九州(福 岡 県)」カテゴリーアーカイブ

六騎・矢留大神宮の参道橋  柳川市矢留本町 ( 福岡県 )

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六騎・矢留大神宮の参道橋  柳川市矢留本町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市街地。県道714号上宮永交差点から矢留小学校へ向かう。学校裏と白秋詩苑地との間に六騎・矢留大神宮の参道橋はある。最後の写真は、近くの矢留小前橋(仮称)。

六騎・矢留大神宮の参道橋  ろっきゅ、やどみ
柳川市 六騎・矢留大神宮 石桁橋 長2.6m(G),幅1.85m 文政3(1820) WEB 保存状態良好 高欄用石梁+6枚の石梁 1 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,335 大神宮参道橋

柳川市矢留本町
橋長:2.6m  橋幅:1.85m  桁6列  単径間桁橋
架設:文政3(1820)年

六騎・矢留(やどみ)大神宮
「1185年壇ノ浦で敗れた平家の落人は、肥後路へ逃避しました。しかし、源氏の追求は厳しく、落武者6名−難波善長、加藤藤内、浦川天ヶ左衛門、鳴神藤助、是永多七、若宮兵七−は、柳川沖端へ移り住み、漁業をはじめたといわれています。当時の人々は、平家の身分の高い人達として、6名の騎馬武者の意味で“六騎”と称していました。
こうして“六騎”が、沖端漁業の基礎を築いたので、漁業者のことを“六騎”と呼ぶようになりました。
また、産土神(氏神)をまつることに気づいた“六騎”の1人は伊勢に参り、半鏡を授かった。するとまもなく、この矢留の地から半鏡が発見されたので、伊勢大神宮から授かった半鏡とつなぎ合わせてみると、不思議なことに一致し、これは大神宮様のお授けになったものであるとして、天照大神を奉祀したのが、矢留大神宮です。時は1395年11月15日でした。毎年11月15日、矢留大神宮、六騎神社の大祭がおこなわれます。」

右手は矢留小。
親柱 文政3年。

№2,338 矢留小前橋(仮称)

柳川市矢留本町
橋長:6.3m  橋幅:2.3m  桁厚:22cm   3径間桁橋
矢留小前に架かっています。
向こうは白秋公園。

下宮永玉垂宮の弐之橋  柳川市下宮永町 ( 福岡県 )

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下宮永玉垂宮の弐之橋  柳川市下宮永町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市の南部。県道766号長田病院手前下宮永交差点から東宮永小学校の方へ入る。

下宮永玉垂宮の弐之橋 しもみやながたまたれ
柳川市 下宮永玉垂宮 石桁橋 長2.1m(G),幅2.6m 天保2(1831) WEB 橋面舗装され、石橋のイメージなし 小規模な石桁橋 3 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,835 下宮永玉垂宮弐之橋

柳川市下宮永町
橋長:2.1m  橋幅:2.6m  桁8列
単径間桁橋

壱之橋は、残念ながらRC製でした。
参道を進み、神門の前に弐之橋。

三橋町久末の里塚石(一里)  柳川市三橋町下久末 ( 福岡県 )

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三橋町久末の里塚石(一里)  柳川市三橋町下久末

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市街国道208号下百町交差点から瀬高・南関への県道443号に入る。2kmほど進んだ三橋町下久末の「一里石」バス停のところに、説明板と建つ。

久末の里塚石(一里) ひさすえ
柳川市 <瀬高街道> 一里石 高約1m 1630年代以降 市教委/現地解説板 /WEB(みさき道人) 整備、ほぼ原位置 (正面)「□□□り 一里」/柳河藩が田中家(60-20)から立花家に替わり、石高が32.5万石から10.9万石に分割縮小された後の地域に一里石があるため、俗に「田中吉政が、柳川城の辻の門を起点として矢部村まで一里ごとに立てさせた」というのは間違い 2 C

今古賀の常夜灯の道標  柳川市三橋町今古賀 ( 福岡県 )

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今古賀の常夜灯の道標  柳川市三橋町今古賀

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市三橋町の国道208号今古賀バス停先。ジョイフル柳川店の南側の細い道を70mほどまっすぐ進む。内村宅の正門左奥にこの常夜灯が見える。下部は埋設しているが、地名を刻む。

今古賀の常夜灯の道標 いまこが
柳川市 <三池街道> 石道標(常夜灯) 嘉永3(1850) 市教委/WEB 移設(個人宅) 灯籠型の常夜灯/「左瀬高通り、右三池通り」 3 C

平浄庵と板碑  柳川市三橋町今古賀 ( 福岡県 )

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平浄庵と板碑  柳川市三橋町今古賀

現地説明板は、次のとおり。柳川市三橋町の国道208号今古賀バス停先。ジョイフル柳川店の南側の細い道を50mほどまっすぐ進み、左手に入ると今古賀コミュニティセンターがある。この前に板碑が残る。

平浄庵と板碑
平浄庵は、柳川城主蒲池鑑盛入道が高畑に居た時に創立されました。鑑盛は天正六年(1578)に日向(宮崎県)耳川の合戦で戦死した後、当庵に葬られました。その後、僧紅誉によって中興され、瑞松庵の末庵となりました。釈迦堂は蒲池因幡守鑑憲の廟所でした。
ここ平浄庵の境内には、2つの板碑があります。高さ70cmの法華経千部の板碑には、「時永正十五年(1518) 大乗妙典一千部(梵字キリーク)三月吉日」と銘文が刻まれています。一方、高さ150cmの乙鶴姫(鑑憲の妻)の板碑には、「天文八年(1539)己亥十一月廿四日誌施」と銘文が刻まれています。
平成13年3月  三橋町教育委員会

豊原の里塚石(一里)  柳川市大和町豊原 ( 福岡県 )

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豊原の里塚石(一里)  柳川市大和町豊原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市大和町の国道208号沿い。柳川市立豊原小学校の正門横に建つ。

豊原の里塚石(一里) とよはら

柳川市 (豊原小学校正門前)<三池街道> 一里石 高90㎝ 1630年代以降 市史跡 市教委/WEB 移設 「柳河より 一里」 2 C

東山橋  大牟田市大字今山 ( 福岡県 )

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東山橋  大牟田市大字今山

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。大牟田市の東部。県道93号大牟田高田線田町交差点からマミーズ後ろ側の市道へ入ると、すぐ堂面川に架かる。

東山橋  ひがしやま
大牟田市 一般道/堂面川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長6.5m,S4.5m(A),幅2.2m 幕末? 市教委 両側にコンクリート・アーチ/下から覗くと石アーチと分かる 4 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,331  東山橋

大牟田市大字今山
堂面川
橋長:6.5m  橋幅:2.2m  径間:4.5m  拱矢:2.7m
陣屋眼鏡橋の約300m上流

上流側 一見RC橋です。
右岸側 中央部分は石橋です。