町平山の若宮神社にあるクスノキの巨木。幹周り4.3mほどある。根元には洞ができていた。神社は道路沿の平地にある。ちょっとした広場でもあり、クスノキの周辺は子供たちの遊び場でもある。
若宮神社は、唐土より招かれた畜産の祖・天之熊大人命(あめのくまうしのみこと)が奉られている。農耕畜産の神として、大和の国・若宮より分霊し建立されたと記されてある。
小浜城跡のクスノキ 雲仙市小浜町北本町
小浜城跡は雲仙市小浜町北本町にある。国道251号線からは雲仙市小浜総合支所先の交差点から左へ小浜公民館まで上がる。右方へ曲がるとイチョウの大きい光泉寺の裏通りに出、前方へ道が上がった木の多い高台が見える。ここが小浜城跡で、小浜神社跡の説明板がある。小浜神社は今、温泉街にある。
小浜町・同教育委員会「おばまー史跡巡りガイドー」平成11年刊34頁の説明は次のとおり。最後の写真は、今の小浜神社境内。イチョウとクスノキがあった。
小浜城跡とクスノキ
小浜城跡は、剣柄神社後の上もとけん山の麓あたりだが、永い年月を経て当時の要塞の跡も無く、城跡として見るべきものはない。
しかし、この地はかって幾多の大きな戦乱を経験している。(途中略)
今、城の面影はなくなったが、この地には幹周り7mという巨木が立っているが、往時の様を黙って見てきたに違いない。
楽常寺のムクノキ 雲仙市南串山町甲
楽常寺は雲仙市南串山町にある。国道251号線からは、ハマユリックスホールの手前の橋から南串山第一小学校に向けて上がり、寺はその奥の方である。
ムクノキは、最初の写真(Otoji.K氏画像)のとおり、寺の鐘楼の脇にあった。しかし、3年前に伐られて、ここに鐘楼が改築されていた。
Otoji.K氏HP「長崎県の名木」リストの中の説明は次のとおり。寺の右隣に神社があり、ここのクスノキが大きかった。
楽常寺のムク
南串山町の荒牧名にある。石段を登ると左手にある。境内から境内下にかけて生えていて、根元には小さな洞ができている。幹周り4m弱。
近くには鐘つき堂がある。この梵鐘は明治31年に設置され、時を知らせていたという。 昭和17年に戦争物資として供出されたが、昭和23年に再建された。
迫(さこ)のエノキ 長崎市野母町
長崎市野母町の野母バス停から山手に見える蔵徳寺。境内右横の方が字迫である。ここに数本のエノキの巨樹があるというので見に行った。写真のとおり伐られて痛々しい。寺の敷地右の住い裏となる。寺は近年、台風の大被害に遭っている。
右下の林の中に石祠の神社がある。目通り4mの一番大きいエノキはここにあったのか。空き地となって今は、やや大きい他の木しか見あたらない。
高浜海水浴場近く川沿いのエノキ群は前に紹介した。
野母崎町「野母崎町郷土誌」昭和48年刊35頁に外山三郎氏稿の町にある「巨樹」があり、次のとおり記している。
○迫のエノキ(野母)
野母の蔵徳寺横に無名社のホコラがあって付近に数本のエノキがある。このうちの1本は目通り4m。このほか脇岬や高浜にリュウキュウエノキのやや大きいものが何本ずつか見られる。
井上(いがみ)のアコウ 長崎市脇岬町
長崎市脇岬町の井上(いがみ)は、脇岬から行くと長崎県亜熱帯植物園サザンパークの手前にある集落。県道バス停下にも家があり、海の方へ下って細い車道を回ると、石垣に並んだアコウが見える。民家は山口宅で、アコウの木は大小5本あるようだ。
野母崎町「野母崎町郷土誌」昭和48年刊35頁に外山三郎氏稿の町にある「巨樹」があり、次のとおり記している。
石垣の左方にはツバキ、国道上にはシイのかなり大きい木がこの集落にあった。
○井上のアコウ
井上の民家にアコウがあって、隣りあっている固体間の枝と枝とがたがいに融着して連理となっている。これもアコウの生態のひとつ。
延命水そばのハマヒサカキ? 長崎市高浜町
長崎市高浜町にある延命水は、「みさき道」途中の水場で、「奉供延命水」と刻んだ古い石碑(別項)が建ち、地蔵祠がある。
地蔵祠そばの木について、野母崎町「野母崎町郷土誌」昭和48年刊35頁に外山三郎氏稿の町にある「巨樹」があり、次のとおり記している。「野母崎町郷土誌 改訂版」昭和61年刊も同じく紹介している。
○野中の地蔵とハマヒサカキ
高浜の野中の路傍に地蔵をまつる小宇(宇はのき、ひさしの意)があって清水がわいている。「奉供延命水」の文字を刻んだ石柱が建っている。小宇横のどてから斜にハマヒサカキの巨樹が出て小宇をおおっている。この樹は目通り1.18m、樹高8mほどでハマヒサカキとしては珍しい巨樹といえる。
延命水そばの木は前から気にしていた。ここには戦前まで、「野中の一本松」という有名な大松もあった。ハマヒサカキの珍しい巨樹らしいから、確かめに行った。写真は上のとおり。当時から35年経ち、木は目通り2m、樹高10mほどの巨樹となっている。
この木はしかし、どう見ても樹皮の色や葉の格好から、イヌガシやシロダモのような木である。この近くに他に巨樹は生えていない。右脇にくさび形の小葉の灌木があった。これがハマヒサカキとも似ている。根元を見ると、巨樹の株枝の下からくぐり出て生えていた。巨樹と灌木は完全に別の樹種である。
外山先生が見間違うと思われず、郷土誌に記した木はどの木なのか、今苦慮している。延命水の石碑は安政四年(1857)に建てた刻みがある。ハマサカキにしても当時植えられたものなら、樹齢は150年以上となる古木となろう。
高崎市郎先生の「ふるさとものがたり」によると、川原木場のヒジキ様に大榊があったことは先に載せた。数年前、枯れてなくなったが、サカキにまつわるいろいろな話があるものだ。