九州(福 岡 県)」カテゴリーアーカイブ

四箇所の「二里石」と田中の道標  みやま市高田町江浦 ( 福岡県 )

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四箇所の「二里石」と田中の道標  みやま市高田町江浦

ブログ「千寿の楽しい歴史・三池街道6(渡里〜江浦町)」などによる説明は、次のとおり。みやま市立江浦小学校は、国道208号江浦小学校前交差点から西鉄江の浦駅の方へ入る。

25・四箇所の「二里石」    高田町江浦

渡里の集落を出て、江浦町に向かった所の四箇所という街道筋に二里石があった。道端に小高く土を盛って、その上に道標を立ててあったので、二里塚とも云えるが「二里」と刻んだ石柱が立っていることから一般には「二里石」と呼ばれていた。(そのすぐ西側は徳島の住所になる。)
塚の側には大きな木があったことから、昔は樹の下に小屋掛けの茶店があって、あめ湯や駄菓子でも売っていたのであろう。現在の徳島と江浦町の境界線付近で「二里石」は江浦の「四箇所」に立っていた。
昭和50年代に圃場整備事業により道が変更になりましたが、江浦村字四箇所から淀姫神社鳥居南側へ三池街道が直線で延びていたと思われます。現在は江浦小学校の校門を入って右側に移転されている。

(以下は、「同ブログ・みやま市高田町の有形民俗文化財」による説明)
…今は、国道208号が通じ、農地改良事業等で渡里(わたり)から江浦町までの三池街道は消滅している。この二里石は、いつの間にか行方が判らなくなってしまった。そこで江浦小学校で柳川城ゆかりの旧藩主立花家より原石を譲り受け、復元して学校内に建てている。

30・江浦町 田中の道標

江浦町田中の三叉路(少林寺前)の30cm角の道標がある。側面には「左原町」「右渡瀬」の刻字がある。現在は江浦小学校の門内に「二里石」と並んで収められている。

(以下は、「同ブログ・みやま市高田町の有形民俗文化財」による説明)
三池街道の江浦町字田中の三叉路(さんさろ)(小林寺門前)に、縦・横30㎝余の砂岩角柱標が建っていた。側面には「左原町」「右渡瀬」と陰刻がしてあり、上部は角柱の形に細工し、その下部に長方形の穴が穿(うが)ってある。
思うに、祭礼等の折に幟を立てる石柱として利用されていたのではないだろうか。この道標が、いつ破損したかは不明であるが、今も現地に地下部分は埋まったままで、地上部分の残欠は、江浦小学校門内に保存されている。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストに、次のとおりデータが登載された。

高田町江浦の里塚石 (二里) たかた、えのうら
みやま市 江浦小学校<三池街道> 一里石 1630年代以降 WEB(みさき道人) 移設/旧藩主・立花家より原石を譲り受けて復元 (正面)「二里」/同上 3 C

高田町濃施の道標  みやま市高田町濃施 ( 福岡県 )

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高田町濃施の道標  みやま市高田町濃施

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。JR渡瀬駅近く、国道208号起路免喜交差点から西の楠田川に出る。楠田川に沿う三軒家集落は、三池街道のうちでも大変賑わった所。柳川橋の川岸に街道の旧橋の場所から移設した追分道標が建っている。

高田町濃施の道標 たかた、のせ
みやま市 (三軒屋)<三池街道> 石道標(凝灰岩) 高90㎝,幅22㎝,厚25㎝ 江戸期? 市有形民俗 WEB 移設/基部は大きなCブロック (正面)「や奈かわ道」、(右面)「セたか道」 2 C

高田町下楠田の里塚石 (三里)  みやま市高田町下楠田 ( 福岡県 )

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高田町下楠田の里塚石 (三里)  みやま市高田町下楠田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。西鉄渡瀬駅の北方、国道208号沿い福正寺の入口にある。

高田町下楠田の里塚石 (三里) たかた、しもくすだ
みやま市 福正寺<三池街道> 一里石 高140㎝,30㎝角 1630年代以降 WEB(みさき道人) 移設/中央で斜めに折損→修復 (正面)「三里」/同上 2 C

