外国人居留地跡の東山手界隈標石スナップ
自分で歩いて探してみよう。下2枚は所在地地図になく何か不明。私が探した。
外国人居留地跡の東山手界隈標石スナップ
自分で歩いて探してみよう。下2枚は所在地地図になく何か不明。私が探した。
東望山砲台跡 市指定史跡
長崎市田中町にある。現地説明板は次のとおり。山頂には三角点42.3mもあった。
長崎市指定史跡 東望山砲台跡
東望山砲台は明治維新のころ(1868ころ)に設けられた最も新しい形式の砲台で、円形台座は直径3.6mである。
長崎周辺の台場跡で台座が残っているのは珍しい。大砲の形式ははっきりわからないが佐嘉藩屋敷から搬入されたという。
長崎港口神崎鼻の「神崎旧台場跡」の現況
長崎港の港口、女神の対岸となる神崎鼻の突端は、承応2年(1653)最初に築かれた「神崎旧台場」の跡となるが、明治初期からはライジングサン石油会社などの所有地(英字境標石が数本残る)となり、現在は「JF全漁連長崎油槽所」の石油タンクが建ち並び、普通は立ち入り禁止である。
長崎の幕末・明治期古写真の撮影場所探しがあり、今年の3月許可を得て中に立ち入らせてもらった。ついでに台場の遺構がないか見てまわった。なかなかお目にかからない場所なので、現況を写真によって紹介する。
長崎市西部、みなと坂団地の「船の公園」内にある説明板は、次のとおり。
小瀬戸遠見番所跡
江戸時代の長崎は、わが国で唯一オランダや中国との貿易港でした。小瀬戸遠見番所は、長崎港に来航する異国船を警備するため、元禄元年(1688年)に設置されました。遠見番所のほかに中ノ番所や不寝番所も建てられ、遠見番所は平日2人が昼夜勤務しました。
異国船入港時の連絡方法は、当初「白帆注進船」と呼ばれた船でしたが、この番所の設置によって旗を掲げる方法が併用されるようになりました。野母の権現山→小瀬戸→十人町→観善寺(のちの永昌寺)の各番所にリレーされ、長崎奉行所立山役所に報告されました。
平成5年に小瀬戸番所跡の発掘調査が実施され、遠見番所跡から当時の屋根瓦や陶磁器片などが出土しました。
なお、みなと坂の中腹となる中ノ番所跡は、現在「天神天満宮」が祀られ、この古祠の右内壁に「長崎遠見番中 家内安全 御水主中」の刻みが残っている。注進船係留杭は長崎市小榊支所裏手の駐車場内に、昭和63年移転して設置されている。
野母崎変はんれい岩露出地 県指定天然記念物
現地説明板の記事のとおり。(オリジナルのサイズの画像で見るためクリックする)
黒浜トンネル海岸側「網掛岩」から以下宿「夫婦岩」、野々串にかけて約4kmの海岸に見られる。九州最古と言われる珍しい岩の露出地である。同じものは長崎港口の鼠島(皇后島)にも見られる。
みさきの観音 脇岬の観音寺
長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史分科会編「歴史散歩(42)長崎県の歴史散歩」山川出版社2005年から一部修正引用
観 音 寺(37) 国重文の千手観音立像を安置 行基伝承を付帯
095-893-0844 長崎市野母町脇岬 JR長崎本線長崎駅 バス脇岬行観音寺入口 徒歩3分
長崎半島の南端に野母崎町がある。東海岸へまわると、弁天島へと陸繋砂洲がのびる脇岬である。その北方の遠見山の山裾に、709(和銅2)年行基の開基という観音寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、檜一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。「みさきの観音」とよばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者が多く、その道を「みさきみち」とよんだ。十人町から長崎半島の山などを南下して観音禅寺に至る。その途中、三和町の徳道部落には、「長崎より五里 御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎に向かう唐船が風待ちのため多く寄航し、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女の名も多くみえる。観音堂内陣の150枚の天井絵(県文化)は、船津町(現、長崎市恵比須町)の商人が奉納したものである。1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一族や絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人びとの目をみはらせるとともに、当時の長崎商人の豪勢さをしのばせる。
