長崎の風景・史跡 (市東南)」カテゴリーアーカイブ

伊王島町ふるさと資料室  長崎市伊王島町

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伊王島町ふるさと資料室  長崎市伊王島町

長崎市伊王島行政センターの右に伊王島開発総合センターがある。「伊王島町ふるさと資料室」は、この建物の2階。同町の貴重な資料を展示しているが、あまり広報されていないので、展示内容を写真により紹介する。
HP上で見ると、次の記事しか見当たらない。長崎さるくコースに入っていない。行政センターの所管で、土・日曜など休館?

2001年4月9日、長崎県西彼伊王島町が整備を進めていた「町ふるさと資料室」が同町開発総合センター2階にオープンした。1941年から約30年間栄えた伊王島炭鉱の歴史をまとめ、現存する炭鉱に関する資料や島の生活道具の散逸防止と継承を目的に、同センター図書室を改修した。

「伊王島大橋」が3月27日に開通  長崎市伊王島町

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「伊王島大橋」が3月27日に開通  長崎市伊王島町 

長崎新聞2011年3月28日の”ながさきニュース”は次のとおり。写真は4月1日撮影。1枚目は香焼側の総合公園展望台から、8枚目以降は伊王島側の遠見岳中腹から。

長崎「伊王島大橋」開通  離島結び利便性や交流拡大に期待

長崎市の離島、伊王島町と本土側の同市香焼町を結ぶ「伊王島大橋」が27日、開通した。橋の供用開始で島と同市中心部は車で30分。通勤・通学、救急搬送など島民の生活の利便性向上や交流人口の拡大が期待される。

橋は、一般県道伊王島香焼線の一部で全長876メートル。片側1車線で歩道が北側にあり、通行は無料。県が1997年度から建設を進めていた。総事業費約120億円。1日平均625台の利用を見込んでいる。

開通式には地元関係者ら約200人が出席。中村法道知事は「住民の利便性や物流の効率化、地域産業の活性化に寄与すると期待している」とあいさつ、テープカットで開通を祝った。東日本大震災を受け、くす玉割りや楽器演奏などは行われなかった。
午後には一般車両の通行が始まり、県内外からの車で早速、島内がにぎわった。

4月3日、会で実施した「深堀から香焼と伊王島大橋ウオーキング」の様子は、
https://misakimichi.com/archives/2654

長崎南環状線が2月13日に全線開通

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長崎南環状線が2月13日に全線開通

長崎自動車道と長崎市の女神大橋をつなぐ県道・長崎南環状線(田上IC〜大浜IC、8.2km)が、全線開通した。田上IC〜新戸町ICを結ぶ3.1km区間が新たに完成し、一般車両は2月13日午後3時から通行できるようになった。
写真は、当日の開通の様子。大塚氏撮影。長崎南環状線の整備状況図は、長崎県県長崎南バイパス建設事務所ホームページから。asahi.com 記事は次のとおり。

長崎南環状線、13日全線開通 周辺の渋滞緩和に期待 …    2011年2月12日

長崎自動車道と長崎市の女神大橋をつなぐ県道・長崎南環状線(田上IC〜大浜IC、8.2キロ)が13日、全線開通する。田上IC〜新戸町ICを結ぶ3.1キロ区間が新たに完成し、一般車両は
13日午後3時から通行できる。長崎自動車道から長崎湾を挟んで反対側にある大浜町までの車の流れが大幅に改善され、周辺道路の渋滞緩和が期待できるという。

長崎南環状線は、長崎湾沿いを走る国道499号の慢性的な渋滞緩和などを目的に1991年に県が計画した。片側1車線の自動車専用道路で、女神大橋を除く区間は通行無料。今回開通する田上IC〜新戸町ICは2005年から県が約115億円をかけて整備を進めていた。

県長崎南バイパス建設事務所によると、これまで長崎IC〜新戸町は県道237号(小ケ倉田上線)経由で約14分かかったが、長崎南環状線の全線開通で約4分に大幅短縮される。新たに開通する区間の交通量は1日約1万1千台が見込まれ、通勤時間帯に交通量が増える国道499号や県道237号の渋滞緩和が期待できるという。

