九州(大 分 県)」カテゴリーアーカイブ

柞原八幡宮の裏参道石畳  大分市上白木 ( 大分県 )

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柞原八幡宮の裏参道石畳  大分市上白木

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR西大分駅近く国道10号かんたん橋交差点から左折、県道696号に入る。一の坂バス停先から右の柞原八幡宮の裏参道に入り登る。次の鳥居先で二手に分岐するが、右側まっすぐな団地内を通る「車両の通りぬけできません」との交通標識がある坂が、神社への正しい裏参道で、石畳の坂となっている。石畳は幅1.5m、長さ200mほど。
かんたん橋脇には、柞原八幡宮の下宮があり、本宮は県道696号を約3km進む。
柞原八幡宮の本宮は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/4900

柞原八幡宮の裏参道石畳 ゆすはら
大分市 柞原八幡宮・裏参道 石畳道 長約200m 江戸期 市教委/WEB 保存状態良好/石畳の両側の土道は舗装 柞原八幡宮の境内参道ではない(遥か手前) 1 B

杵築の馬つなぎ石  杵築市猪尾三川 橋詰公園 ( 大分県 )

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杵築の馬つなぎ石  杵築市猪尾三川 橋詰公園

杵築城が見える杵築大橋のたもとに橋詰公園があり、入口の敷石に「馬つなぎ石」が展示されていた。現地説明板は、次のとおり。飴屋の坂上のは訪ねていない。

馬つなぎの石

馬をつなぎとめておく石で、杵築の城下町でなければ見られない。今では、飴屋の坂を上がって、右に折れた所にある屋敷(旧藩医 飯塚玄庵邸)の入口に残るのみであるが、昔はいたる所にあったと思われ、城下町の町並みをしのばせている。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータに、次のとおり登載された。

杵築の馬つなぎ石2 きつき
杵築市 橋詰公園 馬繋石 江戸期? WEB(みさき道人) 移設 2 C

亀ノ甲池・菅ノ池  国東市国見町上岐部 ( 大分県 )

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亀ノ甲池・菅ノ池  国東市国見町上岐部

国東市国見町の新涯隧道からオレンジロードにより東南へ向かう。山神宮がある橋脇から岐部川上流へ市道を進むと、下段に亀ノ甲池、上段に菅ノ池があった。
亀ノ甲池の方は、改修記念碑によると「沿革 幕府直轄地日田代官所代官塩屋代四郎氏助言監督のもと 天保六年乙未三月新築堤完成 明治九年下流の現位置に拡張工事着工 仝十二年工事完工…」とあった以外、詳しくは不明。

薦神社(こもじんじゃ)  中津市大字大貞 ( 大分県 )

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薦神社(こもじんじゃ)  中津市大字大貞

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。中津市街の国道212号万田交差点から県道663号に入り大貞交差点先まで行くと、薦神社がある。

薦神社

薦神社(こもじんじゃ)は、大分県中津市に所在する八幡宮で、別名大貞八幡宮(おおさだはちまんぐう)とも称される。境内の三角池(みすみいけ:古くは「御澄池」と記すこともある)を内宮、神殿を外宮とする。全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれ、承和年間(834-848年)の創建と伝える古社である。

由緒
養老3年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱(大隅国府襲撃)で大伴旅人が率いる大和朝廷軍および宇佐神宮の辛島波豆米(からしまのはづめ)率いる宇佐「神軍」が、薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、薦枕(こもまくら)を神体に、神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと言われる。この薦刈神事は現在6年ごとに行われる宇佐神宮行幸会の中で辛嶋一族が当時より行い伝えている[要出典]。
大貞の「貞」の字には占いの意味があると言われ、道教との関連性も指摘されている。
薦神社と三角池は、「三角池と薦神社」として昭和51年(1976年)3月30日に大分県指定史跡、「三角池の水生・湿地植物群落」が大分県指定天然記念物に指定されており、神門は国の重要文化財に指定されている。