(以下は、ブログ「千寿の楽しい歴史・みやま市高田町の有形民俗文化財」による説明)
…下楠田渡瀬南町の福正寺の参道入り口に「三里石」の石柱がある。地上高さ140㎝、縦横各30㎝余の砂岩角柱で、正面上部に「三里」、下部に「江浦道」と陰刻してある。また、地上80㎝余の箇所で折れているものの、修復されて昔の面影をとどめている。
文献によれば、「倉永の市場山下の少し北の位置に、三里石あり」と記されているので、街道の三里石は、現在地より南の隈川のほとりに建てられたのではなかろうか。

祇園神社の参道橋  小郡市祇園1丁目 ( 福岡県 )

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祇園神社の参道橋  小郡市祇園1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道500号により小郡市街へ入る。小郡小学校前交差点の角に祇園神社はある。

祇園神社の参道橋 ぎおん
小郡市 祇園神社 石桁橋(凝灰岩) 長2.8m(2G),幅1.9m 天明年間(1781頃) WEB(石橋) /WEB(みさき道人) 中央を除いて、橋面がアスファルト舗装/水路が埋められていて橋の機能なし 小規模だが、立派な高欄/石桁と橋面石の二重構造/土に埋もれて見えないが、周辺の同規模の太鼓橋がすべて2径間なので、恐らく2径間だと思われる 4 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,440 祇園神社参道橋

小郡市祇園1丁目
橋長:2.8m  橋幅:1.9m  円弧桁橋
架設:天明年間(1781年頃)

国道500号線のすぐ脇
左手前の壊れているところに横たわっている石には、「天明」の文字が刻まれています。

西海道(西路)の道路遺構  福岡県小郡市・佐賀県鳥栖市 ( 福岡県 )

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西海道(西路)の道路遺構  福岡県小郡市・佐賀県鳥栖市

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。私はここかどうかわからないが、県道14号曾根崎・端間間の福童付近の福岡県小郡市・佐賀県鳥栖市の県境ラインで確認した。この用水路が概ね現在の県境らしい。

西海道(西路)の道路遺構 さいかいどう
小郡市・佐賀/(三養基)基山町 <西海道(西路)> 道路 古代(律令期) 古代道路研究会 畑となっており、判別が困難 筑後と肥前の国境沿いに西海道西路が通っていた 4 C

中村太一氏研究紀要HP「地理資料にあらわれた古代駅路」(PDF)3〜4頁は、次のとおり。掲載図も同HPから。

3 地図②—行政境界線
古代の主要道路は、しばしば国郡郷の境界線として利用される。これは、計画道路が大地に刻まれた明瞭なラインを形成しており、境界線に活用しやすかったためと考えられる。このことから逆に、現在の直線的な行政境界線を探し、古代道路の路線を復原・想定する方法がある。
図4は、肥前・筑後国境と西海道駅路との関係を示したものである。大宰府から南下する駅路は、基肆駅家で肥前方面への駅路と、筑後・肥後方面に向かう駅路に分岐する。そして、肥後方面への路線のうち高原川付近から宝満川以南までの区間が、現在の佐賀県基山町・鳥栖市と福岡県小郡市の県境となっている。
この県境は、古代以来の肥前と筑後の国境になる。この路線は、幅15m前後の帯状の窪地(A・B地点)や、幅22m程度の堤防状地割(C地点)が見出され、駅路の痕跡である可能性が非常に高い5)。

(2015年2月22日 追 記)
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータが、次のとおり修正された。本ブログ記事も、現地再調査のうえ近日中に差し替えしたい。

西海道(西路)の道路遺構 さいかいどう
(三養基)基山町 <西海道(西路)> 道路 長約60m 古代(律令期) 木下 良 畑となっており、判別が困難/現在確認できる場所は、甘木鉄道と小郡市との境界線の交差する南側の60m程度のみ 筑後と肥前の国境沿いに西海道西路が通っていた 4 C

宮ノ陣の道標  久留米市宮ノ陣2丁目 ( 福岡県 )

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宮ノ陣の道標  久留米市宮ノ陣2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。所在場所がわかりにくいので、地図を載せる。