長崎市民の森 森林体験館  長崎市茂木町

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長崎市民の森 森林体験館  長崎市茂木町

長崎市民の森 森林体験館の概要。同館HPは、http://taikenkan.kohbou.net/
HPの「市民の森紹介」は、次のとおり。最後の写真は、茂木と遠く島原半島。

長崎市民の森は、長崎開港400年を記念して作られた森林公園です。唐八景から八郎岳に至る長崎半島の稜線を中心に、長崎港や市街地、茂木の海岸線、遠くは橘湾を隔てて雲仙、天草が眺められる景勝地です。
広大な森林公園内には森林体験館や運動広場、ケビン、キャンプ場も整備されており、野鳥の森、昆虫の森のエリアも含め市民のレクレーションや自然観察に利用できます。
市民の森にはスギやヒノキが植林されていて、幹周り3m以上もある巨大スギも見られます。森ではツグミ、カシラダカ、カケス、キクイタダキ、ジョウビタキ等が多数の野鳥が観察できます。初夏にはヒメシャラが清楚な花も咲かせ、初秋にはツリガネニンジンの花も見られます。

長崎市民の森 森林体験館
〒851-0241 長崎県長崎市茂木町1010-1
TEL 095-825-6705 FAX 095-825-6707
開館時間 9:00〜17:00 休館日 1月2日〜1月7日

伊王島大橋(仮称)の橋桁架設工事  (3)中央ブロック(B)

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伊王島大橋(仮称)の橋桁架設工事  (3)中央ブロック(B)

長崎市伊王島町と香焼町に架橋中の伊王島大橋(仮称)。最後の中央ブロック(B)部分の橋桁架設工事が今朝終り、伊王島大橋が繋がった。
伊王島大橋の全体が完成し供用となるのは、平成23年春の予定。最後の完成予想図は長崎県(長崎振興局道路建設課)HPのパンフレットから。

中央ブロック(B)橋桁架設工事は、9月20日(月)起重機船から吊り降ろす寸前まで行って、うねりのため中止となり、きょう25日(土)に延期された。
自宅から見ていると5日間、橋桁は起重機船に吊り下げられたまま高島側の沖に待機していた。今朝6時頃から船が動き出した。すぐ香焼の辰の口海岸及び総合運動公園展望台へ行って、架設状況を写してきた。ドッキングしたのは8時15分頃。
報道関係者や一般の見学者が、きょうは多かった。

伊王島大橋(仮称)の橋桁架設工事  (2)香焼側(C)

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伊王島大橋(仮称)の橋桁架設工事  (2)香焼側(C)

長崎市伊王島町と香焼町に架橋中の伊王島大橋(仮称)の橋桁架設工事が始まっている。この工事により、伊王島大橋の全体が繋がる。
長崎県(長崎振興局道路建設課)HPによる架設日程などは、次のとおり。伊王島大橋の全体が完成し供用となるのは、平成23年春の予定。

9月14日の伊王島側ブロック(A)に続き、きょう9月17日香焼側(C)が架設されているので、午前10時20分頃、香焼総合運動公園展望台に行って写してきた。それが最後の写真。
大塚氏が来ており、朝からの架設状況を撮影していたので、最初の1〜5枚とおり、必要な画像を借りた。

・架設日程
平成22年9月14日(火) (伊王島側ブロック)(A)
平成22年9月17日(金) (香焼側ブロック)(C)
平成22年9月20日(月) (中央ブロック)(B)
※荒天等により作業が変更になる場合があります。

・架設方法
上図のとおり。

・作業時間(架設当日)
【9月14日(火)・9月17日(金)】
① 7:30頃 ブロックを吊った大型起重機船が現地に進入
② 9:00頃 ブロック設置作業開始
③12:30頃 ブロック設置完了(吊り荷重開放)
④16:30頃 大型起重機船が現地から出域

【9月20日(月)】
① 7:30頃 ブロックを吊った大型起重機船が現地に進入
② 9:00頃 ブロック設置作業開始
③13:30頃 ブロック設置完了(吊り荷重開放)
④17:00頃 大型起重機船が現地から出域