参考文献
・『写真集 薦神社 神門編』、薦文化研究所、平成11年
・谷川健一編『日本の神々 – 神社と聖地』第1巻九州、白水社、1984ISBN 4-560-02211-9
・『大分県の文化財』、大分県教育委員会、平成3年

川平間歩  中津市本耶馬渓町 ( 大分県 )

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川平間歩  中津市本耶馬渓町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、水土里ネット荒瀬井堰から。中津市街から国道212号により本耶馬渓町へ向かう。三光土田は、青の洞門のだいぶんまだ手前である。荒瀬井堰の「川平間歩の跡」は、国道に案内板がなく場所がわかりにくいから、所在地図を参照。

国道が県道672号と交差する三光土田の樋田交差点近くから、サイクリング道路へ入る。この道路は、中津市の中津駅から下毛郡山国町(現中津市)の守実温泉駅間に、大分交通が運営していた鉄道路線「耶馬渓線」跡である。1975年に全線が廃止された
2つの鉄道跡トンネル先のサイクリング道路左脇に「川平間歩の跡」史跡説明板があったが、場所的には、国道先の鮎帰りバス停からサイクリング道路(「日田街道中津往還」の道でもある)に入り戻った方が、近くてわかりやすい。

川平間歩 こうべら
中津市 山国川→荒瀬井路 素掘トンネル(水路) 長1.2㎞ (トンネル9ヶ所を含む切通し部計) 元禄2(1689) 県史跡 市教委/WEB 昭和56非現役/昔のままのノミの跡が残る 施主: 中津藩主・小笠原長胤/上記の「荒瀬井路」のための隧道/「堀り屑一升、銭一升」といわれた難工事→奉行・片桐九大夫に命じて草本金山を閉鎖し採鉱夫150人を総動員した 1 B

現地説明板は、次のとおり。「川平間歩」は現在は使われていない。昭和56年、川下側に新トンネルの水路が完成しているが、その様子は後ろの写真のとおり。

県史跡指定  水の洞門・川平間歩(かわべらまふ)

荒瀬井堰は、下毛原台地真坂、山口、鶴居、大幡、三保、如水、和田、今津、旧八ヶ村百余町歩(後千町)の水田潅漑の悲願達成のため、旧中津藩主小笠原長胤が貞享3年(1686年)10月着工、藩の運命を堵けた大工事であった。中でも山国川沿いの岩山をうがった仏坂川平間歩(トンネル)は「堀り屑一升、銭一升」といわれた難工事で奉行片桐九大夫に命じて草本金山(現山国町)を閉鎖して採鉱夫150人を総動員して3年後の元禄2年(1689年)3月通水に成功した。ところが、川平間歩(千メートル)は岩質がもろく、永年の風化と近年の交通量増大振動による落石落盤ががひどく昭和56年竣工の総工費3億4千万円の付け替え新トンネルに「水の洞門」の役目をゆずり、292年間の通水を止め廃坑となりました。手堀りの当時のままの内部断面は幅・高さ平均2mの箱形で、一番間歩から九番間歩までサイクリング道(旧耶馬溪線跡)に沿って続いて土出口や手堀りののみの跡に300年前の難工事の跡が偲ばれる。青の洞門を30年かけて堀抜いた禅海はこの「水の洞門・川平間歩」の岩盤と堀方を手本にして46年後の享保20年(1735年)着工を決意したといわれている。
昭和59年3月  中津市教育委員会

荒瀬井堰  中津市本耶馬渓町 ( 大分県 )

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荒瀬井堰  中津市本耶馬渓町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、水土里ネット荒瀬井堰から。中津市街から国道212号により本耶馬渓町まで行く。青の洞門近くの山国川に国道の耶馬渓橋が架かり、下流には8連のアーチ式石橋耶馬渓橋が架かる。この間にあるのが荒瀬井堰の取水口である。

