四建三角点・・・四郎ヶ島東側の小島
神の島の突端から海道を渡ると佐賀藩が築いた「四郎ヶ島台場跡」である。西側が四郎ヶ島で、東側には2つのピークがある小島がすぐあり、この間も埋立て台場としている。
小島の左の低いピークに「長崎要塞第一地帯標 第二号」を見つけたので、念のため手前右の高いピークの方へも登ってみたら、小さな標石「四建三角点」があった。
ここは長崎港口に当たり、灯台のある沖防波堤が香焼側に突き出ている。この港湾工事のため当時の建設省第四建設局が設置した三角点と思われる。
四建三角点・・・四郎ヶ島東側の小島
神の島の突端から海道を渡ると佐賀藩が築いた「四郎ヶ島台場跡」である。西側が四郎ヶ島で、東側には2つのピークがある小島がすぐあり、この間も埋立て台場としている。
小島の左の低いピークに「長崎要塞第一地帯標 第二号」を見つけたので、念のため手前右の高いピークの方へも登ってみたら、小さな標石「四建三角点」があった。
ここは長崎港口に当たり、灯台のある沖防波堤が香焼側に突き出ている。この港湾工事のため当時の建設省第四建設局が設置した三角点と思われる。
魚見岳と天門峰山頂岩にある「明治九年地理局測点」
平成17年12月、女神と神崎鼻を結んで「女神大橋」が開通した。長崎港口をはさんでそれぞれ対面する山に、ある標石が大橋の架かる前からあったが、人にあまり知られず、標石が何のためのものかわからなかった。
1つは、国指定史跡「魚見岳台場」最上の「一ノ増台場」から大久保山に上る登山道があり、約15分ほど登った190m位の標高地である。尾根はさらに南東大久保山へと続き、山の形をしているように思われないが、先日神崎神社上宮から見たら、たしかに山の格好をしていた。ここが「魚見岳」(実際、魚見をしたところは台場あたりで、その背後の山の意か)と思われ、ピーク手前300m位のところの道脇に字を刻んだ標石は立っている。15cm角、高さ45cmの石柱。
1つは、大橋を渡って神崎神社上宮先に橋脚の下をくぐる歩道があり、これから山道に入って、長崎名勝図絵に白衣の観音に見立て観音山と呼ばれたと記す「天門峰」(「しらと」とも言う)に15分位で登れる。166mの標高地は大橋を俯瞰し、市街・外洋の景観が良い。山頂の高さ1m、幅1.4m位の大岩にある字の彫りこみがあり、上面には一辺20cm位の四角い溝が彫られ、対角の線らしいものも見られる。明治34年地図を見ると「鰯見嶽」(イワセン)の山名で独立標高点167.7mがあったが、現在の地形図に三角点はない。
双方の字の刻はともに「地理局測点」「明治九年第□月」。月だけ違い、魚見岳は「五月」天門峰は「四月」である。女神大橋が架かったことによって、2つがより結びつけて考えられ、日本の近代測量史の証しとなる標石でないかと考えた私は、その後、いろいろ調べてみることとした。
長崎に残る2つの「地理局測点」は、地図や測量研究の専門家である茨城県山岡光治氏、京都市上西勝也氏、国土地理院九州地方測量部次長宮崎清博氏(その後異動)に注目いただき、ことに上西氏には、平成18年2月来崎して現地調査いただくなど、さまざま世話になっている。
長崎の測点標石は、「内務省年報・報告書」第2巻 明治八年七月〜九年六月下に記録がある。同書によれば
「…東京大阪京都横浜兵庫神戸長崎新潟ノ事業ハ全国三等三角測量ヲ各地方二施行シ之レカ各部ヲ聯測シテ国図ヲ画成スルモノ二メ共二全国測量二属ス…長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼嶋神ノ島等ノ地二於テ測点ヲ二十九箇所二撰定シ其新大工町ト片瀬郷二アル二点間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日二至リ全ク成ル又底線地ノ高低ヲ測定シ及ヒ其ノ長サヲ測量スルノ業ヲ施行ス…」
とある。東京・大阪・京都につぎ5港、6鎮台と事業が開始され、重要港湾である長崎港の測量が明治9年4月から施行された。魚見岳と天門峰にある「地理局測点」標石は、この測点標石の1つに違いない。
その後、魚見岳では標石の傍らに基盤石があることを宮崎氏が発見された。他の測点の場所についても、上西氏の後日の調査により長崎歴史文化博物館に史料があることが判明し、私が閲覧して現在、現地調査中であるが形跡はなく、思った成果は上っていない。
なお、長崎の「地理局測点」などは、上西氏のインターネットサイト「三角点の探訪」上巻・下巻に追加して掲載されているので、参考としていただきたい。
(画像は、一部上西氏サイトから)