・工事の見学について
工事の状況については、香焼総合運動公園展望台にて見学可能です。

伊王島大橋(仮称)の橋桁架設工事  (1)伊王島側(A)

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伊王島大橋(仮称)の橋桁架設工事  (1)伊王島側(A)

長崎市伊王島町と香焼町に架橋中の伊王島大橋(仮称)の橋桁架設工事が始まった。この工事により、伊王島大橋の全体が繋がる。
長崎県(長崎振興局道路建設課)HPによる架設日程などは、次のとおり。伊王島大橋の全体が完成し供用となるのは、平成23年春の予定となっている。

きのう午前10時頃、香焼辰の口海岸へ行ったら、伊王島側ブロック(A)の架設はすでに完了していた。橋桁ブロックは、JFEエンジニアリング津製作所(三重県)及びハルテック和歌山工場(和歌山県)の2拠点で製作され、約5日かけて海上輸送されている。     

・架設日程
平成22年9月14日(火) (伊王島側ブロック)(A)
平成22年9月17日(金) (香焼側ブロック)(C)
平成22年9月20日(月) (中央ブロック)(B)
※荒天等により作業が変更になる場合があります。

・架設方法
上図のとおり。

・作業時間(架設当日)
【9月14日(火)・9月17日(金)】
① 7:30頃 ブロックを吊った大型起重機船が現地に進入
② 9:00頃 ブロック設置作業開始
③12:30頃 ブロック設置完了(吊り荷重開放)
④16:30頃 大型起重機船が現地から出域

【9月20日(月)】
① 7:30頃 ブロックを吊った大型起重機船が現地に進入
② 9:00頃 ブロック設置作業開始
③13:30頃 ブロック設置完了(吊り荷重開放)
④17:00頃 大型起重機船が現地から出域

・工事の見学について
工事の状況については、香焼総合運動公園展望台にて見学可能です。

深堀の散策 (7)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

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深堀の散策 (7)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  3    城山全景(平山台と大籠町バス停から)と登る途中、平山台団地・為石方面を望む。

写真  4〜  6   (43)城塁及五条の空溝
城山(350m)の頂上に東西約200m、南北約100m、厚さ約4mをもって同山頂上を鉢巻状に石片と土をもって構築せられた城塁である。其の年代、目的等はさだかでなく中世期になるものと判定があるのみで学術的解明が期待せられる。
建長7年(1255年)3月彼杵戸八ヶ浦荘を将軍宗尊親王より賜った時、10万石の諫早をとるか天下の名城城山に赴くか二者択一の際、天下の名城を拝せん旨を申し上げたとの言い伝えがある処より、それ以前すでに構築せられていた事は間違いない。尚此の際附記して将来の参考に資したい。此の城塁の諸所に立射散兵壕が作られているが、これは第二次世界大戦時の末期に米軍の上陸に備えて築かれたものである。
五条の空溝は西南方に赤土部落方向に作られているもので、規模は長さ約100〜200m、巾約3mの空溝で、溝の両側には石をもって界を作っているものが五条あるもので、之が構築された時代及目的は城塁と共に今尚謎とされている。学術的解明を望むや切なるものがある。

写真  7〜  9   (44)八 幡 神 社
標高350mの城山(俵石山とも云う)の山頂にある社で、此の神社は建長7年3月28日上総より下向の際鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分神を奉持して此の地に祀ったもので、此の記録は境内祠に向って左側に石碑があるが今は風化甚だしく剥離し去って読み得べくもないが、その拓本(重建俵石八幡石詞誌銘参照)によれば菩提寺十一世鶴天大キ大和尚の撰銘にして、其の冒頭に「肥の前の州彼杵郡深堀邑俵石山八幡宮は原(もと)総州鶴ヶ岡八幡宮の若社也而して此の地に遷崇して凡そ茲に五百年なり。そもそも彼の八幡は往時三浦義明(系図参照)相州を領し執柄の日專ら住崇したる所の鎮守也」とある処から、三浦氏の崇信の神を奉遷したのもむべなる事である。古来八幡社は武神として崇められ、八幡大菩薩の旗をおし立て南支、ルソン方面を荒し廻った往時を追懐する時、祖先が如何に此の神社を尊崇したかがわかる様な気がする。
日露戦争の際有海の青年が此の境内にひる寝をした処、沢山の鎧武者が西北方へ向って出陣する様を夢現に見たそうである。其の人は誰であるか探していると前村長の志波原三郎氏から聞いた筆者の青年時代を思い出す。これは取るに足らないかも知れないが附記しておく。