井路はこれからすぐトンネルの連続となる。鮎帰りバス停から近くへ下ると、当時の状況が残る県史跡「川平間歩の跡」があるが、これは次記事とする。私が井路の現況を見てまわったのはその下流。撮影写真は、国道の樋田交差点から三光土田の松元整形外科の方へ入ったところ(県道102号沿い)と、まだ下流、三光臼木あたりの谷間平野部の水路である。

荒瀬井堰 あらせ
中津市 山国川 用水 長13㎞ 元禄2(1689) 市教委 一部石積護岸 施主: 中津藩主・小笠原長胤/樋田村から仏坂・臼木・諫山など北東28ヶ村約1000町歩の田の灌漑を目的とした用水路 3 C

下筌ダム・松原ダム  日田市中津江村・大山町ほか ( 大分県 )

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下筌ダム・松原ダム  日田市中津江村・大山町ほか

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。熊本県菊池市から国道387号などにより兵戸峠を越し大分県日田市へ出たため、途中の風景。1〜3枚目は下筌ダム、4枚目は梅林橋から見た松原ダム。

下筌ダム

下筌ダム(しもうけダム)は大分県日田市と熊本県阿蘇郡小国町にまたがる、一級河川・筑後川水系津江川に建設されたダムである。

国土交通省九州地方整備局が管理をする国土交通省直轄ダムで、高さ98.0メートルのアーチ式コンクリートダムである。1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日本水害による被害を受け、筑後川水系治水基本計画の一環として下流にある松原ダム(筑後川)と同時に建設された特定多目的ダムであり、筑後川の治水と日田市への利水、水力発電を目的としている。また、菊池川水系とトンネルによって貯水を融通している。ダム建設に伴って繰り広げられた日本最大級のダム反対運動・「蜂の巣城紛争」の舞台としても知られている。ダムによって形成された人造湖は、蜂の巣城紛争にちなんで蜂の巣湖(はちのすこ)と命名された。

松原ダム

松原ダム(まつばらダム)は大分県日田市、一級河川・筑後川(大山川[1])の本川上流部に建設されたダムである。

国土交通省九州地方整備局が管理を行う国土交通省直轄ダムで、高さ82.0メートルの重力式コンクリートダムである。1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日本水害による深刻な被害を契機に、筑後川水系治水基本計画に基づいて上流の下筌ダム(しもうけダム。津江川)と同時に建設された。筑後川の治水、福岡市をはじめとする福岡都市圏への利水、及び、水力発電を目的とした特定多目的ダム。ダム建設に際して起こった「蜂の巣城紛争」は日本最大級のダム反対運動としても知られている。ダムによって形成される人造湖は、地元の特産であるウメにちなんで梅林湖(ばいりんこ)と命名された。

石坂石畳道  日田市花月坂ノ下ほか ( 大分県 )

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石坂石畳道  日田市花月坂ノ下ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。日田市の北島部、国道212号により向かう。花月集落の左手に入口案内標識があり、花月川上流の橋の先まで行く。
私が訪ねたのは、坂道入口付近のみ。

石坂石畳道 いしさか
日田市 (市ノ瀬〜伏木峠)<日田往還> 石畳道 長1.21㎞,幅2.2-2.8m 嘉永3(1850) 県史跡/歴史の道百選 市教委/現地解説板 保存状態良好/石畳の中央と両側部で風化の度合いが異なり他に例のない2色の石畳となっている 隈町の掛屋・京屋作兵衛が周防の石工に私財で造らせた石畳道/牛・馬の歩行の便を考慮して工夫して作られている/16ヶ所の屈曲部をもつ峠道/石畳の中央部分(約96㎝)には堅い切石、その両側(各約60㎝幅)に山の自然石を敷く/勾配の急な部分には牛馬の通行を考え2・3歩進んでは1段上がるよう緩い段差が設けれている 1 A

羅漢寺橋  中津市本耶馬溪町 ( 大分県 )