深堀有海の森節男様宅中庭にある水準点
深堀5丁目の深堀漁協近く、大籠町へ行く海岸通りの道路沿い森節男様の宅地内、中庭にある昔の型の珍しい石柱水準点。今は頭だけしか覗かせていない。氏はこれに乗って遊んだという。深堀陣屋跡の海岸側。森家は藩家老であった。
どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第二集」平成6年によると、(正面)水準點、寸法は27×27×50cm。
明治34年測図国土地理院旧版地図から、この場所に水準点の記号「□」があり、現行地図でもある。まだ使われているのは驚きだ。標高のみ「3.05」mが、「2.8」mとなっている。
南山手ホテルグラバーヒル近くにある水準点
深堀と同じような古い石柱型の水準点が、南山手の「長崎全日空ホテルグラバーヒル」(前東急ホテル)左スロープ入口の駐車場、ジュース自動販売機の裏に忘れさられてある。
どじょう会「長崎の碑(いしぶみ) 第二集」平成6年によると、(正面)水準點、寸法27×27×50cm。埋設され、番号は「五三九」までは読み取れる。
明治34年測図国土地理院旧版地図は、この位置に水準点はない。現行地図では「□3.0」mとなっている。
小菅町公民館前道路上の水準点
上の写真は、鶴見台森田氏が5年ほど前に写した。車が今の車だから、年数は間違いない。小菅町公民館は、戸町トンネル手前、ソロバンドックのすぐ上の道路沿いにある。公民館玄関前の道路を写した写真。側溝がある側に突出した石柱。これが以前の水準点である。
車が通るのに邪魔となる。人は歩きにくい。現在はどうなっているか。真ん中の写真のとおり、地下に埋設され、マンホールの蓋がかぶせられている。蓋は重く、開けてまで中を確認していない。おそらく真鍮製丸型の新しい水準点に変わっていると思う。森田氏は以前の写真をよく撮っていた。
どじょう会平成6年「長崎の碑(いしぶみ) 第二集」に、この水準点の記録があった。当時の記録では、(正面)水準點(裏面)五三九五号。寸法は24×14×29cm。
興善町・蛍茶屋・宿町大曲交差点の水準点
国道34号線の沿線にある現在の水準点の点描。写真上から興善町バス停前の植え込み内、中は蛍茶屋少し先歩道の左側、下は宿町大曲交差点を直進した左側歩道の芝生内。蓋を開けたら、このようになっていて、一等水準点であった。
国土地理院の案内標識のあるものは、このほか上戸町ダイレックス手前、長崎バイパスと合流する市布交差点などで見ている。興善町のは標識がない。二等水準点であった。標識の設置基準が等級などであるのだろうか。
現在は、ほとんど真鍮製丸型の新しい水準点となっているが、東彼杵役場前には、地元特製の磁器製もあるという。
神社境内にある三角点・・・長与琴ノ尾岳
長与町と諫早市多良見の境にあり、JR本川内駅からと、長崎バスが登山口まで上がっている。山頂に琴ノ尾神社が祀られ、円形の石垣の周りに展望台が造られている。
このため、琴ノ尾岳三角点「△451.4」mは、神社境内の拝む石祠のすぐ脇に設置されていた。
碑のある三角点・・・稲 佐 山 (標高333.0m)
稲佐山はロープウェイがあり、市街と港外の展望が良く、市民の手軽に行けるレクレーションの山として親しまれている。標高333.0m。山頂三角点は、写真のとおり傍らに地元で2つの碑が設置されている珍しい三角点である。
破損している三角点・・・野母崎権現山
野母崎の権現山三角点「△198.4」mは、山頂展望台の階下にある。写真のとおり頭部から破損し、床タイルに方角?を白ペンキ塗りしている。
国土地理院は破損を知っているが、測量に支障がないのでそのままにしていると、インターネットサイト「三角点の探訪」を作成されている京都上西氏がリスト資料で調べてくれている。
日見峠の標高は?・・・上のピークに三角点
「長崎街道歩き」で日見峠を必ず越される。街道最大の難所と言われたこの峠は、標高何mくらいだろうか。明治34年測図国土地理院旧版地図に三角点や標高はない。峠を越して下りにかかるカーブに水準点「□210.35」mが、かつてはあった。
現行地図では近くのピークに三角点が表れていた。「299.6△」m。三角点がある場所は、中尾峠の方へ縦走を始める。神社前を通りすぐ水場があり、すぐ竹林に入り道は尾根を乗り越すようになる。この左上のピークにある。
最近設置したのか、まだ新しい。4面に字があり、「四等三角点」「国地院」「基本」「027 644」。これから判断すると、「関所跡」の上の旧街道の峠地点(今は水道タンクがある)は、標高250mくらいと言ってよいだろう。