写真 10〜 11   (45)神 籠 石
八幡社の境内にある直径約2m位の楕円形の石である。遠い昔石器時代に神を祭る際に用いたものではあるまいか。

写真 12〜 13    城山の山頂三角点(標高350m)と陸軍省「長崎要塞第二地帯標 第八号」

写真 14〜 19   (46)愛 宕 神 社
例年7月23日の夜此の愛宕山(標高250m)で立木を伐って火を焚く神事で、その起源については考証すべき何物もないが、只だ想像されるのは、その昔八幡船として活躍した和寇共が唯一の頼りとして此の山の火を望見した事もあったかも知れない事で、瀬戸内を夜航海すると或る夏の夜島の山上に火が燃えているのを見る事があるとは、松永隆氏の話しで同地には所謂村上水軍がはびこっていた事を想へば、平戸の松浦党、深堀の三浦党も又同じ様な事をしたと想定する事は唐突なことであろうか。又記録によると寛永15年(1638年)幕命により峰火台を始めて長崎に置くとあるをもって、当時唐、紅毛船の来通多く長崎港出入の見張りをなすに恰好な地でもある野母、香焼、伊王島、各遠見所からの峰火を、深堀で集約し長崎の烽火台へ、そして江戸へ3日を要して達したとも言われる。
此の火祭を主宰する処は3丁目の青年達である。元来3丁目は鍛冶町と呼び火を最も使う鍛冶屋の多い土地柄である此処が、火の神たる火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祭る愛宕神社祭事を主宰するのも当然の事で、今尚続けられている。翌7月24日は獅子舞で早朝から夕方まで、町中の処所を舞い廻る行事が例年行われている。(終)

写真 21(追加写真) 女の坂の首なし地蔵
深堀史跡案内図にはないが、深堀から大籠へ出るみさき道途中「女の坂」にある伝承で有名な地蔵。文久元年「深堀郷図」に地蔵堂がこの場所に描かれているので、それ以前の安置と断定してよい。
伝承の詳しくは、長崎県史談会編「長崎県郷土誌」臨川書店昭和48年刊412頁にある。

深堀の散策 (6)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

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深堀の散策 (6)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  5   (38)座 禅 石
菩提寺六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた処で、此の故に禅定谷と呼ばれる様になり訛って善長谷となったとも言われる。此処には五言絶句の石があるが、現在は風化してその文意さだかならずして且つ2つに割れている。座禅をしたであろうと想像される境石をもって仕切っている。
此処の空をおほふ老木は其の当時のもので今に到るも繁茂しこれを切れば祟りがあると信じられて誰も伐る者がない。
(老木は「タブノキ」。次を参照。 https://misakimichi.com/archives/534

写真  6〜      (39)藩 主 の 水
座禅石より東約100mの谷に清水が垂れ落ちている。現在は善長部落の用水に取水されているが、盛夏時には渇水する程の水量である。善長にお水方がいて所要に応じて運んでいた。

写真  7〜 14   (40)カトリック部落善長
此の地の歴史は比較的新しく、文化年間(1804年)甚介の子佐八が六家族を旅芸人の風を装い三重樫山から脇岬の木場、ゆりさき(鯨浜附近)を経て此処に住みついた。住みつく条件として八幡神社の毎月の祭礼及お水方として藩主用の水汲みの役を果す事であった。八幡社の祭礼を行う事は勿論隠れキリシタンで表向きは菩提寺の檀徒であった。それは佐八の碑銘には実三悟道信士天保九戌三月十三日とあるを見ても明らかである。(略)