女神検疫所境の標石
女神検疫所は明治13年(1880)開設され、長崎港口で伝染病の予防、病人の隔離などをした。前身は「消毒所」といわれる。この検疫所の当時の敷地境界を示す標石が、国指定史跡「魚見岳台場跡」の中に5本ほど残っており、北側の女神台場跡にも1本見られる。寸法は15cm角、高さ52cm。
四建三角点・・・四郎ヶ島東側の小島
神の島の突端から海道を渡ると佐賀藩が築いた「四郎ヶ島台場跡」である。西側が四郎ヶ島で、東側には2つのピークがある小島がすぐあり、この間も埋立て台場としている。
小島の左の低いピークに「長崎要塞第一地帯標 第二号」を見つけたので、念のため手前右の高いピークの方へも登ってみたら、小さな標石「四建三角点」があった。
ここは長崎港口に当たり、灯台のある沖防波堤が香焼側に突き出ている。この港湾工事のため当時の建設省第四建設局が設置した三角点と思われる。
林郁彦氏と長崎医学伝習所「養生所跡」碑
『長崎談叢19輯』(昭和12年発行)に収められた林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」(21〜22頁)に出てくる関寛斎「長崎在学日記」の紀行によって、「みさき道」が解明できることとなった。林郁彦氏とはどのような人か。
この人の名は、昭和13年「長崎市史 地誌編 名勝旧跡部」補遺「養生所跡記念碑」の項、及び昭和12年「長崎観光会史跡案内誌」に名前があり、2資料から判明したのは、長崎医科大学長だった林郁彦氏は、小島養生所の史跡滅失を危惧し、記念碑建立に尽くし、碑名に筆を取った一方、長崎観光会の会長として活躍された人だったということである。
碑の写真は佐古小学校の校庭に入れてもらって撮った。「長崎市史」に記した当時の碑から、1957年秋「西洋医学教育発祥百年記念会」が建てた新しい碑に変わっていたが、たしかに「郁彦」の名があった。
脇岬海岸にある「従是観音道」「山道十町」の道塚はなにか
長崎から行くと、脇岬海岸に出た角のガソリンスタンドから、200mほど国道を行った崖の擁壁の石段上にこの道塚はある。
「従是観音道」「山道十町」。元禄十年(1697)建立の刻銘がある大きな石柱だが、敬建願主がだれかわからない。今魚町が建てた観音寺境内の「道塚五十本」の天明四年(1784)より、年代は87年遡る。
道塚の意味は、野母まで船や歩いて来て、この場所までは海岸沿いに道は来られたが、「これから断崖を捲くため山道となり、観音寺まで約1kmある」という道塚と思われる。ここに海に突き出た大きな断崖があったことは今でもわかるし、明治地図にも表われている。
この山道は佐賀藩が作製した御崎村地図に描かれ、今の字図でも赤道として残っていた。そのルートは、道塚からクリーンセンター下の給水タンクまで上がり、横に同じ高さくらいで沢を2つ跨ぎ、海水浴場手前の稲荷神社参道口に出る道である。この先は国道を少し行きすぐ左へ広い畑の畑道に入り観音寺に達する。
道跡を探しに現地を踏査したが、寸断しながらも道は残り、不明の所も暖竹が境目となってなんとなくわかる。崖を捲くと言っても、最低限であろうし、山道がすべてでない。この道は、戦後も海が大荒れの日や海岸道が決壊したとき使われたようである。
このあたりの字は「矢戸」と言って区域が広い。脇岬の人が言う「矢戸越し」は、稲荷神社の道からクリーンセンターを越し出口集落に出て長崎へ行く道のようである。従って一部区間は観音道と重複している。海岸埋立ての進捗によって、観音道の出口=矢戸越入口は、少しずつ変わっている。