長崎の台場・番所など跡」カテゴリーアーカイブ

諌早領役屋敷

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 長崎市矢上町の番所橋近くにある。現地の説明板は次のとおり。

諌早領役屋敷
役屋敷は、長崎開港につれ、佐賀藩主、諌早藩主、肥後藩主との報告、連絡、紛争、願書の処理などが頻発したために、諌早領地の西端であるこの地に設けられたものである。往時には3名で執務しこの付近の民事、刑事等のことから願書、その他一切の仕事を専決処理した。
敷地には、武道場や武道稽古場、娘、子供の手踊りなどの稽古場があったという。
環境省・長崎県

脇岬狼煙台跡とは、どこにあるのか

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脇岬狼煙台跡とは、どこにあるのか

長崎県遺跡地図の野母崎町に「脇岬狼煙台跡」が表示されてある。場所は最近、風力発電の風車が建った野母崎グリーンパークモトクロス場のある所である。この一角に標高280mの小高いピークがある。現在の5万分の1地図では無名峰である。標高を比べると遠見山が259m、殿隠山が263mであるから、それらより高い。

長崎名勝図絵によると高浜の背後に「笠山」が描かれ、陣所のマーク□がある。小ヶ倉の大久保山こと「笠山岳」とは別のようであり、別資料の長崎市教育委員会昭和50年発行「長崎市周辺ハイキングコース」27頁、殿隠山のコース図に、ここは「△高遠見山 283m」とされている。資料提供は長崎市山岳連盟で、長崎岳人会故臼木寅雄氏の資料と思われる。この人は地元の話をよく聞き、書いていることはあまり間違いなかった。

そこでさっそく出かけてみた。県の資料を調べれば正確な位置があるかも知れないが、目星をつけて探すのがおもしろい。しかし、わからなかった。やむなくモトクロス場の経営者の方に聞いてみた。高浜の山口さんで現地に案内してくれた。モトクロス場の広いコースのある一番高い所の方となり、土塁で築かれていた。直径4m、高さ1.5mほどの土盛りの円形が確認できた。

今は中は完全に埋まって木が生えている。探してもわからなかったはずである。木立がなかったら四方見渡せる良い場所である。山口氏の父親が畑とするため掘っていて見つけ、寛永時代のものか茶碗のかけら等が出てきて、博物館へ引き継いだという。
まだ、昔の山名に関することは、わからないままでいる。 (この稿は平成17年記)

白崎台場跡  大きな石柱2本残る

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白崎台場跡  大きな石柱2本残る

女神から小ヶ倉へ行く海岸沿いの国道に「白崎」バス停がある。小峰商店横から石段を登りつめた所の宅地石垣に「従是南佐嘉領」の藩境石が埋め込まれていることは、知られている。
しかし、長崎港を警備するため平戸藩が幕命を受けて、明暦元年(1655)築いたという「白崎台場」はどこにあったか。長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」や南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書」台場・番所の部を見ても、台場絵図・史料規模などはあるが、具体的な場所がよくわからない。

この台場のことは、昭和53年発行小ヶ倉小創立百周年記念誌「小ヶ倉の歩み」四、ふるさと史料の中にも規模だけ書いてあったので、地元竹内唯夫氏に聞いたところ、場所はバス停小峰商店のすぐ上。古い石垣と竹林の中に大きな石柱が残り、ここではないかと言っていたから、2年ほど前、探しに行って確認したことがあった。
石柱の存在はほとんど人に知られていない。どじょう会の調査もまったく別の場所で記録がない。石柱が何のためのものか判らないが、今回、また行って写真を撮ってきたから、とりあえず紹介してみる。

石柱は石段道のすぐ左道脇。竹林の中の斜面地に落ちたようにして2本転がる。30cm角。かなり大きな石。長い方は3m、短い方は1.2mくらいある。

恵美須山砲台台場跡

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 長崎市川原町にある。高崎一郎さんの「ふるさとものがたり」による説明は次のとおり。これは三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」平成2年4月No.96の「郷土誌余聞 その5」掲載記事である。

恵美須山砲台台場跡

この台場は文化五年(一八〇五)に起きた長崎のフェートン号事件によって設置された。…高浜、川原、椛島の各村の海岸にも大砲の備え場を設けたのである。
川原の台場には恵美須山に設けられ、壱貫目筒壱挾と、松平備前守より差出された五百目筒壱挾が配備された。…
この台場は安政年間にも使用されたものと思われるが、実際に使用されることもなく、現在ではその形跡さえ見ることが出来なくなった。
時代は大きく変化して行く。そのために地元でさえ現在その由緒を知る人はいなくなってしまった。…

国指定史跡 長崎台場跡 魚見岳台場跡

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 長崎市戸町4・5丁目にある。文部省・長崎市教育委員会設置の説明板は次のとおり