宮ノ陣の道標 みやのじん
久留米市 思案橋北 石道標 高143㎝,24㎝角 天保14(1843) 小郡市教育委員会/WEB(みさき道人) 原位置?/下3分の1で水平に折損→修復 (正面)「右 於古”ふり さ以ふ/左 たしろ 左可”」(=小郡,佐賀) 2 C

HP「豊前街道・道中記」松崎〜府中(久留米)による記録は、次のとおり。

長崎街道・田代宿から追分けて久留米へ至る「くるめ道」(久留米では肥前道と呼ぶようです)は、新宝満川の支流の思案橋川の河口に架かる思案橋、そして築後川の宮ノ陣橋の袂にあった宮地の舟渡しを経由して久留米へ入っていました。新宝満川の支流の思案橋川の河口近くに架かる思案橋の北側の袂・正面に「思案橋北側追分石(名前そのままです)」が残っていて、追分石には「左たしろ さが、右おごふり さいふ」と彫られています。なお、思案橋のすぐ東側(向かって右側)には西鉄天神大牟田線の線路、そして県道88号線が並行して走っています。

長崎街道・田代宿から思案橋までの区間はJR田代駅やJR鳥栖駅、そして鳥栖商工団地の開発により、その面影はほとんど消えてしまったようですが、田代が久留米のほぼ真北に位置することから、現在の国道3号線からそれほど離れずに続いていたものと思われます。

諸富日吉神社の参道橋  大川市諸富 ( 福岡県 )

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諸富日吉神社の参道橋  大川市諸富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。大川市の北部。県道710号本木室交差点などから行く。

諸富日吉神社の参道橋 もろどみ、ひよし
大川市 諸富日吉神社 石桁橋(花崗岩) 長2.3m(G),幅1.9m 文久2(1862) WEB 装飾高欄以外は、小規模 1 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№3,456 諸富日吉神社参道橋

大川市大字諸富(もろどみ)
橋長:2.3m  橋幅:1.9m  単径間桁橋
架設:文久2年(1862)

幡保の里塚石(礎石)  大川市幡保 ( 福岡県 )

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幡保の里塚石(礎石)  大川市幡保

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道208号兼木町交差点から北へ県道765号へ入る。田口小学校の隣りに大川市田口コミュニティセンターがあり、「幡保の里塚石(礎石)」は、折れた上部のみ玄関横に移設し展示されていた。
大川市教育委員会「おおかわの歴史」平成23年発行94頁にこの現在の写真があり、「柳川城辻門から一里を示します。もとは国道208号沿い幡保の江頭エーザイ前に設置されていました。」と説明している。

幡保の里塚石 はたほ
大川市 田口コミュニティセンター 一里石(尖頭角柱) 江戸期 市教委/WEB(みさき道人) 再移設/下半分折損→紛失 (正面)「柳河…」/柳河藩では一里塚の代わりに一里石を置いた(柳川市に残る一里石とは書体が異なる→全国でも一里石を用いたのは、松山藩と柳川藩くらいしか見当たらないが、この点が、同一の揮毫を用いた松山藩と大きく異なる) 4 –

北古賀天満神社のクスノキとクロマツ  大川市北古賀 ( 福岡県 )

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北古賀天満神社のクスノキとクロマツ  大川市北古賀

国道208号兼木町交差点から北へ県道765号へ入る。田口小学校を過ぎ北古賀交差点先の左側に北古賀天満神社がある。
境内のクスノキとクロマツは、かなり大きい。大川市名木・古木百選に選ばれている。樹齢などは記録忘れた。

六十丁堤防  柳川市大浜町 ( 福岡県 )

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六十丁堤防  柳川市大浜町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道766号によりむつごろうランドの方へ向かう。途中の中ノ切交差点先、大浜町「橋本橋」左右に六十丁堤防跡を確認できる。柳川地方干拓の歴史などは、むつごろうランドの展示資料。

六十丁堤防 ろくじゅっちょう
柳川市 干拓堤防 (土堤防→石堤防) 天明年間(1781〜88)→明治7に石造化 市教委 明治7年の台風で決壊→柳川城の石垣石を用いて修復 旧堤防の名残りを一番よく留めている(近代まで引き続き使用されたため) 3 C