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羅漢寺橋  中津市本耶馬溪町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道212号中津市本耶馬渓町の耶馬渓橋から約1.1km上流に架かる。

№430  羅漢寺橋

本耶馬溪町大字曽木-跡田
山国川
橋長:89.0m  橋幅:4.5m  径間:26.25m  拱矢:4.6m
3連アーチ
架設:大正9年(1920)
石工:岩渕万吉、松田新之助
耶馬渓橋より国道212号線を1.1Km南下、左折すぐ架かっています。

青の洞門  中津市本耶馬渓町樋田 ( 大分県 )

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青の洞門  中津市本耶馬渓町樋田

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。国道212号中津市本耶馬渓町の耶馬渓橋の上流川岸にある。県道44号トンネル歩道側に入口がある。

青の洞門

青の洞門(あおのどうもん)は、大分県中津市本耶馬渓町樋田にある洞門(隧道、トンネル)である。

概要
名勝耶馬渓に含まれ、山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置する。全長は約342mで、そのうちトンネル部分は約144m。大分県の史跡に指定されるとともに、耶馬日田英彦山国定公園の域内にも含まれる。晩秋の紅葉時期は特に観光客が多い。
地形の関係上、一部では幅員が狭いため信号を使った片側交互通行が行われている。

歴史
1750年(寛延3年)に第1期工事が完成し、最終的に開通したのは1763年(宝暦13年)であった[1]。
諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる。
1750年(寛延3年)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている[1]。
1854年(安政元年)から1856年(安政3年)にかけて制作された歌川広重の『六十余州名所図会』には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、この洞門が豊前国の名所として描かれている。
1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて陸軍日出生台演習場への輸送路整備のために大改修が行われ、車両が通過できるよう拡幅された。この工事の結果、完成当初の原型はかなり失われたが、明かり採り窓等の一部に手掘りのノミの跡が残っている[1]。

恩讐の彼方に
1919年(大正8年)に発表された菊池寛の『恩讐の彼方に』は、禅海和尚の逸話を元にして書かれたものである。ただし、この小説では、隧道は「樋田の刳貫」と呼ばれ、「青の洞門」という名称は用いられていない。また、主人公の僧の名は了海とされている[2]。この小説とは別に、1923年(大正12年)の『尋常小学国語読本 巻十二』でも教材として取り上げられ、これらによって青の洞門は広く世間に知られるようになった[1]。

名称
完成した当時は「樋田の刳抜」(ひだのくりぬき)と呼ばれていたが、江戸時代末期から大正時代にかけて、「樋田のトンネル」や「青の洞門」と呼ばれるようになったとされる。 1906年(明治39年)の観光案内書『耶馬渓案内記 : 天下第一の名勝』では「山陰鑿道(さんいんさくどう)又洞門と呼ぶ」と紹介[3]し、洞門を以降で略語として用いている。同書で青地区については「靑(あを) 又靑生(あをふ)と云ふ」「頼翁再遊の帰途即臘月十二日含公と共に一宿せし地(記文 阿保村(あほむら))なれども今其宿舎詳ならず」[4]と頼山陽が訪問したときの故事を紹介している。 1913年(大正2年)の観光案内書『耶馬渓案内記』では伝承を紹介するなかで「之より桟道を樋田の刳貫(ひだのくりぬき)と称し交通頗る便となった」と記し[5]、「耶馬渓靑洞門 Aonodo-mon at Yabakei.」と書かれたトンネル入り口の写真を紹介している[6]。 1914年(大正3年)の『山水随縁記』には「進んて耶馬渓の入口たる靑の洞門に至れは、今尚ほ有名なる樋田の隧道を見む。」とある[7]。 「青の洞門」が用いられた他の初期の例としては、1923年(大正12年)の『尋常小学国語読本 巻十二』や、1942年(昭和17年)の大分県の史跡指定がある[1]。