国指定史跡 長崎台場跡 魚見岳台場跡  昭和61年1月31日指定

鎖国時代長崎警備のため数次にわたり、長崎港の内外に台場が設けられたこれはその一つ。承応2年(1653)大多越(太田尾)(1番)・女神(2番)・神崎(3番)・白崎(4番)・高鉾(5番)・長刀岩(6番)・陰の尾(7番)の7ヵ所にまず新設され(古台場)、文化5年(1808)2・3・5・7に隣接した台場と沙崩台場が築かれ(新台場)、さらに文化7年(1810)3・5・6番と新たに魚見岳の4ヵ所に増設された(増台場)。
この魚見岳台場は対岸の神崎台場と相対して幅500mの港口を押さえる要地で、弾丸火薬貯蔵の石蔵や一の増台場・二の増台場・三の増台場などの石垣がよく残っている。

四郎ケ島台場跡

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四郎ケ島台場跡

長崎港の入口、長崎市神の島町の先端の島にある。平成19年4月28日に実施した長崎学さるく「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」配布資料による説明は次のとおり。
なお、文化庁平成14年度「近代遺跡(戦跡)の所在調査一覧」「近代遺跡の調査等に関する検討会」544件→50件に、長崎県では、「四郎ケ島砲台」「旧佐世保鎮守府防衛砲台群」「対馬の砲台群」が3箇所が選定されている。

12 四郎ケ島台場跡
文化5年(1808)のフェートン号事件で大失態を演じた佐賀藩では、寛永6年(1853)に藩の総力を挙げて佐賀藩独力で四郎ケ島に最新鋭の台場を完成させた。
工事は神ノ島と四郎ケ島とを繋ぐ約150間(約270m)の堤防造りから始まった。
非常な難工事の末、寛永4年7月に二つの島を繋げると、今度は四郎ケ島を石垣で囲み砲台場を築いた。大砲は佐賀で鋳造し、四郎ケ島に150ポンド砲2門、80ポンド砲8門、36ポンドと12ボンド砲を各2門の計14門を備えた。さらに、佐賀藩では神ノ島と伊王島にも台場を築き、合計54門の大砲で長崎港口を押さえたのである。
ちなみに、国指定の史跡で、当時最も装備が整っていた魚見岳の3つの台場には1貫5百目砲2門、1貫目砲5門、8百目砲3門、7百目砲2門、6百目砲1門、5百目砲5門、3百目砲4門の計22門が備えられていた。12ポンド砲が2貫5百目砲とほぼ同じであったから、魚見岳台場が四郎ケ島と比べるといかに玩具のようなちゃちなもので、四郎ケ島台場の大砲が最新式で飛び抜けた威力をもっていたかがよく分る。

東望山砲台跡 市指定史跡

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東望山砲台跡 市指定史跡

長崎市田中町にある。現地説明板は次のとおり。山頂には三角点42.3mもあった。

長崎市指定史跡 東望山砲台跡
東望山砲台は明治維新のころ(1868ころ)に設けられた最も新しい形式の砲台で、円形台座は直径3.6mである。
長崎周辺の台場跡で台座が残っているのは珍しい。大砲の形式ははっきりわからないが佐嘉藩屋敷から搬入されたという。

長崎港口神崎鼻の「神崎旧台場跡」の現況

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長崎港口神崎鼻の「神崎旧台場跡」の現況

長崎港の港口、女神の対岸となる神崎鼻の突端は、承応2年(1653)最初に築かれた「神崎旧台場」の跡となるが、明治初期からはライジングサン石油会社などの所有地(英字境標石が数本残る)となり、現在は「JF全漁連長崎油槽所」の石油タンクが建ち並び、普通は立ち入り禁止である。

長崎の幕末・明治期古写真の撮影場所探しがあり、今年の3月許可を得て中に立ち入らせてもらった。ついでに台場の遺構がないか見てまわった。なかなかお目にかからない場所なので、現況を写真によって紹介する。

小瀬戸遠見番所と中ノ番所跡・注進船係留杭

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 長崎市西部、みなと坂団地の「船の公園」内にある説明板は、次のとおり。

小瀬戸遠見番所跡

江戸時代の長崎は、わが国で唯一オランダや中国との貿易港でした。小瀬戸遠見番所は、長崎港に来航する異国船を警備するため、元禄元年(1688年)に設置されました。遠見番所のほかに中ノ番所や不寝番所も建てられ、遠見番所は平日2人が昼夜勤務しました。
異国船入港時の連絡方法は、当初「白帆注進船」と呼ばれた船でしたが、この番所の設置によって旗を掲げる方法が併用されるようになりました。野母の権現山→小瀬戸→十人町→観善寺(のちの永昌寺)の各番所にリレーされ、長崎奉行所立山役所に報告されました。
平成5年に小瀬戸番所跡の発掘調査が実施され、遠見番所跡から当時の屋根瓦や陶磁器片などが出土しました。

なお、みなと坂の中腹となる中ノ番所跡は、現在「天神天満宮」が祀られ、この古祠の右内壁に「長崎遠見番中 家内安全 御水主中」の刻みが残っている。注進船係留杭は長崎市小榊支所裏手の駐車場内に、昭和63年移転して設置されている。

女神検疫所境の標石

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女神検疫所境の標石

女神検疫所は明治13年(1880)開設され、長崎港口で伝染病の予防、病人の隔離などをした。前身は「消毒所」といわれる。この検疫所の当時の敷地境界を示す標石が、国指定史跡「魚見岳台場跡」の中に5本ほど残っており、北側の女神台場跡にも1本見られる。寸法は15cm角、高さ52cm。