明治維新信教の自由が認められ、此処に於いても今迄で隠れキリシタンで迫害を避けていたので、公然とキリスト教徒として立つ事の会議を開いたが、一部は今迄自分達が祀って来た神があるのではないか、何も明治になって信教の自由が認められたからと言って改宗の必要はない。との両論に分れその結果としてカトリック教徒は善長に残り、今迄通りの一派は蚊焼の岳路に袂を分つ事となり、今もカトリック教会に属せぬ「離れ切支丹」として密教的信仰を持ち続けている。八幡社の祭礼は今尚此の岳路善長の人達に依って祀り継がれている。濃緑のきれいな砂も同地から運び来ったもので、神社の200m手前の鳥居の根方に履物を脱いで参拝するを礼とし、水も途中休む事なく、肩から肩へ担いつがれて運ばれると言われている。

尚此処で深堀藩とカトリックの関係に就いて江湖の誤解を解くため参考迄に記しておくが、非切支丹深堀藩の支配下にあった所に、案外カトリック教徒の部落が多い事は特異的であろう。例へば三重の樫山、戸町の奥の大山、長崎港口に位置する神之島、蔭の尾、伊王島、そして善長等皆そうである。按ずるにこれは当藩においては同教を奨励はしないまでも黙認していたのではないかと思われる。海外との密接な関係(例えば貿易)などにより、耶蘇教への本質的理解が充分にあったのだということも考えられる。
(「善長谷開拓碑」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/129

写真 15〜 16    善長谷教会上にある「ゆうこう」の大木    

写真 17〜 18   (41)俵   石
直径約30cm長さ1m〜1.5mの柱状の石が地中に規則正しく配列され或は地上不規則に散乱し其の数量は無数である。これを俵石と呼んでいる。
一説は古代人の手になるとするもので宮摺方面から為石に運び同所の川をさかのぼり平山方面から城山に運び石垣を築いたとする説。又一方「柱状節理」と言う言ふ現象により俵石が出来たとする自然説があって、考古学的はたまた地質学的に興味深いと思われる。

写真 19〜      (42)亀   石
俗称簡笥石と言われ1m×2m×1m位の石に亀の甲状に線が入った石で、俵石群から東北約100mの中腹にある珍しい石で、俵石と同様人工、自然の両説あり。

深堀の散策 (5)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

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深堀の散策 (5)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  なし     (33)有 王 塚   略

写真  1〜  2  (34)遠見番所跡
現在はその跡はないが、今香焼への送電線鉄塔が建っている附近にあったと伝えられている。此処で香焼島の遠見台(円通寺の上の高い処)と連絡を取り異国船の出入を監視した。

写真  3〜  4  (35)煙 硝 庫 跡
旧藩時代の火薬庫で、其の位置は現在秋葉社附近の八幡神社の一の鳥居附近であったと伝えられている。

写真  5〜  9  (36)箱 式 石 棺(大籠町778の2)
大籠町に切石をもって築かれている。その築方から見て可なり古く、将来研究される価値あるものと思われる。
(大籠町バス停下の公民館から石段を下ると、小さな三浦神社(旭琴姫大明神)がある。新田神社より古く、端島の人が主に信仰した。旧社は現在の鳥居前の竹薮。ここに石棺があり30年ほど前、ある大学が一帯の発掘調査をした。石棺は並んで4基確認され、櫛・貝など出土した。現在は下に小屋ができ切土されているが、石棺の片側半分は残っている。近くの家の庭にある石が、蓋となっていた浜石の一部である。 大籠町西清氏の案内説明談)

写真 10〜 11   三浦神社近くにあるアコウとエノキの大木 

写真 12〜 17  (37)新 田 神 社(大籠町)
新田義興を祀る神社で、其の奉起の原因及時期はさだかでないが義興が矢口渡に誘殺されたので正平13年(1358年)で、それより100年位前に此の地に新田正久が居住していたと言われている。

写真 18〜 19   新田神社手前の地蔵堂。かつての分校跡地